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この感情の名前


「………」

美都は無心のままキッチンに向かっていた。否、或いは無心ではないのかもしれない。

帰宅して早々上半身だけ着替え、エプロンを着けた。その間も自分の中にある感情に答えが見出せないでいた。

無意識に溜め息が出る。何に対する溜め息なのか、それさえよく分かっていない。夕飯を作り始めてみたものの、その作業はいつもと比べると格段に遅い。

(……どう、なったんだろ……)

彼女は学校を出る前の出来事がずっと気になっている。

同居人と彼女の友人との関係。後を任せてその場を去ったものの、胸の凝りが消えない。

「っ……!」

ふと、膝頭が痛んだ。何事かと思って該当箇所を見ると、そこには擦り傷が出来ていた。そういえば、と先程の戦いを思い出す。宿り魔の体当たりをもろに受けて身体を倒されたのだ。その時に擦りむいたのだろう。

今度はそのことに関して息をついた。情けない戦い方だったと、反省の意味も込めて。

調理をする手を止め、キッチンテーブルにエプロンを放り出して洗面所へ向かう。さほど酷い傷ではなかったもののさすがにこのままにはしておけなかった。

洗面台の蛇口をひねり、手で水を掬う。体勢を屈ませて負傷した箇所に流した。

「……っ」

傷は乾きつつあったが、それでも血が赤い雫とともに流れ落ちる。

「滲みる……なぁ……」

思わず声に出た。見た目より大したものではないと思っていたからなのか。或いは、彼女自身が気づいていない潜在的な気持ちか。

ふくらはぎを伝い踝まで零れそうになる水滴をハンカチで受け止める。少しだけ赤みがかっていたのでそのまま洗濯機へと放り込んだ。

(確かもらった絆創膏が鞄の中にあったっけ……)

戦いの中で負傷した際にと、弥生が持たせてくれていたのを思い出した。

履いていた靴下も脱ぎ、そのまま自分の部屋へと向かう。まるで今の心情のようにふらふらと、行動も落ち着かない様子だ。

自室へと戻り、もらった絆創膏をどこに入れたか思い出しつつカバンの中を探る。手前のポケット、鞄の奥底と確認した時点で、凛とお揃いで買った水玉のポーチの存在を思い出した。

(あったあった)

ポーチの中からさらに小さい袋を取り出す。その中に探していたものがあった。

見つけた瞬間にはたと思い出した。そういえば洗面所に弥生からもらった缶を置いておいたはずだ。嵩張るから持ち歩くときはコンパクトにしようと小分けにしたのだ。美都は大きく溜め息を吐いた。

相当呆けている様だ。ともかくもこの傷が隠れるくらいの絆創膏をと取り出そうとした時、ギィっという重たい玄関の扉が開く音がした。

瞬間、心臓が跳ね上がる。いつもならそんなことはないはずだが今日だけは別だった。それでも普段通りに振舞わなければと、同居人の帰りを確認するため自室を出た。



玄関の扉を開くといつも通りの鈍い音がする。

先刻のことを思い出しつつ、四季は急ぎ足で帰宅した。

愛理に言われてもまだ伝えるべきか迷っている自分がいる。伝えてしまえば元には戻れなくなる。はぁと息を吐きながら靴を脱いで廊下を進む。

いつもなら真っ先に声が飛んでくるはずなのだが、今日は違うようだ。

(いや……最近割と一緒に帰ってたからか)

宿り魔が出現してもしなくても、最近は帰る時間が同じだった。わざわざ自分がそうしていたのだが。普段通りでないことに違和感を覚える。

しかしこの時間なら夕食を作っていてもおかしくないはずだ。そう思いながらリビングまで到達すると、なにやら調理をしたまま放置された食材が目に入った。その光景に首を傾げる。作っていた当人はどこへ行ったのかと怪訝に思ったとき視界の端から聞き慣れた声が聞こえた。

「お──おかえり!」

「あぁ。ただい……ま──」

彼女の声に応じる様に向きを変えたところ、その目に入ったものに言葉を奪われた。

思わず視線が下に向いたのは、もちろんいつもと違ったからだ。部屋着であるパーカーを着ているのは変わらない。制服のスカートも。問題は足元だった。

素足のままスリッパを履いている。そして彼女の膝には傷の様なものが見て取れた。

「……どうしたんだそれ」

「え? あー……さっき戦ってたとき擦りむいたみたいで……」

そう言うと美都は、あははと力無く笑った。片手に絆創膏を持っているのはそのためか。

先程の戦闘は状況的にも任せるしかなかった。思い返してみると確かに動きが鈍かったかもしれない。無理もないか、狙われたのは彼女の友人だ。

だが最近そういうことがなかっただけに見ているだけの自分はハラハラした。心なしか動揺していた姿が思い出される。

「消毒はしたのか?」

「してないけど水で洗ったし大丈夫かなって」

思わず苦虫を噛み潰したような顔をする。大丈夫なわけがない。なぜこう自分のことに頓着がないんだと深く溜め息を吐く。

美都はその反応にきょとんと小首をかしげている。

「そこに座れ」

「え? だ、大丈夫だよ」

「化膿したらどうすんだ。いいから消毒するぞ」

ソファーを指差し、座るように指示を出す。美都はあくまでそのまま絆創膏を貼るつもりだったのだろう。一度は拒否するが四季からの真っ当な言葉を受け、渋々とリビングのソファーに座った。

四季は鞄を雑然と置き、テレビ台にある救急箱を取り出してテーブルの上に置いた。なぜだが彼女は目を丸くしている。手を洗うために一瞬その場から離れ、再び洗面所から戻ると、

「……うちに救急箱なんてあったんだね」

と言って苦笑いを浮かべた。

さも初めて見たかのように呟く美都にこちらが思わず苦い顔をする。自分が怪我したときはそれはそれはしつこいくらいに心配されたものだが自分のことになるとどうも鈍くなるようだ。

小さく息を吐いて救急箱の中から消毒液とガーゼを取り出した。跪いて美都の前に佇む。

「……滲みるぞ」

「──っ……!」

消毒液とは得てしてそう言うものだ。美都はその痛みに肩を竦ませ顔を歪ませる。膝に当てたガーゼが鮮血を吸った。

互いに無言のまま処置を進める。いつもとは何か空気が違った。気付いているものの、それが何なのか説明が難しかったからだ。

だがその沈黙に耐えかねたのか、窺うように美都の方から口を開いた。

「四季……なんか怒ってる……?」

なるほど、そう見えていたのか。だから落ち着かない様子にしていたのかと合点がいった。

処置を行いながらどう答えようかと考える。

「怒ってない。ただ──」

「……ただ?」

ひとまずは訊かれたことを否定した。現に怒っている訳ではなかったからだ。

美都は次の言葉を待つように不安そうに自分を見つめている。

「──どう言うべきか迷ってた」

その言葉を聞いて、今度は不思議そうに小首を傾げている。

どう言うべきか、どこから言うべきか。むしろ伝えるべきかを先程まで迷っていたのだ。だが今しがた彼女の問いにそう答えてしまった以上、伝えるしかない。無意識に自分を追い込んでしまった。

愛理との会話を不意に思い出した。

『あの子鈍感なんだから。言わなきゃ絶対伝わらないわよ』

『危なっかしいから──ちゃんと見ててあげてよね』

そんなことは言われなくても解ってた。たった2ヶ月だが同じ家で暮らして、同じクラスで授業を受けているのだ。おそらくは彼女の親友よりも同じ時間を共有している。気づかないわけがない。

「お前は……危なっかしくて、すぐ無茶して、人のことばっかりで──」

被覆材と防水フィルムを取り出しながら考えていることを口に出していく。纏まり切っていないため言葉がブツブツと途切れる。しかしそうでもしないとちゃんと伝わらない気がした。特に彼女には。

そうだ。目の前にいる少女は、最初からそうだった。守護者の力が覚醒する前から他人の事を守ろうとしていた。出来るわけがないのに無茶ばかりするものだと呆れたものだ。

「でもそれが良いところなんだとも思う。だから周りの目を惹きつけるんだなって」

無自覚に真っ直ぐだから、誰もが彼女のことを放っておかない。外見は派手ではないのに他者からの目を惹くのは才能だ。彼女の幼馴染みが妹のように思うと言ったことがあった。確かにそれも頷ける。彼女はそういう立ち位置なんだろう。

だからこそ怖いのだ。この少女は他者からの感情を裏表考えなくありのまま受けとるから。決して疑うことをしない。例えば悪意であっても、彼女にとっては負の感情にはならない。それどころか自分の中に落とし込んで昇華さえしそうだ。

「なのに自分のことになると鈍くて……本当に鈍くて」

「そんなに鈍くないよ」

それまで大人しく聞いていた美都はむすっとして口を挟む。どの口が言うのかとまた呆れて息を吐いた。

傷ついたとしても、おそらくはそれ自体知らずに抱え込むのだろう。本当に危なっかしくて見ていられない。否、だから。

────傍にいたいと思うのか。

思わず美都を見上げる。その曇りのない瞳に、果たして自分はどう映っているのかと。

彼女は少しその場でたじろぎ、息を呑んだ。

再び視線を手元に戻し、被覆材を傷の形に切っていく。

距離を測っていたはずなのに。いつの間にか彼女のペースに乱されてしまった。彼女が無自覚に近づいてくるから。本当に厄介だ。人の気も知らないで。

いつからか目で追っていた。ころころと変わるその表情は、笑っても怒ってもあどけなくて。ついこちらもつられて柔らかくなってしまう。勘弁してほしいものだ。いつからこんなに(いとお)しいと思うようになったのか。

不意に自分で思ったことに対して恥ずかしくなり頭を抱える。目の前に座る少女は不思議そうにしながら自分の言葉を待っているようだ。

「……本当は言うべきかどうか迷ってた。いや──今でも迷ってる。でも俺にも限界があってな」

言ってしまえば後には引けない。もう今の関係は続けられない。そうだとしても、この感情をずっと自分の中に押し込めておけないところまで来た。

「だからこれは俺のわがままだ」

そうだ。彼女の都合を考えていない、ただの自我(エゴ)だ。わかっていながら自分を止めることが出来ない。

「自分のことには鈍感で、そのくせ人のこととなると向こう見ずになって駆け出していって。危なっかしくて見ていられないはずなのに……誰よりも傍にいたいと思う」

頭上から息を呑む音が聞こえた。心音が大きくなっていく。平静を保てるのも後少しだ。

気を紛らわせるようにカットした被覆材を傷口にあて、その上から防水フィルムを貼る。これで処置は終わりだ。

そして四季は一息置いて美都を見上げた。

「俺は────美都のことが好きだよ」

瞬間、彼女の紫色の瞳が揺れた。大きく見開いたまま自分のことを見ている。

しばし自分も同じように見つめ返していたが耐えられなくなり目を逸らした。

何も反応がないのが逆に怖い。回答を求めていたわけではないが無反応というのもどうして良いかわからなくなる。

伝えてしまった以上今までのようにはいられないか。自分が態度を変えることはないが彼女からの接し方は変わるかもしれない。何にせよ今後の私生活に影響が出るなと覚悟を決めて立ち上がろうとした時、再び彼女の顔が目に入った。

その顔に思わず目を丸くする。

「……おい」

言わずにいられなかった。初めて見る表情を、彼女がしていたから。

「それはどういう顔なんだ……?」

美都は尚も身体を硬直させたまま顔を紅潮させていた。見れば耳まで赤くなっている。言った方よりも言われた方がする表情なのかどうか量りかねる。

その声にハッとして、まるで顔を隠すように手を前に掲げた。

「だ、だって……! そんなこと言われたこと、ない……から──」

発する声もいつもより上ずっているように聞こえる。たどたどしく抗議するがその反応を見る限り悪い方向には転ばないような気がしてきた。

しかし彼女の言葉に違和感を覚え首を傾げる。

「言われたことないって……──モテるんじゃないのか?」

「な……! 誰がそんなこと言ったの!? 愛理!?」

「和真とか春香もな」

次々と出てくる固有名詞に、目を丸くした後さもありなんと思ったのか顔を伏せて当てどころのない手を握りしめる。

「ち、違うよ──みんな勘違いしてるだけで……。わたしすっごく普通だもん……」

目線を横に逸らしながら尚も手で鼻から下を隠すようにして答えた。予想外の出来事に戸惑っているのだろうか。

「別に特別なことなんて求めてないさ」

そう言っておもむろに立ち上がった。美都はその所作を目で追うとまた恥ずかしそうに俯いた。

動揺する顔すら可愛いと思うのだ。全く自分にも呆れてしまう。

ひとまず伝えられたことに安心して救急箱を片していると、肩を竦めながら動かないでいる美都が小さく声を発した。

「わたし──……!」

一度顔を上げて四季を見たのち、すぐに目を逸らして口籠った。彼女なりに返答しようとしてくれているのだろうか。なら自分が聞かないわけにいかない。どんな結果であろうと自業自得なのだから。

「……誰かを好きになったこととかなくて……──だから……その、……そういう気持ちがずっとわからなくて……」

先ほどの四季よりもぶつ切りに、美都は自分の想いを言葉にしていく。言葉を選んでいるようにも思えるが、おそらく今の彼女にそんな余裕はないはずだ。黙って次の言葉を待った。

「四季のことは同じ守護者として大切だった、から……守りたいって気持ちはあったけどそれは恋愛的なことじゃないんだと思ってて……四季こそ女の子から人気あるからあんまり干渉しない方がいいなって思ってたんだけど……でも」

不穏な言葉に一瞬身構えた。意味合い的にはどっちにも取れたからだ。しかし否定の接続後が付いたので四季は再び彼女に向き直った。

美都はまだ目を泳がせながら言葉を探しているようだった。

「でも……わからなくて。四季が……今日愛理と話をするって聞いたときに、よくわからないけど何だか胸が……モヤモヤして────すごく、苦しかった」

思わず目を見開いた。その感情は限りなく自分が抱えているものと近いものだ。ハッとして彼女を見つめ返す。

「今でも、ちゃんとこの感情が何なのかわからない、けど……!」

美都は顔を真っ赤にさせながら意を決したように顔を上げて四季を見つめた。

「わたし、も──……そう、なの、かな……」

言いながらだんだんとまた顔を俯かせていく。

四季もその熱にあてられて口元に手を当てて顔を背けた。顔が熱いのは気のせいではない。心音がどんどん煩くなる。

だが彼女はまだ自分の感情に確かなものを抱いていないようだ。それならば間違える前に確認しなければ。

「えっと──……俺と一緒にいて苦じゃないか?」

「う、うん……あ、でも苦しいとは思うけど……」

我ながらなんて的外れな質問をしたのかと頭を抱えたくなった。違うそうじゃない。もっと分かりやすい訊き方があるだろう。

美都が言う苦しいと言う思いは、たぶん同じものだ。

「……その、胸が大きく鳴ったり……?」

「……! う、うん……」

美都が四季の問いに応じるように顔を上げた。

だめだ。これ以上は自分の心臓が保たない。でも今の言葉を肯定してもらえただけで十分だった。それだけで彼女と自分の気持ちに差異がないことの確認になった。

四季は大きく深呼吸して美都の方を向くと手を下ろして彼女に微笑む。

「なら……あってる」

再び美都の大きな瞳が揺れた。今まで不確かだった感情がわかってホッとしたのか、長い息を吐きながらその感情を落とし込むように胸に手を当てて身体の力を抜く。そして次の瞬間には自分に向けて同じように柔らかい笑みを返した。

まずい。答えを求めていたわけではないだけに予想外の展開だ。

口にした瞬間、より一層愛しさが溢れてくる。顔を紅潮させ、身体を恐縮させている様さえ。目の前の少女にいかに惚れているのか思い知らされる。

触れたいと、思ってしまう。

「……──触れても、いいか……?」

「え? あ……──うん」

一瞬驚いたように目を見開いたのち、落ち着きを取り戻した瞳をして快諾した。

これは恐らく意味がわかっていないな。そう思いながらも言及はしない。快諾したのはそっちなんだから。

苦笑しながらも四季は少女が座っているソファーへ近づく。自分の動きに合わせて美都の瞳が追いかけてくる様が何だかおかしかった。

優しい手つきで美都の柔らかい髪に触れる。その手を滑らせてゆっくりと彼女の左頬へと移動させた。

まだ熱を帯びている。美都はくすぐったそうに目を細めた。

──触れたら歯止めが効かないと、わかっていたのに。

四季はソファーに片膝をついて更に美都に近づいた。その行動に驚いたのか、目を丸くした美都を見て見ぬ振りをして。触れたままだった左頬から更に下、首筋に指を持っていき彼女の肩にかかる髪を弾いた。

「し──! 四季……っ!」

動揺する声が耳元で聞こえる。

ソファーの背にもう片方の手を置くと四季は彼女の左の首筋に口付けた。

突然のことに美都は再び顔を赤くして身を竦めている。言葉にならない声が吐息となって表れていた。

首筋から唇を離して改めて美都を正面にする。それこそ吐息がかかるくらいの距離で。すると彼女の両手が控えめに前に掲げられた。

「ご、ご飯の支度しなきゃ──……!」

しどろもどろになりながら美都が言う。ようやくこの状況に頭が追いついたようだ。

「俺が作った方が早いだろ」

「そうだけど……! そうじゃなくて……!」

四季の顔を見た後すぐに目線を逸らした。手が邪魔だなと思いソファーの背から離した手で半ば強引に彼女の右手首を掴んだ。

「! 四季──! まっ……!」

「待てない」

言って彼女の手首を握ったまま身体ごとソファーの背に押し付け、口を塞いだ。当然美都の身体はソファーに身を預けざるを得ない体勢となる。

「っ……!」

彼女の左手は自由なままだったが不意打ちの出来事に対処できなかったようだ。力無く四季の肩に手を当てている。

これでもかというくらい顔を赤くさせて、目を強く瞑っている。その姿がまた愛おしいと思う。

「──……、っ……」

四季は一度唇を離すと再び同じように、否、今度は先程より俄かに優しく彼女に口づけた。一瞬だけ彼女の吐息が漏れる。

離れがたい思いが募る。ようやく想いが通じたのだから当たり前か。

美都は観念したのか先程より大人しくなっていた。

だがこれ以上はだめだ。本当に歯止めが効かなくなる。そう思ってゆっくりと彼女の唇から離れた。

息を止めていたかのように、美都は小さく呼吸を繰り返す。

「し……」

そして四季を一瞬見つめた後、目を白黒させながら力無く項垂れた。

「心臓が……、もたない……っ」

左手の甲で触れられた唇を隠すように覆う。

聞こえていた心音は自分のものとばかり思っていたが、もしかすると彼女のものだったのかもしれない。やけに鳴るなと少し煩わしかったが。

そう思って四季は美都に微笑みかける。

「俺もだ」

恐らく美都よりずっと前に限界を超えていた。それでも彼女を目の前にしたら居ても立ってもいられなくなった。この愛くるしい少女にずっと触れたいと願っていたのだから。

四季は美都から手を離すと再び手で口元を押さえ、少しだけ気恥ずかしそうに謝る。

「悪かった……立てるか?」

「……むり」

そのまま埋もれていくのではないかと思うくらい、美都は全身をソファーに預けている。預けざるを得ないと言うべきか。項垂れた顔はまだ熱を帯びており、身体には力が入っていない様子だ。

普段であれば何が何でも「大丈夫」だと言う。だが初めて彼女から違う言葉が聞けて、四季は少しだけ満足した。今回は本当に大丈夫ではないのだろう。いつもそれくらい素直になれば良いのにとさえ思う。

四季はふっと息を漏らし、軽く微笑んだ。

「座ってろ」

「でも食事当番……」

ソファーを横切るときに再び彼女の頭を二度ほど優しく叩く。四季の動向を追うように美都はようやく顔を上げ身体を捻った。そして役割だった当番のことを口にする。

「その状態にした責任は取るよ」

振り向きながら言うと、美都はハッとしてまた恥ずかしそうに顔を覆った。

キッチンテーブルにかけたままのエプロンを取る。

四季にとっても好都合だった。何か手にしていないとずっと落ち着かなったであろう。ちょうど良く自分の得意分野が目の前にあって安心した。

途中で調理放棄された食材を見ながら献立を仕立てる。あれこれ考えているとようやく身体が動くようになったのか、美都がソファーから様子を窺っているのが見えた。思わず目線を遣ると言いづらそうに口を開いた。

「……愛理と何話してたの?」

その質問に目を丸くする。そういえば彼女は先程自分の気持ちに気付いたばかりだったか。胸の中の靄を取り除きたいのだろう。

「別に……けしかけられただけだ」

「……? 何を?」

美都が四季の回答に怪訝な顔をして更に質問を重ねる。きょとんとしているので恐らく本当に意味がわかっていないのだろう。はぁ、と息を吐いて渋々口にした。

「……想ってるなら言葉にしろって。じゃないとお前には伝わらないってさ。正解だったな」

しかしよくもまあ無責任にけしかけたものだ。届いたから良かったもののそうじゃなかったら今頃地獄を見ているに違いない。否、愛理はもしかすると見通していたのかもしれない。なにせ彼女は美都の幼馴染みなのだから。しばらく離れていたとしてもやはり彼女のことをよくわかっているのだろう。勝負を挑んでいたわけではないが完全に負けたなと思わざるをえない。

「鈍感も過ぎるといっそ清々しいな」

その言葉を聞いて美都は悔しそうに口を結んだ。間違っていないはずだ。だからこその反応だろう。

まな板の食材に手をつけながら切り分けていく。

尚も煮え切らない表情を浮かべながら美都はソファーの陰から再び四季をチラリと見る。そして口籠もりつつ彼に訊ねた。

「本当に……──いいの……? わたしで……」

眉を下げながらポツリと呟きにも似た声で問う。窺うようにしていたのはその為か。まだ確信が持てていないようだ。そんなのこっちだって聞きたいくらいだ。だが自分に関しては彼女の反応を見る限り大丈夫だろう。

言葉も態度も示した。どうすれば効果的なんだとしばし考える。

四季は調理していた手を止め、小さく息を吐いた。手を洗ってエプロンを取るとおもむろにリビングへ足を進める。向かう先はもちろんソファーだ。美都は彼の予想外の行動にぎょっと驚いて家具の上で身構えていた。少女は先程の位置より中程にずれて座っている。距離はあるがここからでも十分だろうと四季はソファーの端に手をついた。

「なんなら、もう一度同じことするけど?」

「い……! いえ……結構です……」

四季の意地悪そうな笑みに美都は再び赤面してその場でたじろいだ。肩を竦め口を真一文字に結んでこちらを見上げている。

本当はもう少し近づきたいところだが強く出すぎてこれから警戒されても困る。しかしわざわざエプロンまで脱いだのだから少しくらい許されるかと頭で自問自答していたところ美都が口惜しげに呟いた。

「なんか性格違いませんか……」

はたと思って目を丸くした。そうか。今までは家でも学校でも気が抜けなかった。もう気取らずとも良いからか肩の力が抜けたのかと冷静に分析する。

「悪いな。こっちが素だ」

ふっと微笑んで歩を進める。先程考えていた後者の思考が勝った。

美都はハッとして近くにあったクッションを手に取り盾のようにして顔を半分隠す。

そのいじらしさについ手を出したくなってしまう。彼女が持っているクッションの際まで顔を近づけた。

「なんで隠すんだ」

「近い! 近いよ……!」

「何を今更」

「こら、四季!」

更にクッションに顔を埋めて抵抗する美都に、四季は塞げていない耳の後ろあたりを狙って手を差し出す。その気になればクッションなど取り上げることも可能なのだがひとまず彼女の行動を尊重することにした。

「今まで我慢してきたんだ。少しくらいいいだろ?」

触れながら一応伺いを立てる。これまで真近で見られることがなかったのだから。

「ご飯遅くなっちゃうでしょ……!」

「わかったわかった。すぐ作るから」

その言葉を信じたのか握りしめていたクッションの手を緩ませたのを確認し、ひょいとそれを取り上げる。声には出さなかったが美都は「あっ」という表情を浮かべた。その顔がなんとも無防備で思わずふっと声を漏らして笑う。

「もう! 四季!」

「悪い──ちょっと面白くて」

居たたまれなくなった美都が抗議の声を上げた。ひとしきり笑ったのち満足して再びキッチンへと戻る。エプロンを取って再び調理場に戻るまで美都はじとっと四季の動向を見ていた。すっかり警戒されてしまった。

さて手早く調理の続きを始めようと思ったとき、緊張を解いた美都がポツリと呟く声が届いた。

「……凛になんて言おう……」

そう言えばその問題があった。美都に関しては本当に保護者が多いなと思う。強いて言うなら愛理よりも凛の方がなかなか難しい。彼女への報告は美都に任せたいところではあるが、後々責められても面倒だなと思いバツの悪そうに息を吐いた。

「それは俺も考えておく」

肋骨3本くらい折られる覚悟で行った方がいい。いや、凛がそれほど暴力的ではないことは知っているが比喩としてだ。彼女は美都のことを誰よりも考えているのだから。

少しだけ気の重たさを感じ、四季はようやく目の前の食材に手をつけ始めた。





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