第三十八夜 残月とケイト。
怖い夢。
腐ったような臭いの混ざる煙草の煙。
十六か十七歳の頃だっただろうか。
残月は初めてマフィアの組織に入った事を覚えている。
構成員が百名程度の小さな組織だった。売春やドラッグ、アルコールの密造などで生計を立てている者達だった。
残月はその組織に入った初日、組織の下っ端の男達に“通過儀礼”としてマワされた。色々な男達に何度も何度も性的に凌辱される。他の女性構成員達も通過儀礼として同じ事をされたし、それがこの組織の入団条件だった。
コンドーム無しに次々に男達に肉体を貪られて、後に他の女の組員からピルを貰った。男達の獣臭はべっとりと残月の肌に付いて、シャワーを浴びても落ちる事が無かった。
次の日から、残月は薬物を売りさばく担当に回された。
街娼のように街の路地裏に立っては、違法薬物を通行人に売っていく。
いつだって、曇り空だった。
ずっと、学校からも家からも逃げ出したかった。
生ゴミばかりの臭いを放つ家。父親はドラッグの中毒者だった。家にはいつも注射器が転がっていた。かつて、成金で富を築いたのに、投資で大きく借金をしてサラリーマンから転落して、彼は薬物に手を出した。そして刑務所入り。出所してからは工場労働などを転々としていたが、続かず、女房にはとっくに逃げられている。
残月はよく学校では、犯罪者の娘だとイジメられていた。薬中野郎のガキだと。
透明な傘を差しながら、彼女は小さなマフィアの組織に入って、父親がどっぷりと漬かったドラッグを売りさばいていた。無力な十七歳の少女はこの世界を変える力も、自分自身の在り方さえも変える力なんて無い。学校からはじき出された同級生達がそうであるように、残月もまた、マフィアの世界に入った。同じように別組織に入った同級生の少女は、売り上げの七割を組織に取られて売春を行っているらしい。
いつからだろう。
カミソリで身体に傷を入れるようになったのは。
いつからだろう。
リストカットやボディーカットの代わりに、身体に刺青を入れるようになったのは。
ボディーカットの上に刺青を彫り、スカリフィケーションを施し、更に刺青の上に何度も刺青を入れて塗り潰していったのは……。
耳のピアスも増えていく。一つずつ。ピアスの穴も拡張されていく。それがとても小さな反抗。自分の肉体を少しだけ弄ってみるという、ささやかな改造。金が出来た時に、少しだけ目や頬、鼻の整形手術を受けてみる。ささやかな反抗。
心に刻まれた消えない傷を形にする為に、残月は身体に無数に傷を付けていった。何度も何度も……。彼女はあの無力な十七歳の少女でしかなかった自分を、三十年程経った今も忘れられそうにない。
†
残月は目を覚ました。
どうやら、此処は集中治療室の中みたいだった。病院だろうか。
手術衣に身を包んだ男が、部屋の隅にいる男に合図をする。
手術衣を着てマスクをしているが、確かにその男には見覚えがあった。
「ケイト……?」
『ゴースト・カンパニー』のケイト。
この三十路なのか、四十路なのか分からないが、肌つやの若い青年実業家風といった男はコミッションのメンバーの一人だった。コンピューター会社の社長であり、原発利権などを持ち、他にも多くの株取引などを行っている。不動産王でもあるとも聞く。結局、一番、何のビジネスをしているのか分からない男だ。マフィア達の中に入り、普通の会社を持っている大企業の社長でもある謎の男ケイト。彼の実態はコミッションの他のメンバーもよく分かっていない。……もっとも、みな、他のメンバーに対して、自分達の行っているビジネスの詳細を詳しく教える者などいなかったのだ。
「あら、『オルガン』を止めに来たのかしら?」
残月はか細い声で言う。
「喋らないでください。先ほど、貴方のお腹から銃弾を摘出した処ですから」
そう言うと、皿の上に乗ったマグナム弾をケイトは指差した。
「助かってよかったです。此処は僕が世話になっている病院です」
「ケイト。一つ聞いていいかしら?」
「なんですか?」
残月は少し沈黙して、ケイトの瞳を凝視する。
「ポロックを。『オルガン』を操っているのは、あんたじゃないの?」
そう言われて、ケイトは微笑み静かに首を横に振る。
「それは正しいですが。正確には、僕だけではありません。僕はあくまで“仲介役”といった処でしょうか」
「あんたの裏に、更にバックがいるのね」
「ええ。どのような人物なのか、詳しく答えられませんが」
ケイトはしばらく顎に手を置いていた。
そして、おもむろに口を開く。
「レスターに、ムルド・ヴァンス。メテオラ。あの三人はこの国の、そしてMDの“調停”ないし“保守”に走るでしょうね。国民、一般市民に多くの犠牲者が出るのを厭っている。しかし、貴方とヴァシーレは“中間”にいる。残月、貴方は壊したくありませんか? このくだらない世界を。このくだらない秩序を」
ケイトはにこやかな笑みを浮かべていた。
「…………、確かに、あたしに、この世界に対する愛着は無いしねぇ。ムルド、レスター、そしてメテオラは理想みたいなものを持っている。彼らなりの正義感なのかしら。無法者には無法者なりのルールがある。そう考えている連中。確かにあたしはどちらでも無いわ」
残月は気怠そうな顔をする。
実際に麻酔のせいか、身体もだるい。
「残月。貴方と『ハイドラ』にお訪ねしたいんです。貴方は我々の側に協力しませんか? そう勧誘したくて『ネメアのライオン』の雇い主は貴方を生かす事にした」
それを聞かされて、残月はしばし考えて、納得する。
「考えておくわ。ただ、私はどちら側でも無い、っていう事。それならば、少しなら協力してあげてもいい」
「充分な返答です。では、後はヴァシーレも誘ってみます。彼なら、あの、上昇志向の極めて強いヴァシーレなら、コミッションの売春利権に留まらず、更に強い利権を追い求める可能性がある」
そう言うと、ケイトは部屋から出ていった。
残月は小さく溜め息を吐いて、再び眠りに付いた。自分の心音が妙に聞こえた。




