ポストの少女
秋の昼上がり、ポストの横に少女が立っていた。通りすがりに見た後ろ姿は、おかっぱ髪に隣のポストとお揃いの朱のワンピースを着ていた。何をするわけでもなく、ぼうと空を見上げていた。
田舎といえる町でも、もう見かけない格好に目をひかれながら、車で丘を下る。友人に届け物をする約束していたのだ。夏の埃っぽい空気が引き、日差しだけ夏のままで、痛いほど眩しく木陰が心地よい。窓から入る風は、ひんやりとこれからやってくる冬の前立てだと教えてくれた。紅葉が待ち遠しい、と友人と談笑するうちに夕暮れを迎える。
夕飯の誘いを断り、元来た竹藪のそばの道を通れば、昼に見たポストの横に少女が同じように立っていた。前を通り過ぎて一瞬考え、車を道端に止める。車のドアを閉めた時、少女がこちらに顔を向けた。大きな瞳が見開かれ、頬が上がっていた。
「お手紙ですか?」
こちらが聞くより前に、彼女は言った。僕は驚きながら首を振った。
「君が昼間からずっと立っているのが気になって、声をかけたんだ。もうすぐ日が沈むよ。君宛の手紙を待っているのかい?」
少女は苦そうに顔をしかめて、ふるふると首を振る。
「このポストに入るお手紙を待っているの」
「へぇ、新しい遊びかい?」
周囲に人の姿を探すけれど、カラスが山へ帰っていく声しかしない。
「いいえ。私の仕事よ。このポストを守っているの」
僕は少女の発した言葉を飲み込んで、彼女の前にしゃがんだ。夕焼けが竹藪を陰にして燃えている。少女の朱の服は、夕焼けよりは明るく薄かった。
「立派なことだね。でももう帰る時間じゃないのか?」
「私の居場所はここなの。彼の隣」
彼女は朱色の箱を触った。塗装の剥がれかけた四角い箱を、尊げに彼女はなでる。
「私は彼が、このポストが悪戯されないように見張っているのよ。お手紙が郵便屋さんに回収されるまで、大事なものをお預かりしている彼を、守らなきゃ」
真剣にしゃべる少女の顔が、僕を見ながら徐々に険しくなっていく。
「あなた、まさかお手紙を攫いに来たのね?」
「ちがうよ。君が町の子かと思って声をかけただけさ」
「毎日通る子どもたちの事?私は違うわ。じっとお手紙と郵便屋さんを待っているだけ」
真っ赤だった空が橙、黄へと移り、淡い水色の空が広がった。僕はよくわからないまま、口を開いた。
「もしかして、君は付喪神か?」
「なに、それ」
彼女はきょとんと顔を上げた。
「人じゃないんだ」
「人とそうでないのとの境目が、申し訳ないけれどわからないわ。でも、そうね。私誰かと話をしたのは初めてだわ」
僕らはまばたきをした。草むらから、スズムシの声がしている。
「僕も出会ったのは初めてだ」
「あぁ、そうなのね。じゃあ、“はじめまして”」
彼女がお辞儀をする。僕もつられて、お辞儀をした。彼女は楽しそうに笑う。きっと、人のまねをしたのがおかしいのだろう。
「もう暗くなるわ。気を付けて帰ってね」
「君はここで寝るのかい?」
「眠くならないわ。時々彼の上を借りるけれど」
ひょいと跳んで、彼女はポストに腰掛ける。もう、夕闇に彼らの朱は溶けていた。くすくす、笑い声がする。
「また来ていいかい?」
「もちろんよ。よければお手紙を持ってきてね」
バックミラー越しに、彼女が手を振る影が見えた。
彼女はいつ何時も、ポストの横に立っていた。雨の日もはしゃがずに水溜りに立ち、風の強い日も髪を耳にかけて風上を見つめていた。
「付喪神が憑くほど、このポストはずっと前から立っているのか」
「あら、古いも新しいも関係ないわ。一つのポストには必ず護衛がついているの」
「それは、全然気づかなかった」
「きっともう見えるはずよ。だって私が見えているんだもの」
おかしそうに彼女は笑った。僕は歩道と車道の段差に腰掛け、握り飯を食べた。夏蔓の下の木々は少しずつ色あせていき、竹藪もちらほら黄色く見えた。彼女は、一切何も食べなかった。
「ポストにいたずらされるの?」
「そうよ。ここは大事なお手紙を入れる場所なのに、心無い人がゴミを入れたりするの。あとたばこの吸い殻。ひどいでしょう?」
「燃えたら一大事だ」
「そうなの。でもね、私は見てることしかできないの。中に入ったものは、鍵を持っている郵便屋さんしか取り出せないし、ひどい人を引き留めることもできないの。私は見えないし、触れないからね。だからとても悔しくて、舌を出して二度と前を通らないようにおまじないをするだけだわ」
「とても効きそうだ」
励ましに微笑めば、彼女も泣きそうな顔から少し笑みを零した。
「私は、ポストに手紙が入るのがとても好きだわ。文字は読めないし内容もわからないけれど、お手紙が中に入るとね、胸に感情が押し寄せてくるのよ」
「それは、奇妙だね」
「そうね。誰かに伝えるために書かれた文字と、封をしたのりと、切手が心を揺さぶるの。恋文なら春爛漫の桜吹雪が見えるし、仕送りを願うお手紙も冬の海のような冷たい寒さを感じるわ。
どんな内容であったとしても、苦しかったり嬉しかったり、中には何の匂いもしないはがきもあるけれど、すべてに届ける相手がいる平等に大切なお便りで、彼が中に入れている間は必ず守らなきゃって、強く思うの」
彼女は揺れる竹藪を見た。さわさわと波打つように藪は揺れていた。蚊が飛んでくるのを払うと、彼女は皮肉気に笑った。
「でも最近、全然来ないわ。冬がなじみ始める頃に、どっさりと赤や金の煌びやかなはがきが入ってくるだけ」
「年賀状か」
「それだけ。本当に、退屈なくらい、なにもないの」
彼女はため息をついた。同じように、竹藪も大波を一つ揺らした。
「きっと賑やかなところのポストは大変なんでしょうね。少しうらやましいわ」
「ここを離れるのかい?」
「まさか、とんでもない。私は彼が撤去されるまで、彼の相棒だからね」
彼女は優しくポストを触った。ポストは当たり前のように立っている。飼い猫のようだと秘かに思った。
「僕が聞いてこようか」
「え?何を誰に?」
「街のポストさ。僕の知ってるポストは君の所だけだから、街に出た時に話を聞いてこようか」
「本当?」
彼女は目を輝かせた。高い空に朱色のスカートが揺れる。
「お願い、ぜひ教えて」
「わかった。今晩でも行ってくるよ」
「ありがとう。気を付けて、行って帰ってきてね」
彼女は飛び跳ねて喜んだ。僕は指についたご飯粒を食べた。セミは当の昔になき止んでいた。
星も見えないほど明るく照らした蛍光灯の下に、一つのポストがあった。大きな通りにたくさんの店と喧騒がある。最初、ポストを守るものがどれかわからなかった。朱のポストとお揃いのワンピースが見えなかったのだ。
じっと人通りの中を見ていると、まっすぐな長い髪がポストの横で揺れていた。彼女のワンピースは白色をしていた。
「もしかして、君はポストを守っているの?」
僕はそっと近づいて彼女に声をかけた。彼女はゆっくりと振り向くと、あら、と声を出した。
「私が見えるの?」
「そう。君の仲間からお願いされたんだ。街のポストの様子を見てきてくれって」
彼女は気だるそうだった。立ち姿も不安定で、瞼もはっきりと開いていない。くすりとほほ笑みが浮かぶ。
「私が彼のパートナーじゃない何かだったら、どうするつもりだったのかしら」
「あ、さぁ。どうしただろうな」
彼女はくすくすと笑った。人混みは、誰も僕を気にしていなかった。
「君は服が白いんだね」
「そう。お手紙が入るとね、白に変わるのよ。知らないの?」
僕はあやふやに頷くしかなかった。おかっぱの無邪気な笑顔がよみがえる。ふいに僕の横に人が立った。不審そうに僕を見た後、ポストにハガキを入れて行った。遠くなる足音に、彼女は首を回した。
「まただわ。郵便屋さんまだかしら」
「これだけ人が多いと、手紙の量も多いんだね」
「一枚入っただけで頭がくらくらするもの。もうすぐ時間なんだけど」
ポストに寄りかかり、彼女は言う。具合が悪そうにする彼女にどうしたものかと悩んでいると、一台の郵送車が止まった。
ポストよりも紅に近い車に郵便マークが入っている。運転手が下りてきて、荷台から袋を取り出し、ポストに近づいたところで、僕をじろりと睨んだ。
「珍しい光景なので、見学させてください」
愛想笑いでそういえば、無愛想な返事が聞こえて鍵が開いた。中から手紙があふれ出てくる。郵便屋は手を休めることなく手紙を全部袋の中へ入れると、ポストの中を軽く見渡し、ぱたんと扉を閉めた。
「面白いことなんか無かったろう」
そう言い残して手紙を荷台へ積み、車は走り去った。はあ、と呆然としたが、少女の伸びで我に返った。すっきりとした顔つきで、彼女は十分時間を取り伸びをした後、ポストの上に座った。
「はぁー、さっぱりした」
「回収されたら違うのかい?」
「そうよ。だって、何も考えなくていいもの。怒涛のように入り混じる波に、ずっと揉まれている気分だもの。何が何だか分からなくなるわ」
嬉しそうに足を組み、彼女は空を仰いだ。月のない空に、丸い街灯が代わりをしている。蛾が数匹ちらついていた。
「その尋ねてた同業者、退屈なの?」
「う、ん。まぁ、君よりは暇かな」
「それはそうね。はぁ、私も時々ぼーっとしたいわ」
カタン、と金属の揺れる音がした。振り返ると、高校生くらいの女の子が立ち去っていく。
「ファンレターだわ」
彼女はくすくす笑った。ポストの上に寝そべって、頬杖をつく。
「まぁまぁこんなにも熱い思いで。早く回収に来ないかしら」
彼女は、嫌みなことを言いながらも、顔は優しく微笑んでいた。
丘の上で、少女は赤く染まる葉を見ていた。風は冷たさを増して、木々に眠りの時を知らせている。彼女は僕を見ると、嬉しそうに笑った。
「街はどうだった?」
「まぁ、忙しそうだった」
「そうね、忙しいでしょうね」
朱色のスカートが風に揺れる。僕はそっと目をそらした。
「でも、各各で、幸せの形は違うと思うよ」
「なにそれ。当たり前だわ」
彼女は肩をすくめて見せた。目印のように、スカートがはためく。
「それで、今日は手土産があるんだけど」
ごそごそと僕はカバンから封筒を取り出した。途端に彼女の顔が険しくなる。
「なにそれ。同情票?」
「違うさ。たまたま、家に手紙を送る用があっただけだ。それで一番近くのポストがここだっただけさ」
訝しげに彼女は僕の顔を覗き込む。僕は平気な顔をしてポストの前に立つと、しぶしぶといった様子で、彼女は横に退いた。
普通用の手紙の投函口を、すこし持ち上げて隙間へ手紙を入れた。すると、隣に立っていた少女のスカートの裾が白くなる。じわりと水彩絵の具のように、朱色は白へと変わっていく。
ふいに、彼女は笑いだした。腹を抱えて、げらげらと大声で笑う。
「何、どうしたんだよ」
「いや、あなたの手紙、野畑のたんぽぽみたい」
真っ白なワンピースを着て、少女は満足がいくまで笑っていた。