第8話 別れ
ウェルスに別れを切り出せぬまま、一週間が過ぎた。
覚悟を決めたはずなのに、ウェルスを目の前にするとどうしても言葉にできない。別れを告げた途端、泣いてしまいそうだ。そんな態度を取ってしまっては、ウェルスに疑惑を抱かせてしまうだろう。なるべく気丈に振舞わなければ。
今日こそは必ず言う。その思いで彼の帰りを待つ。するといつもより早く、ウェルスが帰ってきた。その顔は心なしか明るい。
「ディーナ!」
ただいまも言わず、ウェルスは恋人の名を呼んだ。驚いたディーナは、ついいつもの調子で返してしまう。
「どうしたんだい? 何かいいことでもあったのか?」
「騎士になる話が決まった」
「え!? ホントに!?」
コクリと頷く顔は誇らしい。その精悍な顔立ちを見て、抱き付きたい気分に駆られる。
「よかったね、ウェルス! でも、何で急に……」
「一週間程前から動きがあったようだ。アーダルベルト様が中央官庁に強く出てくれたらしい」
一週間前。別れると宣言してからだ。もしこれで別れずに結婚でもしてしまったら、ウェルスは騎士の地位を剥奪どころか、兵士にすら戻れないかもしれない。グズグズしている暇はない。すぐにでも別れなければ。
「あのさ、ウェルス……」
「これがファレンテインの市民権を得た証だ。アーダルベルト様が真っ先に発行してくださった」
ウェルスが見せてくれたのは、小さなカード型の証明書だ。そこにはちゃんとウェルスの名が書かれている。
「……そっか、よかったね、ウェルス。本当に、よかった……おめでとう」
胸に熱いものが込み上げる。ウェルスの努力はちゃんと実った。こんな嬉しいことがあるだろうか。
「ありがとう。ディーナ。……ディーナもファレンテイン人にしたい」
「ど、どういう意味だい」
「私と結婚してほしい」
そっと握られる手。
ディーナは漏れそうになる声を、逆の手で塞いだ。泣いてはいけない。感激してはいけない。決して、喜んではいけないのだ。
「だから、どういう意味だよ。あたしが奴隷で市民権を持ってないから、同情して言ってるのかい!?」
ディーナはウェルスの手を振り払う。
こんな反応はウェルスも想定していなかったのだろう。少しの沈黙の後、彼は言葉を発した。
「……言い方が気に障ったのなら謝る。そんなつもりはない。ディーナを愛している。だから、結婚したい」
初めて紡がれる言葉に、意識が遠のきそうになった。このまま『はい』と言えたなら、どれだけ幸せなことか。けれど。
「悪いけど、あたしにそのつもりはないんだ。市民権を得たんなら、さっさとここを出てってくれないかい」
「……ディーナ。何故」
「何故? わからないのかい? あたしはあんたがエルフだから保護してやっただけだよ。奴隷と同じレベルの仲間ってことさ。ファレンテイン人になったエルフなんて、保護してやる必要はないからね」
プイとディーナは横を向いた。ウェルスがどんな顔をしているのか、怖くて見られなかった。
「……しかし、ヴィダルさんは私とディーナの結婚を望んでいた。私がファレンテイン人になった暁には、ディーナをもらい受けると約束した」
「へぇー。聞いてみようか。じーちゃんっ! ちょっと来てくれよ!」
物陰でそっと聞いていたらしいヴィダルが、物憂げに出てくる。
「……なんじゃ」
「じーちゃん、ウェルスがファレンテイン人になったら、ウェルスにあたしをやるって言ったのかい?」
ヴィダルはウェルスを一瞥し。
「知らんな」
すぐに視線を逸らした。
「だってさ、ウェルス。ウェルスの勘違いだったんじゃないのか?」
「…………」
ちらりと横目で確認すると、ウェルスは拳を握りしめている。その目は怒りを帯びているようだ。
思えば、ウェルスの怒った姿など見たことがない。何をしてもされても、彼は怒りを表に出すことはなかったのだ。
「何故、嘘をつく。ディーナは私を好いてくれていたのではないのか」
「そりゃ、嫌いじゃないさ。同情だってば、同情! ファレンテイン人になれたんだから、もう同情する必要もないだろ、ってこと!」
次にウェルスの視線はヴィダルに向けられる。
「ヴィダルさん!!」
「……ディーナの、言う通りじゃよ」
ウェルスの拳はさらに強く握られた。あれほど声を荒げたウェルスは初めてだ。彼は真剣に怒っている。
「何故、何故、嘘を付く! 私は……嘘を付く人間は嫌いだっ」
嫌い。その言葉を聞くと体が震えた。
ウェルスに嫌われた。この世で最も好きな人に。
「……そっか。でも、人間は嘘を付く生き物なんだ。嫌いというなら出ていってくれ」
「本気、なのか。ディーナ」
「冗談でこんなこと言いっこないよ」
ウェルスの怒りの瞳は一転、悲しみの色で染まる。何かを言いたそうに口を動かしたが、声になることはなかった。
ウェルスはディーナの横を滑るように通り抜け、家の中に入る。そして自身の荷物を持ち出すと、背を向けたまま店の扉に手をかけた。
「……長い間、世話になった」
ぎい、と扉が開くと、何か声を掛けなければいけない衝動にかられ、ディーナは思わず呼び止める。
「……ウェルスッ」
しかし、ウェルスは振り向こうとはしてくれなかった。
「矢は、『ウェルスオリジナル』は、いつでも用意しておくから! 買いにきてくれよ!」
一瞬止まったウェルスだったが、何も言葉はないまま、扉は乾いた音を立てて閉まった。
行ってしまった。
これでウェルスとの関係が終わってしまったのかと思うと、全身に気だるい重さがのし掛かり、へたへたと座り込む。
「『嘘だと言ってくれ、ディーナ』」
いつの間にか真後ろに来ていたヴィダルがそう言い、ディーナは振り返って見上げる。
「……何、じーちゃん……」
「『嘘だと言ってくれ』……そう言っておったよ。唇を読んだんじゃ」
ウェルスの声に出せなかった悲痛な叫びを聞いて、ディーナは泣き崩れた。
誰より大切なウェルスを傷付けてしまった。
誰よりも幸せになってほしいと……幸せにしてあげたいと思っていたのに。
「ごめん、ウェルス……ごめんんん………っ」
ディーナは心の底からそう謝るも、ウェルスに伝わるはずもなく。
ヴィダルは愛する孫のその姿を、ただ苦しそうに見ていた。
ディーナの嗚咽はいつまでも途切れることなく、一晩中続くのだった。