盆
「こんな歳で、初めて外に出たなんて、情けない話だよね。」
京が、まだしんどいのか疲れた顔で笑った。
「結局、たまきちゃんに、迷惑かけて。母さん、泣かせちゃうし。父さんに、みんなに、心配かけて。本当に、僕は…」
そう言う京の、苦しそうな表情がたまきの胸を締め付けた。かける言葉が見つからない。本当に悩んでいる彼に適当な言葉を言えるはずがなかった。
「……」
黙り込んだたまきを見て、京は
「広間へ行って、みんなに顔を見せてきたらどうかな。10年振りくらいでしょう?叔父さんたちが喜ぶよ。それに、僕、少し休みたいから。」
青白い顔に明るい笑顔を浮かべてそう言った。
あまり言う事のない弱音を吐いたのは、たまきが出て行きやすくするための彼の気遣いだろう。
たまきはなんとか笑顔を浮かべて、
「そうするわ」
と言って部屋を出た。
***
休みたい、というのは本音だった。
たまきといたお陰で心臓が止まってしまうことは避けられたが、やはり発作を起こすと後がしんどい。京は息を吐いて目蓋を閉じた。
目を閉じると、色々な音がはっきりと聞こえ始める。
風でそよぐ外の枝
風鈴の音
はしゃいだ子どもの声
下駄が地面を蹴る時のカコカコという音
自分の息を吸う音
障子を閉めているので昼よりは遠いが、静かな離れではよく聞こえる。
「はあ」
また大きくため息を吐いた。
その時、目尻から雫が一筋零れ落ち、こめかみを伝って髪に染み込んだ。
何の涙なのかは自分でもよく分からない。
情けないからか、息苦しいからか、生理的なものなのか。
「…くっ、良い歳して情けないったら」
思わず少し笑って、目を開いて体を起こした。重いので、自然と動きが遅くなる。
ぼんやり足元に視線をやって、しばらくほうけてからのそりと布団から這い出した。
***
初は大人たちの中にいるのに飽きて、広い屋敷の中を歩いて見て回っていた。
築百年をゆうに超す古い屋敷だが、それ程古びた感じはなくむしろ味があって落ち着く。
と、初は兄の言葉を思い出しつつ歩いている。まだまだ幼い初にはよく分からない感覚である。
(味…ねぇ。古い感じしかしないけど。こんなのが良いのかしら、にいさんは。…味があるってどういうこと?)
試しに柱を指でなぞって舐めてみた。何の味もしなかった。さっき広間で食べた煮物の出汁の味がするばかりだ。
(やっぱり味があるなんて嘘だ)
唾液で濡れた人差し指の先を服で擦った。
「何をしているの?」
不意に傍で男の人の声がして、初は跳び上がった。
「わああっ!!」
「ああ、ごめんよ。驚かせてしまったね。」
初の声にその人も驚いていた。目を大きく開いて微妙な表情で初を見下ろした。
「それで、さっき何をしていたの?柱をなぞって舐めてたみたいだけど。」
「知ってるんじゃない」
では何故聞くんだと顔で言うと、その人はええと、と言葉を選びながら別の言葉でもう一度言った。
「何をしたか、ではなくて、どうしてそんなことをしていたのか、を教えて欲しいんだ。」
「兄さんが、この屋敷は味があって良いって。だから味見。」
「はは、なるほど。“味”ね。」
「味なんかしないわ。兄さん、嘘ついた。」
初は不満を露わに口を尖らせたが、男は正反対の優しい笑みを浮かべていた。
「“味”っていうのは、魅力ってこと」
「みりょく?」
「うーん、良いところって言えば分かる?」
「うん」
「古いけど、そこもまた格好良いって、お兄さんは言いたかったんだと思うな」
「ふーん。たしかに、はつもここは好き。何ていうか、良い感じがする。しーんとしてて、うるさくない。古いけど怖くないから、好きなの」
「そっか、はつちゃんて言うんだね。良いこと言うなぁ」
男の人はそう言って笑って、初の頭を軽く撫でた。袖から見えた腕が父親の半分くらいしかなくて、よく見れば顔色が悪い。
「お兄さん、具合わるいの?寝てなきゃだめだよ。良くならないから」
風邪を引くと母が口を酸っぱくして言う言葉だ。咄嗟に口から出た。
すると後ろから、
「あ、やっぱり!京ちゃん寝てなきゃだめじゃない!部屋まで連れて行ってあげるから」
と、焦ったたまきお姉さんの声がした。
「お手洗いに行こうと思ったんだよ。…付いて来る?」
意地悪な顔でお兄さんがそう言うと、たまきお姉さんは怒った顔で
「心配して言ってるの!もう、からかわないでよね!」
ぷいとそっぽを向いた。
「ごめんごめん。つい。」
謝っているのに満面の笑みでお兄さんが言った。たまきお姉さんもちゃんとわかっていたようで、ニヤリと笑って許した。
「はいはい、じゃあ行ってきてください。終わったら真っ直ぐ部屋に戻ってね」
「うん、もちろん」
お兄さんは私を撫でてから手を振って歩き去って行った。
***
翌朝。
初は早朝、お手洗いへ行きたくなって薄暗い廊下を歩いていた。床がひんやりとして気持ちが良い。
すると、突き当たりにお手洗いのある廊下に人影があった。あのお兄さんだ。だがどうも様子がおかしい。
「っ、!……ふぅ。……はぁ。」
壁にもたれていたのが、向きを変え背中を預けてそのまま下へずり落ちた。初は訳も分からず傍へ駆け寄った。
「どうしたの?」
お兄さんは薄目を開けてこちらを見て、僅かに笑うと
「平気、大丈夫、すぐ、治るから」
苦しそうに、小さな声で言った。
はぁ、はぁ、と息も絶え絶えだ。
初は自分の手が震えているのに気がついた。
よく分からないが、これは誰かを呼ぶべきだ、そう感じて部屋へ戻ろうとすると、
「お願い、言わないで、誰にも」
お兄さんがすがるように言った。
「軽いやつだから、ほんとに、大丈夫。ほら、さっきより、随分良くなった。」
お兄さんがにっと笑って見せた。
初は内心怯えながら、頷いた。
お兄さんはやはり笑顔で初の頭を撫でて、ゆっくり、本当にゆっくりと、部屋へ帰って行った。