僕は傷つけた
引っ越してから、ぼくの関西弁はお母さんの標準語や、まわりの人のやけに丁寧な言葉のおかげか、日に日に薄れていって、完全に消滅した。
母の実家は家電メーカーの会社を営んでいて、はっきり言ってお金もあるし、立派な家もある。一人娘の母が帰ってきたことをものすごく喜んだ僕の祖父母は、家の敷地内に僕たちのために家を一軒建てた。祖父母とお母さんと僕の周りにはいつも、家政婦さんたちや護衛がいて、あまり落ち着かなかった。
お母さんのことを「信子さま」と、「さま」づけで呼んだりしてなんだか気持ち悪かったし、僕のことも「おぼっちゃま」と呼んだり落ち着かない。確かに祖父母は良くしてくれるのだが、それすら不自然だったのだ。
僕は、この家ではお父さんの話をしてはいけないのは直感で分かっていた。その時の僕はまだ幼くて分かっていなかったのだが、どうやら、お父さんは山野辺家に養子として迎えられていて、この会社の跡継ぎになる予定だったみたいだった。その結婚は祖父が決めたことらしく、祖父はそのことをとても後悔していたし、お父さんにとてもおこっているようだった。
ともかく、お母さんと僕はこの家で何の不自由もなく暮らした。お母さんは働かなくてよかった。良家のご令嬢がその辺のスーパーでパートをしているなんて噂がたつとわが家の恥さらしだとかなんとか祖母は言っていた。でもその生活が息苦しかったのか、お母さんはおしゃれをして毎日のようにどこかへ出かけた。そして、一か月たったのち、お母さんの高校の時の友人だという男をお母さんは連れてきて、僕と会わせて次は三人で出かけるようになった。僕はその男をおじさんとよんだ。二人についていけば毎回何かしら買ってもらえるし、まあいいかなんて言う気持ちだった。
そんなお出かけも恒例化してきたころ。たまたまデパートに来ていたお兄ちゃんと遭遇した。
「ねえ、あれ、お兄ちゃんだよ、お母さん」
僕がお兄ちゃんを見つけてお母さんの袖をひっぱると、お母さんは血相を変えた。それに構わず、僕はお兄ちゃんに手を振った。お兄ちゃんもそれに応じて、にっこりと笑って手を振り返してくる。
「あの子、奏音くんの知り合いかい?」
おじさんが僕の顔を覗き込んだ。
「うん。僕のお兄ちゃんだよ。今は一緒に住んでないの。お父さんと____」
「やめなさい、奏音」
お母さんの声がいつになく冷たく、僕を制した。
「信子さん、君は確か子どもは一人だと言っていたよね。前の旦那さんもお亡くなりになっているはずじゃ……」
おじさんは困った顔をしてお母さんに聞いた。
そうしている間にも、お兄ちゃんは僕たちのもとにどんどん近づいてきて、ニコニコ笑っている。
だめだ、お兄ちゃん、今来ちゃだめだよ。僕がそう思った時にはもう遅かった。
「奏音! おかあさん!」
とお兄ちゃんは言った。
「嘘をついていたのか、君は?」
おじさんは怖い声で言った。
「うううん、違うの、そうじゃないの。ね、奏音、違うでしょ、この子はただの近所の子でしょ。だからお兄ちゃんなんて呼んでいるんじゃないの。ね、そうでしょ」
僕は必死そうなお母さんを見て、思わずうなずいてしまった。お兄ちゃんはひどく傷ついた顔をした。
「君、いつも遊んでくれてありがとうね」
そしてあろうことか、お母さんはお兄ちゃんに向かって、まるで本当に自分の子じゃないみたいに接した。「君」だなんて、ばかげている。
でもお兄ちゃんは強かった。すべてを察したように、笑顔でこう言ったのだ。
「いえ、おばさん。こちらこそ、奏音くんと遊べてとても楽しいですよ。さっきはすみません、母と間違えたみたいで。それでは」
小六にしては、お兄ちゃんはできすぎていた。もちろん、そんなことまだ小三の僕は思わなかった。そう思ったのは最近だ。お兄ちゃんはその後涙一つみせずに、その場を立ち去ったのだ。僕は何とも言えない気持ちになって、悲しくなった。
それからほどなくして、おじさんはぱったりと来なくなった。お母さんは沈んで、部屋にこもって僕の話も聞かなくなった。僕はそんなお母さんの目を盗んで、お兄ちゃんに会いに行った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
あんなにひどいことをしたのに、お兄ちゃんは笑って僕の話を聞いてくれた。
「僕、お兄ちゃんと暮らしたい」
「なんで?」
「お母さん、もう前のお母さんじゃないみたいなんだ」
暗い部屋でぼんやりしているお母さんを見るのは嫌だった。僕はその現実から目を背けたかったんだと思う。
「そんなこと、言ったらあかん」
さっきまで優しかったお兄ちゃんの声のトーンがいきなり落ちた。
「もう来んな。はよでていって」
どうして、どうして。僕は閉まりかけのドアに必死にしがみついたけど、それはほどかれた。そして、お兄ちゃんがこう呟いたのが聞こえた。
__お母さんのこと、よろしくっていったのに__
それがお父さんが死ぬ時までに会った最後の日だった。




