教訓その二十七〜人間、死ぬ気になれば五分と五分だ!
「僕たちは少し、話をしようよ」
薫は、速水麗奈にそう提案をした。
「……いいですよ」
麗奈は、あえてその意見を受け入れる。時間がない。本来ならば、すぐにでも仁を追い掛けたい。
だが、薫が何者かが分からない今、慎重な動きが必要とされる。
さっきから、麗奈の背筋には寒さが走っている。
まず、まともにやり合っても勝てない。直感が、そう告げている。
「ふふ、OKしてもらえるとは思わなかったよ」
薫は静かに笑った。
このような、余裕の態度も、自信の現れなのだろう。
何より、怖いという感情に飲み込まれそうだ。
「質問しても良いでしょうか?」
「どうぞ」
「あなた、何者?」
「人間だよ。君と同じさ」
「人間は、手を触れて歌を歌っただけじゃ、傷を治す事はできません」
麗奈が勝ち目を見出だせない理由の一つが、まさにそれである。
さくらの発砲した弾を、一葵を庇う為に負った傷。
心配かけない様にと、平然を装っていたのだが、正直泣きそうなくらい痛かった。
それが、今は嘘の様に回復している。傷口すら消えている。
ありえない事だ。
「僕から質問するね?」
「私の質問に答えてからにしていただけます?」
「答えたじゃないか。僕は人間。それ以上も以下もない」
「じゃあどうやって傷を治したのですか?」
「それは二つ目の質問になってしまうね。僕から一つ質問が終われば、答えるよ」
「………どうぞ」
薫には、討論ですら勝てない。
屁理屈と言えばそれまでだが、薫の言い分にも一理ある。それに、譲る気はないという事が伝わってくる。
渋々だったが、これ以上言い合っても無駄だと思い、一先ず承諾。麗奈は薫の言葉を待つ事にした。
「君は、自分と他人、どっちが大切?」
薫の質問に、麗奈はしばし沈黙。
質問の意図が読めない。そんな事を聞いて、どうする?
でも、答えなければならない。薫の能力の理由が分かるのだから、尚更。
「………自分、です」
「正直だね、君は」
麗奈は、他人よりも自分が大切と答える。それに対して、薫は相変わらずの笑顔。
「自分が一番。それは間違っていないよ。人間は、自分の為に生きている。決して、他人の為じゃない」
「さぁ、次はあなたが答える番よ。さっきの質問の続き」
「人間は直ぐに偽善者ぶる。知っている単語を並べただけの上辺だけの言葉には、何の価値もない」
「質問に答えなさい」
「落ち着いてよ。僕は話がしたいだけ。聞いて欲しいだけなんだよ」
麗奈は、早く正体を確かめたかった。だが、薫のペース。
「矛盾していると思わないかい? 人間は自分が一番可愛いのに、言葉はそれを隠そうとする。心は全く逆の事を思っているのに」
「…確かに、そうかもしれないわ。でも、私達がユキを助けたいという事に、偽りはない」
「それは友達だから助けるんだ。他人は知らんぷり。友達を助けない奴は、嫌われる。君は嫌われる事を嫌っている」
「例え他人でも、目の前で困っている人が居たら力になるわ」
「人を助ける手段はいくらでもある。でも、君は妥協する」
「…………」
薫には、言い返す言葉が見つからない。
「例えば、コンビニなどに置いてある募金箱。これにいくらかでも寄付すれば、救われる人間は大勢いる。身近にあるんだよ、いくらでも」
「…そうね。私は自分が一番で良いわ。だから、自分の為にユキを助ける」
「言葉は全て偽りなり。完璧な言葉などない。それでも心は言葉を探せと、僕を煽る」
薫の雰囲気が変わった。瞬間的に麗奈は身構える。
「それに比べて…歌は良い。まるで偽りを感じない」
また、薫が歌い出した。
おそらくだが、薫の能力の秘密には、歌が関係している様に思える。
「質問に答えない気ね…」
麗奈は、顔をしかめる。
薫の歌が、戦闘開始の合図である事を察知。
麗奈が持ち合わせる唯一の武器は、ベルトのみである。
長さおよそ一メートル。腕よりは長いベルト。幾分だが、攻撃範囲は広い。
殺傷力に関しても、申し分ない。遠心力を上手く活用し、バックルの部分が命中すれば、人間の皮膚など軽く裂く事が可能。
現に、薫の顔には傷を付ける事ができた。掠めただけで、切れるのだ。直撃すれば、ダメージも大きいはず。
「□△♪☆□○〜」
薫が歌う歌は、意味が分からない。
そもそも、歌詞が日本語ではない。
頭脳明晰である麗奈ですら、聞いた事のない言語。どこかの国の言葉というよりは、はるか昔の言葉に近い。まるで、呪文の様だ。
「さぁ、おいでよ」
歌い終えて気が済んだのか、薫は麗奈を挑発する。
闇雲に攻撃しても無駄だろうが、薫の対応も気になった麗奈は、あえて乗る事にした。
正面から突っ込み、攻撃範囲である一メートル手前で体を一回転。ベルトに遠心力を与え威力を倍増させる。
振り切ったベルトは薫に直撃するはずだった。
ほんの、一瞬。
麗奈が回転を加える為に、薫に背中を向けた、ほんの一瞬。
薫は、消えていた。
「………嘘、でしょ…?」
次に麗奈が見たものは、勝機を絶望させる程の、力の差だった。
「…あなた…本当に何者なの…?」
麗奈は、薫を《見上げた》。
「に、人間じゃない…」
そう、人間は、宙に浮く事など、できないのだから。
いつの間にか、薫は浮いていた。ベルトが空を切ったのだ。透明な台の上に乗っているわけではない事が証明される。
重力を無視した、薫の能力。
人が、浮いている。
麗奈は、勝ち目を見出だせなかった。
負のオーラを出した一瞬を、薫は見逃さない。
宙に浮いたまま、足で大気を蹴る。まるで地を蹴る様な動きで。
そのまま、麗奈に向かって突進。飛んで来た、と言っても良い。
「ああぁあああぁ!」
もはや麗奈は、正気ではいられなくなり、狂った様にベルトを振るう。
確かに、直撃。だが、感触がない。ベルトは、薫を貫通し、またしても空を切る。
「やぁ」
「!?」
背後から悪寒。振り向けば、薫が涼しい笑顔を向けている。
引き攣った顔をする麗奈に対し、何と涼しい笑顔だろうか。
恐怖。今麗奈を支配しているもの、それは恐怖。
まるでホラー映画の被害者の様だ。
気が付けば背後を取られている。
傷の完全回復。空中浮遊。
科学で証明できない事実が、今まさに目の前で起こっている。
「………落ち着いて…落ち着いて…」
麗奈は自分に言い聞かせる。
冷静になれ。慌てるな。
よく、考えるんだ。
必ず策があるはずだ。それを探すんだ。
麗奈は素早くバックステップを踏み、薫から距離を取る。
そして、冷静に分析を試みる。
『なんでベルトが擦り抜けたのかしら。一番最初に攻撃した時、薫はベルトを避けた。喰らいたくなかったんだ。結果的にベルトが掠った。あの頬の擦り傷が打撃が効く事を証明している。じゃあ何でさっきは避けなかったのかしら。きっと、無駄だからだ。だから避けなかった。そして擦り抜けた。…という事は、あれは実体じゃない…?』
今度は、薫から一時も目を離さず、睨み付けたまま思考する。
『この部屋にホログラムでも仕掛けてあるの? …違う。そんな大掛かりな事をすれば機材でバレる。歌だ。あの歌に何か関係性があるはずだ。…本当にそうか? マジシャンなら、動きの全てに意味がある。でも、薫のは手品じゃない。あの歌はフェイク?』
麗奈の睨みにも、薫は何の反応も見せない。
ただ、涼しい笑顔で棒立ちをしているだけ。
『一瞬にして消えた事は、どう説明する? 考えろ…。薫の行動は全てが人間離れしている。でも、彼は人間だと言った。まず、間違いない。人間が傷を癒し、宙に浮き、一瞬で消える。私ならどうする。私がそれらを会得しろと言われたら、どうする?』
「…さっきからさ」
「ーーえ?」
「何を考えているんだい?」
ありえない!
麗奈は、一瞬も薫から目を離さなかった。しっかり、睨み付けていた。
なのに何故、薫が背後に居るのだ!?
『なんで!? なんでいつも一瞬で背後に……っ!! 背後…? そうか!!』
麗奈は、振り返り様にベルトを振るう。
薫はいとも簡単にそれを避ける。
『やっぱり…これは避けるんだ。………じゃあ…次は…』
麗奈は再び、距離を開ける。
「私も、本気で行きますよ!」
そして、メガネを外した。
麗奈の視力は、裸眼だと両目共に0.5。視界そのものがぼやける。大丈夫なのだろうか?
「喰らいなさい!!」
一戦目同様、薫には何の策もないように、ただ突っ込んで来ただけに見える。事実、そうなのだが。
攻撃パターンも全く同じ。一メートル手前で一回転。ベルトに遠心力を加えた攻撃。
「同じ事さ。そろそろ僕からも行くよ?」
麗奈のベルトは空を切る。一瞬の内に薫は上空へと逃げる。
麗奈は、目を閉じてしまった。
薫が上空から突っ込んで来ているというのにも関わらず。
ーーパキッーー
「ちゃんと、弁償してもらうわよ」
鈍い音が、静かな部屋に響いた。
床に伏せているのは、薫であった。
麗奈の肘が、薫の溝を貫いたのだ。
「高かったのに…このメガネ…」
薫の足元には、麗奈が仕掛けたメガネが、踏まれた事を原因に無惨な形になっていた。
「催眠術…ね。貴方凄いわ」
意識を失った薫を見下ろしながら、麗奈は呟いた。
同時に、腕に激痛が走る。
「…やっぱり、治ってない、か」
麗奈の腕には、完治したはずの傷が、再び浮かび上がっていた。
否、傷は最初から完治などしていなかった。
催眠術。それは、世にも恐ろしい魔術。
薫の場合、例の歌。あれが、催眠の掛橋。
催眠術には種類があり、最も一般的なのが、視覚による幻想。
次に神経を麻痺させる。
麗奈の傷は消えていない。消えた様に見せただけ。神経を麻痺させる事により、痛みも感じなくなる。
空中浮遊も、実際に薫が飛んでいたのではない。
薫が飛んでいるように見せただけであり、本人は地上に居た。
幻想に気を取られている麗奈の背後に回り込む事など、実にたやすい。
麗奈がそれに気付く事ができたのは、薫がベルトを避ける時と避けない時があったからだった。
避ける時は実像。避けない時は虚像。
背後に居る時は実像。それは必ず、突然現れた時だった。
回転を加えた時に、床にメガネを落とす。実像の薫からすれば、そこは死角。
宙に浮く薫は虚像。麗奈の意識がそちらに向いている内に、背後に回り込む。
そこに、落ちたメガネを踏み、音がする。麗奈は我に帰る。
虚像が突っ込んできているにも関わらず、背後に肘を繰り出した。
薫は、特に身体能力が高いわけでもない、普通の人間。溝に強い衝撃を受ければ、一たまりもない。
「……………勝った」
麗奈は、深いため息と共に床に座り込む。
「ジン君…ごめん。前、見えないや…」
メガネが破壊され、腕の傷の再発。仁を追う力は残っていなかった。
薫の気絶により、催眠は解除された。
これは麗奈だけでなく、及川さくらにも影響を与えた。
さくらは、廃人化しているわけじゃなく、操られていただけだった。
考えてみれば、意識がない人間が、拳銃を扱えるわけがない。
さくらの意識が戻ったのは、一葵にトドメを刺す直前。麗奈が薫の意識を奪うのに少しでも遅れていたら、一葵は撃たれていただろう。
催眠は恐ろしい。人を簡単に操れてしまうのだから。特に、薫のようなタイプの催眠は危険。
視覚を刺激する催眠ではなく、歌による聴覚への刺激。脳へ異常なデータを送り込み、判断力を鈍らせる。結果的にそれは、幻覚を見るようになる。
「やっぱ痛いな、これ」
麗奈は、持っていたベルトを腕に締め付け、溢れ出る血を止血した。
痛みがなく、完治した気になったとはいえ、傷自体はそのままだったのだ。
激しい動きにより、悪化したに違いない。
忘れていた痛みが再び訪れるというのは苦痛だろう。
「それにしても、あの質問は何だったのかしら?」
麗奈は、気絶している薫を見ながら呟く。
「この子…人を嫌ってるのかも。催眠を悪用なんかしないでよね…」
麗奈は、薫の頬に付けてしまった傷口にそっと手を当て、顔を覗き込んだ。
裸眼のせいで、視界が悪い。二人の顔の距離は、かなり近い。
第三者がこの現場を見れば、『まさか、キス!?』と誤解をされそうだ。
「……可愛い寝顔」
「ありがとう」
一瞬にして、麗奈の顔は真っ赤になる。
「近いですよっ!」
「…君から近付いて来たんじゃないか」
動揺を隠せない麗奈に対しても、やはり薫は涼しい笑顔を向ける。
麗奈には、そう見えているだろう。
裸眼のせいで、麗奈は薫の表情の違いに気付く事ができなかった。
己の大胆な行動を恥じる余り、メガネを掛けていても見逃していたかもしれない。
わずかだが、薫は照れていた。