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鬼喰い  作者: 勝又健太
プロローグ
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プロローグ

「なにがあったのじゃ、いったい……」


 通りの真ん中で、男は困惑した表情を浮かべていた。


 無人の村であった。しかし、人のいない村など、男の生きているこの時代には珍しくもない。


 飢餓、疫病、抗争……人々が慣れ親しんだ土地を捨てる理由は様々だが、"大異変"後の、誰の助けも期待できないこの時代においては、自らの力を超えるものに逆らうことが速やかな死を意味する以上、力に屈服するか、すべてを捨て別の場所に移るか、それ以外に選択肢は存在しないのであった。


 むしろ、なにかを捨てる決断を下せた人々はまだ幸運と言うべきだろう。


 捨てられる側となり、足手まといとして放置され、なす術もなくただ虚ろな目で死を待つだけの人々を、男は旅の途中で数えきれないほど見てきた。


 親が子を捨て、子が親を捨て、友が昨日までの友を捨てる。そのことに疑問を覚える暇もないほどに、この時代の人々は激烈な生存競争の中にいた。

 「権利」という概念、そしてそれを守る「国」という共同体が崩壊したこの時代においては、生きる能力を失った人間に、生きる権利は存在しないのであった。


 人を斬る以外の術を知らぬこの男が、そういった捨てられた者たちに手を差し伸べられるわけもなく、出来ることと言えば、ただ彼らの安らかな死を願うことだけであったのだ。

 "殺してくれ"と、か細い声で懇願する彼らの願いを実際に叶えてやったことも、一度や二度ではなかった。


 それに比べれば、誰一人捨てられることもなく、村民全員が一斉に消えたのであれば、彼らの行く末にわずかな希望 ーー それが限りなく絶望に近いとしても ーー を見いだせる分、まだ救いがあると言えた。


 だが、この村の場合は違った。


「なんなんじゃろうな、人っ子ひとり、死体ひとつ転がっておらんというのに、この血だまりは……」


 そう、鉄パイプや廃材を組み合わせて作られた、数十戸ほどの掘っ立て小屋のような家々の中は言うにおよばず、屋根の上、壁の表面、そして通りのいたるところ、この村はおびただしい量の血だまりに埋め尽くされているのであった。


 すでに昼前とはいえ、梅雨時で気温の上がりきらぬ、じめじめとした陰鬱な曇り空の下、まだ新しいと見える膨大な量の血は乾ききらず、猛烈な血臭を放っていた。


「10年前の"大異変"の後、わしも色々な修羅場を見てきたが……」男は家々を覗き込みながら呟いた。


「多少は復興に向かっていると思っていたが、いよいよこの世も本格的に"地獄"と繋がってしまったかのう……」


 住人すべてが惨殺された村を見たことも、あるいは自身の手によって、敵対する者たちの屍の山を築いたこともあったが、そこには必ず「理由」と「死体」が存在していた。


 突如として現れた、理由も死体も明らかならぬこの血の海は、男の苛烈な人生経験の中においても、初めて遭遇する幻魔のような光景であったのだ。


「"血の池地獄"以外には何があったかの。"針山地獄"、"火焔地獄"、"無間地獄"……他にも色々あった気がするが、だいたいどこでも"鬼"が下働きしておるのじゃったな」


 男は血臭に顔をしかめながら言った。


「わしの一族は"鬼"には随分恨まれておるじゃろうから、地獄には行きたくないのう……」


 驚いたことに、男は笑っていた。悪夢のような光景に茫然としたのも束の間、この男の精神構造の中で、この村はすでに「日常風景の一つ」や「冗談の対象」として消化されていたのである。


 しかし、それはこの男だけに備わった特技ではなかった。この時代に生き残っている者は皆、どのような凄惨な状況も「日常」として咀嚼できる精神力を必要としたのである。

 それが出来ない者に待っているのは、速やかな「発狂」もしくは「自死」であった。


「いまのうちから閻魔様に賄賂を用意しておかねばいかんかな」


 そう呟き、本当に賄賂を準備しようと考えたか、男は家々に上がり込み、血だまりを避けながら物色をはじめた。


「食糧や武器や、使えそうな日用品は残っておるのう。死体だけ持ち去る野盗というのは聞いたこともないが……」


 村が野盗に襲われて一夜にして全滅というのは、この時代にはよく聞く話であった。


 一部の地域では、そういった「焼き畑農業」のような継続性の低い略奪行為を改め、「生かさぬよう殺さぬよう」を標語として最低限の物資だけをかすめ取り、村々に寄生して生き長らえることを志向する輩も現れたが、野盗は野盗であり、後先を考えず欲望のまま刹那的に暴発する者が大半であることに変わりはなかった。


 そのことを考えれば、食糧や武器を残したまま、何の使い道もない死体を持ち去るというのは、野盗というものの性質から考えればあり得ないことであった。

 死体そのものに何らかの価値を見出す集団があるとすれば、それは野盗とは性質の違う、なんらかの狂信的な集団であろうと男は考えていた。


「そういえば小さい頃、"マリー・セレスト号事件"というのを本で読んだのう」男は、家の中で見つけた、外国の古い冒険小説のような本をめくりながら言った。


「乗員乗客が全員失踪した漂流船の話じゃったが、発見された時には、直前まで人がいたかのように食事はまだ温かく、しかも争った形跡はまるでなかったとか……」


 男は家の中を見回して、大きなため息をついた。収納は倒され、食器や荷物が散乱し、さらに就寝中を襲われたと思しき家では、乱れた寝具や寝袋の上に、ひときわ大きな血だまりが形成されているのであった。


「直前まで人がいたらしいのは同様じゃが、残念ながらこの村の場合は、争った形跡"だけ"しかないのう」


「しかもこの状況からすると、相当凄惨な争いがあったようじゃな。仲間割れか、外部の者との抗争か……」


 男は家の壁や床を注意深く観察しながら言った。


「弾丸がひとつも落ちておらんことから考えて、飛び道具は使われておらんようじゃな」


「かといって、素手では無理な話じゃから、刃物を使った殺し合いと考えるのが筋じゃが、刃物があまり落ちておらんしのう……」


 確かに、家々や通りには、包丁やナイフ、日本刀の類が何本か散乱してはいたが、村人全員がこの刃物で殺された、殺しあった、あるいは抵抗したと考えるには、使用されたと思われる本数があまりにも少なすぎた。


「しかも、どこをどう斬ると、ここまで出血するのか……」


 斬ることが日常のようなこの男は、人が斬られて絶命するまでに、そして絶命したあとにどれだけの出血があるか、おそらく世界中の誰よりも正確に把握しているのであった。


「この村の住民が50人ほどだったと仮定しても、これだけの血だまりを作るには、全員の血を一滴残らず絞りださなければならん。果たして刃物だけでそれが可能じゃろうか?しかも、なんのために?」


 男は、家の中に落ちている、血まみれの包丁を眺めながら呟いた。


「死体を包丁でみじん切りにでもしたかのう。えらく根気がいりそうじゃが……」


 男は目を薄く閉じて、色々と思考を巡らせているようであったが、そのとき「ぐうう……」と、男の腹の鳴る音がした。


「いかんいかん。わしともあろう者が下品な……」


 この時代に生きる人々の神経がいかに強靭だとはいえ、死体を切り刻む光景を想像して空腹を感じられる者はそう多くはないであろう。

 ましてこの村全体に漂う猛烈な血臭と血だまりの中では、食欲を失いこそすれ、食欲が増進する人間などまず存在しない。


 いるとすればそれは人間ではなく、血のしたたる生肉を好む肉食獣ぐらいであろうが、この男の精神構造もまた、肉食獣のそれに近いのであろうか。


「こんな時でも腹はへるものじゃな……」男は苦笑して言った。


「まともなめしにありつけると思ってこの村に立ち寄ってみたが、いくらわしでもこの状況で食糧を拝借するのは気が引けるのう……」


 男は家の中の食糧を未練がましく見つめながら、家の外に出て、道の真ん中に立ち、周囲の空をぐるりと見回した。


「さてどうするか、血の臭いを嗅ぎつけて、カラスでも飛んでこんもんかな」


「キジの方が好みじゃが、この際ぜいたくは言っておられん」


 腕組みをしてぼやきながら、男がふと路上に目を落とすと、血だまりの中で白く輝く小さな物体が目に止まった。


「はて……そういえば小さな白いものが先ほどの家でもたくさん転がっておったが、これは何じゃろう?」


 男が屈み込もうとしたその時であった。

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