閑話~運命の転換点
今回、敵パートです。
人が炎に包まれる。
温度の高い青白い炎は、絶叫も、涙も、苦痛をもたちまちのうちに焼き尽くし、後には黒い炭しか残さない。
エイダが一歩進む度、犠牲者は増えていく。
剣を振り上げた相手も、剣先が届く前に武器を手から取り落とし、人の形を失って崩れ落ちた。
馬で突撃してくる相手は、彼女を守る兵士によって押し留められている間に、じっくりと焼き尽くす。
「化物だ……!」
そんな声が聞こえたが、エイダは特別傷つきはしなかった。
もっと強くなければ、エイダが嫌な目に遭うのだ。そんな可哀想な自分のために、もっと彼らは怖がってくれなければならない。
ただ、ファルジア王家の近親者なのだろう。ごく淡い色合いの髪を見ると、自分は何をやっているのだろうと疑問に思う瞬間があった。
エイダだって、元からこんな考え方をしていたわけではなかった。
別に同じファルジアの民や、どこかですれ違っていたかもしれない貴族を殺そうと望んでいたわけではなかった。
このシェスティナに近い平原に来たかったわけでもないし、ルアイン軍に対峙するファルジアの軍を、背後から攻撃したのは全て命じられてのことだ。
何が悪かったのだろう、と思い返す。
婚約者が駆け落ちしなければ良かったのか。
自分を好きじゃないと感じた時に、どうにかして別な男を探せば良かったのか。
結婚式を行う教会から逃げなければ良かったのか……。
一年と少し前のあの時、エイダは初めて家出をした。
やみくもに走ったせいで転んだり、迷い込んだ繁みの枝にひっかけたりしたため、ドレスの裾はぼろぼろだ。
それでもエイダは力の続く限り走った。
相手は駆け落ちをしたのだ。自分が一人で外を走って何が悪い。
どんな人にでも美しいほ褒めそやされ、沢山の求婚者がいたエイダが、夫になるべき男に逃げられるなど、耐えきれない侮辱だった。
こんなにも可哀想な自分なのだから、何をしたって許されるはずだと思った。
ついに疲れ果ててどこかの道端でうずくまるまで。
そこに悪魔がやってきた。
「ああ、アンナマリーにそっくりな髪の色だ」
倒れたエイダの淡い茶にやや赤味がかった髪を一筋すくいとったのは、呪いをかけられてウシガエルにされたのではないかという顔の男だった。
横に大きな口とエラの張った顎がカエルをほうふつさせる。大きくはないが、ぎょろっとした感じの目も。
「ようやく見つけた。連れていけ」
悪魔に命じられた部下達によって運ばれたのは、どこかの貴族の館だ。けれどエイダが放り込まれたのは、小さな即席で建てられたような小屋。
そこでエイダは召使に差し出された飲み物を、疑うこともなく飲み干し――そのまま昏倒した。
うっすらと意識を取り戻しても、喉が焼けるような痛み。次に胃が痛み、そのうち体が内側からあふれる熱で、のたうちまわった。
三日三晩苦しんだエイダは、ようやく体の具合が落ち着いた頃、満面の笑みを浮かべるウシガエルの悪魔と再会した。
その時ようやく、男がクレディアス子爵で、自分が囚われていることを知ったのだった。
「さぁ、お前は私の花嫁になるのだ。私の馬車が通る道で倒れていたのだから、これは運命だったのだよ。花嫁に望んだ娘が失踪したせいで、とんだ迷惑をこうむったが、代わりが手に入ってこんなにも喜ばしいことはない」
ウシガエルが語る言葉に、エイダはハッとした。
噂は聞いていた。
可哀想なキアラ・パトリシエールの話を。
父親であるパトリシエール伯爵が懇意にしているから、ウシガエル子爵との縁談が断れなかったのだろうと、お茶会や女性達の集まりがあれば皆でささやいた。
それにしても気の毒。たった14歳で40を越える中年男の元へ嫁がされるのだ、と。
白い結婚になるわけがない。相手は愛人を囲っている男だ。
せめてクレディアス子爵が男色だったら、まだ救われたでしょうに、なんてエイダも口にしたものだ。
そんな、一歩間違えれば下品になりかねない会話は、お茶と一緒につまめる極上の砂糖菓子のようだった。そんなものに興じていた頃に帰りたかった。
今の私なら、逃げたキアラを『覚悟のない人』などと嘲笑うことはできない。悪魔からは逃れたのだ。それだけでも羨ましい。
しかも彼女が逃げ出したせいで、この男が代わりを探していたのなら、自分がこうして捕まったのも、キアラのせいなのだ。とても憎たらしかった。
なぜ逃げたのキアラ・パトリシエール。
そうでなければ、自分にこの男が目をつけることもなかっただろうに、と。
しかも子爵はエイダが結婚を拒否できないよう、エイダの父に手を回していた。
翌日やってきた父は。
「夫となる人間に逃げられた、不名誉な娘だというだけならまだ良かった。家の隅で暮らしているうちに、誰か物好きな人間が妻に望むこともあったかもしれない。だがお前は子爵の家に無断で泊まったのだ。付き人の一人もいない状態で、だ。それを言いふらされて醜聞が広まってしまっては、結婚させるしかないだろうが!」
エイダは驚いた。
寝込んでいる間に逃げ道をふさがれているとは思いもしなかったのだ。女が一人で、独身男性の屋敷に泊まったのが知れ渡っているなら、もうどうしようもない。
エイダは結婚にうなずくしかなかった。
そもそもエイダは、標準的な貴族令嬢の教育を施されて育った。
以前の結婚相手だって、エイダの父が決めた相手だ。特別愛情があったわけではなく、エイダは自分が婚約者に逃げられた無様な令嬢、という評価に耐えきれずに錯乱しただけだ。
だから親に逆らって二度も逃げる勇気などなかった。
それから二週間ほどで、結婚式が身内だけで行われたが、その短い期間ではエイダは、覚悟を決められなかった。
だから式の夜に、無様に這いつくばって泣いて懇願した。
「お、お許しください! 何でも言うことを聞きますから、せめてもう少し、わたくしがこのお屋敷に馴染むまででもかまいませんから!」
夜の相手を拒否したら、一体何をされるかわからないとは思った。けれどどうしても、エイダは受け入れられなかったのだ。
けれどそれが、クレディアス子爵の琴線に触れたらしい。
「……ふ、ふ。アンナマリーが必死に懇願しているようで、無様でいい……。そうしている方が、髪と後ろ姿しか見えないから、より似て見える。……お前の顔はあまりアンナマリーに似ていないな。キアラの方がより近かった。本当に惜しいことをした」
どうやらクレディアス子爵は、死別した最初の妻のことが忘れられないらしい。
だから彼は同じ茶色っぽい髪色の少女を好むらしい。
思えばキアラ・パトリシエールもそうだった。エイダの方が淡く赤味がかった色をしているけれど、どうやら目の色もキアラは亡き妻に近いらしい。
そして今の発言で、どうやらクレディアス子爵の最初の妻は、儚げな雰囲気の少女のような人だったとわかる。
エイダはややたれ目気味の大人びた顔立ちをしている。口元の下にあるほくろがそれをさらに引き立て、まだ15歳だというのに、早々に少女らしい型のドレスが似あわなくなっていた。
そしてエイダの顔はあまり気に入らなかったらしいクレディアス子爵は、2・3日考えると言って放置した後、愛人たちに飽きるまではと猶予をくれた。
だからといってエイダは、悠々と部屋にこもって嘆いてはいられなかった。
屋敷にいる間中ぼろぼろの使用人の服を着せられ、顔を隠すように髪を結わずに床掃除をさせられるようになった。
惨めな立場に置いたエイダを見て、亡き妻を虐げている感覚にほくそ笑みたいらしい。クレディアス子爵はとことん歪んでいる男だった。
その後まもなく、輿入れしたエイダ・フォルツェンは、ウシガエル子爵にすら気に入られず、召使のように扱われていると笑われるようになった。
なぜなら、子爵が他家へ行く時にエイダを召使として連れて行ったからだ。
悔しかった。
でも穢されるよりはましだったから、耐えるしかない。
貴族令嬢として育ったエイダには労働も、寒さも辛くて、何度も熱を出して寝込んだ。
でもあの子爵の慰み者になるよりはと呪文のように唱えて過ごした。
そうして半年が経った頃だった。
クレディアス子爵が、突然エイダのために仕立て屋を呼び寄せた。
以前より痩せたエイダに、いくつもドレスを注文するクレディアス子爵の行動に、とうとう愛人に飽きたのかと暗い気持ちでいたエイダだったが、違った。
「来月からお前は王妃の元で働くのだ」
女官になれということらしい。
エイダは喜んだ。これでみじめな使用人扱いからは逃れられるのだ。
けれどクレディアス子爵は、交換条件によくわからない石を飲みこませたのだ。それを飲めば、王妃の元にいる間も手を出さないでいてやると。
喜んで飲みこんだエイダは、いつか経験したような苦しみに、のたうち回った。そうしてやはり三日寝込んだ後で、クレディアス子爵に告げられた。
お前は魔術師になったのだ、と。
適性があるお前は特別な存在で、それがわかっていたから、王妃に仕えさせることにしたのだと。
嫌悪している子爵の言葉が、これほど心に響いたことはなかった。
まるでさんさんと光が差しこんだかのような心地だった。
特別な存在。
今まで辛い目に遭ったのは、この幸運を掴むためだと思った。
ただ、魔術師ならば、どんな相手でも屈服させることができると思ったけれど、クレディアス子爵を滅ぼすことはできなかった。
魔術師になったことで、魔術による主従関係が結ばれたらしく、子爵が命じたことに反抗すれば、また苦しさに呻く目にあわせられるからだ。
「私がお前の主人だということは、魂に刻みつけてある。逆らえばまた、地獄の苦しみを味わった末に、砂になって死ぬだろう」
そう言われても戸惑うエイダの目の前で、クレディアス子爵は愛人の一人を殺した。
エイダを脅すためだけにだ。
石をほんの一かけら。エイダとそう年の変わらないだろう女性は、それを飲んだとたんに、のたうち回って苦しがり、その後砂になってくずれたのだ。
これが魔術師の適性があるか否か、ということらしい。
恐怖したエイダだったが、それでもクレディアス子爵とは離れていられると思えば心が躍り、恐ろしさは薄れてしまった。
実際に会った王妃は優しく、エイダは彼女の魔術師として雇われたものの、表向きには話し相手をするだけ。王宮から出たりしなければ、庭も建物の中も自由に歩ける。
貴族令嬢らしい安らかな暮らしを送ることができた彼女は、幸せに浸った。
しかも王宮にいれば、憧れの王子様を垣間見ることができるのだ。
美しい銀の髪の、同い年のレジナルド王子。
新年の祝宴には出ていたけれど、エイダの父は王家に強い伝手もなく、国王に嫌われている王子は利がないから近づくなといわれていた。それを仕方ないと思っていたエイダだったが、美しい姿に憧れてはいたのだ。
それに王子は、エイダが王宮に上がったばかりの頃に話しかけてくれたのだ。
子爵に虐げられている噂のせいで、顔見知りの令嬢たちに嘲笑われていた時のことだった。通りがかった王子が彼女達を遠ざけ、エイダを気遣ってくれた。
「この王宮に勤めているんだね。陛下の元で?」
尋ねられて、エイダはついうなずいてしまった。
レジナルド王子や国王が、ルアイン出身の王妃と反りが合わないという話は聞いていた。だから正直に言って、嫌がられたくなかったのだ。
それでも心を気遣うような短い応答をいくつか重ねただけでも、十分に夢のような時間だった。
感情が漣のように揺れ動いて、思わず手に入れたばかりの魔術を発現してしまいそうになったほどだ。
「そう、王宮にいるのは嫌じゃないんだね」
女官として働くのは辛くはないかと尋ねた王子に、不安なことはないと答えると、そう言って微笑んでくれた。
もしかするとエイダのことを気に入ってくれたのだろうか、と錯覚しそうなほど。
だってエイダも綺麗だといわれて育ってきたのだ。
更にもう一度、王子が彼女を探して話しかけてくれたことで、エイダのその思いは強くなる。
自分の夫は、あんなひどい年上の男であっていいはずがない。王子のように綺麗な人こそふさわしいのだと。
そんな甘い感情に浸るエイダに、王子と一緒にいた姿を見かけた王妃が言った。
「殿下もおかわいそうな方なのよ。国王陛下にも疎まれて育ち、今は先王陛下もお隠れになったので、後ろ盾になる方が少ないの。可哀想だけれど、私も元は敵国の人間。いつかあの方も、救ってあげられたらいいのだけど」
気の毒な王子を、優しい王妃は気遣っていた。
その言葉に同意しながら、エイダは今の自分ならば王子のために出来ることがある、と強く思う。
エイダには、王子の後ろ盾になれるだけの力があるのだ。魔術師が彼に臣従していれば、貴族達もこぞって彼の後押しをしたがるだろう。
そのためにも彼女は待っていた。
ルアインによって合併されれば、彼はもう国王に虐げられることはない。
しかも合併が達成されたら、クレディアス子爵は離縁してくれるというのだ。
「そうしたら、貴方は気兼ねなく王子と結ばれることができるわ。そうね、ファルジアの王子ではなくなるけれど、貴方が彼と一緒になるというなら、公爵位を与えてファルジアの西側を領地としてあげてもいいわ。結婚祝いにあげましょう」
王妃のささやく甘い夢に、エイダは浸った。
――それからずっと、彼の隣に立つ日をエイダは夢に見続けている。
「そのためにも戦わなくちゃ」
魔術で自国の人々を焼きながら、エイダは迷うな、と自分に言い聞かせ続けた。




