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私は敵になりません!  作者: 奏多


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閑話~血にまみれた手

 ふらり、歩くその人の前にいた召使達は、黙って廊下の端に避けて膝をつく。


 けれど黒い影を思わせる衣服を着た年若い召使が、その人の手を、白大理石で化粧された床に落ちるものを見て、声を上げかけた。

 とっさに、横にいた同じ黒い服の老婆が彼女の口をふさぐ。

 中央宮殿ではさておき、この東翼の宮殿では何も言ってはいけないことになっているのだ。


 ここは王妃の宮殿。

 その主が何をしていようと、どんな姿であろうと、侍女や王妃の騎士でもなければ口に出してはいけないのだ。自分の身が可愛ければ。


 四年前に嫁いで以来、その人がずっと身に着けているのはルアイン様式の腰帯を結ぶ形のガウンドレスだ。暗い緑に染められたドレスの裾にも、右の指先から滴り落ちる血が落ち、染みを作っている。

 ルアイン人特有の赤茶色の髪は、半分だけ無造作に結いあげられ、骨の浮き出た背中に流れ落ちている。

 とても国内で最も高貴な地位にいるとは思えない、痩せた体の王妃は、そのままふらふらと歩み去った。

 王妃マリアンネが居なくなってから、老婆はほっとして若い召使の口から手を外す。


「はあっ、びっくりした!」

「こちらこそ驚きましたよ。不快と思われたらすぐにむち打ちされてもおかしくないというのに。うかつですよ」

 ぜーはーと息をしながら空気を肺に取り込む若い召使は、たしなめる老婆にうなずいた。


「あの、悪いとは思ってますよ。助かりました。でも……びっくりして」

 そして若い召使は付け加える。


 ――手を怪我するという話は聞いていたんですけれど。


 王妃マリアンネは、時折腕を怪我する。飼っている鳥に王妃は必ず自ら餌をやるのだが、その時に齧られるようだ。

 だから彼女の手は齧られた傷がいくつもついている。


「……最近は特に頻繁なようですからね」

 以前は軽い怪我だけだったというのに、最近は流れる血を止めもせず、放置したまま宮殿内を歩くのだ。

 すると若い召使が身を震わせながら言った。


「そういえば先輩が見たことあるって言ってました」

 部屋の掃除に入っても、基本的に貴族達は召使の存在を無視する。だからマリアンネ王妃はいつも通り、自分で餌を取り換えていた。

 飼われているのはそれほど大きくはない鳥なのだが、大きな鳥かごなので、腕まで中に入れないと餌箱に手が届かない。そうすると鳥は嫌がって、王妃の手を齧るのだ。


 けれど王妃は痛いことが楽しいかのように笑う。

 皮が破れて血が流れても、そのまま指を齧る鳥を見つめているのだ。


「それがまるで――自分の血を捧げているみたいだったって」

「…………」

 なぜ王妃がそんなことを続けるのか。誰も理由などわからない。侍女たちも理由を聞けば叱責されるので、決して口には出さないらしい。

 そんな話をした後、別な貴族が通りがかるのを見て、若い召使と老婆は離れ、自分の持ち場へと移動していく。

 歩を進めながら老婆は思う。


「パトリシエール伯爵が頻繁に来るようになってからは、クレディアス子爵が姿を見せない……。何か戦場に動きがあるかもしれないから、お知らせしたいけれど」

 立ち止まり、彼女はため息をつく。


 王都から鳥を飛ばしたいけれど、王子の宮殿は出入りが厳しく監視されていて、とてもそんな身動きはとれない。せいぜい召使に扮して王宮の中を動き回るのが関の山だ。

 王宮から出ようとしたならば、一人一人顔を改められるので、すぐに自分が王子付きの侍女メイベルだと露見してしまうだろう。


 王宮の噂で、エヴラールがルアインの攻撃をしのいだという話は聞くことができた。

 レジナルド王子は無事。辺境伯側に魔術師が現れて加勢したらしい。

 ほっとはしたものの、ここで安心はできない。立場上、レジナルドは必ず王都へ攻め上ろうとするルアイン軍を倒さねばならないのだ。


 逃げてくれたらどんなにいいだろう、とメイベルは思う。これ以上、あの王子が苦しみを背負う必要はないと、そう言って友好国へ逃がして一騎士としてでも生きられるようにできるなら。

 けれど目立つ銀の髪が王子を追いかける者の目印になる。

 父も失い、母までも犠牲にされたファルジア王家など、捨て去りたいと願っているだろうに。


 だからメイベルは、いつか伝えられる日が来ることを願って、情報を集めることしかできない。

 今日こうして王子の宮殿を抜けだしてきたのは、ルアインに対して軍を召集し将軍を任命して送り出したものの、以降全く姿を見せなくなった王を探してのことだ。


 おそらくは、王妃などルアイン側の人間が監禁しているのだろうと考えていた。できることなら助け出すべきだ。……私情を挟むことが許されるのなら、メイベルだってあの王を助けたくはないのだけれど。

 しかし王が居なければ、王妃が代行として国を動かすことになってしまう。実際、王が体調不良でこもっているということで、王妃が伝言役として既に様々なことが動き始めていた。おかげで先に送り出したルアインを迎え撃つ将軍の元に、兵が予想以上に集まらずにいるらしい。


 そして王妃が許可をしているので、何の追及も行われないまま、領地内をルアイン軍にやすやすと通過させたパトリシエール伯爵などが、堂々と出入りできてしまっているのだ。

 しかしここ数日王宮内を探しても、王は見つからない。だからメイベルは王妃の宮殿にやってきたのだ。


 掃除を続けるふりをしながら、メイベルは次第に奥へ奥へと移動する。

 けれど不審な場所が見当たらない。

 疲れ果て、けれど貴族が近くを通りかかったため、隠れるために礼拝堂へ入る。

 王族のための礼拝堂は、けれど儀式などが行われない限りは、神官以外が出入りすることはない。

 そこでしばしの間しのいだ後、メイベルは礼拝堂から出て――血の匂いを感じて、礼拝堂へ引き返した。


 その日から、召使達の間に密かに噂が広まった。

 王は既に、王妃によって殺されたのだと。


   ※※※


「うふふ……わたくし、夫殺しの王妃と噂されているそうよ? 誰かがアレを見つけてしまったのかしらねオーウェン」

 訪ねてきたオーウェン・パトリシエール伯爵に、マリアンネは微笑みながらそう言う。

 彼女は全く、その噂にいらだつことも怒ることもなかった。まるで他人事のように語る彼女に、パトリシエール伯爵はややいかつい顔をしかめるようにして言う。


「またそのように、美しい指に傷をつくられて……」

 立ち上がって鳥かごの傍に立つマリアンネに近づき、パトリシエール伯爵は彼女の右手に両手で包み込むように触れる。

 けれどマリアンネはくすくすと笑ってその手を引きぬいてしまう。


「どこが美しいというのかしら。こんな骨と皮だけになった指など」

「いいえ、お美しくていらせられます。それは全て貴方様が今日まで耐えて過ごされた結果」

 パトリシエール伯爵はその場に跪き、ドレスの端に触れて口づける。


「初めてお会いした時と変わらず、私にとって貴方は輝いて見えるのですマリアンネ様」

「あなたは、まだ私が愚かだった13歳の頃のように見えるというのね。バカな人だこと」


 パトリシエール伯爵は、キアラがそれを見ていたなら驚くほどに真摯な眼差しでマリアンネを見上げていたが、彼女はそれを見つめ返すこともない。

 ただ鳥かごの中の翠の鳥を見つめて、微笑み続けていた。

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