気にせずにはいられない
さて、領主館の厨房は一階だ。
内履きの柔らかな布靴を履いて、私は固い灰色の石床の廊下を進む。
多少ふらつくが、やはり歩くのには問題ないようだ。いつもより遅めだけれど、ちまちまと歩いて階段までたどり着き、下へと向かう。
ちょうどみんなが会議をしたりと忙しくしている時間なのか、館の中に人の姿がなかった。
ちょっと息切れはしたものの、私は厨房にたどり着く。
お昼の用意を始めているのだろうか。野菜や肉を煮こんだスープの香りがする。口の中に塩気のあるまろやかなスープの味がよみがえって、よだれが出そうだ。
垂れてたら困るので一度口元を袖で拭いてから、厨房横の使用人用の食堂の扉を開ける。中から話し声が聞こえていたので人がいるのは分かっていたので、何かしら余り物がまだ残っているのではないかと思ったのだ。
慣れた調子で扉を開けると、いつも通り、午前中は三人で洗濯を終えた服などの繕い物をしている召使のおばさん達がいた。
「おはようございます、あの、何かごはん余って……」
ませんか? まで言うことは出来なかった。
「ちょっ、キアラちゃんたら何してんの!」
「熱出したんでしょ寝てないと!」
「あんたらそうじゃないよ、魔術師様がこんな使用人の溜まり場になんぞ来ちゃいけないよ!」
一斉に注意された。雨礫か猛吹雪に直撃されたかのように、私の言葉などかき消される。
「それにしても魔術師になったんだってね! あんたはいつかやる子だと……」
「こんな小さな女の子が戦うだなんてねぇ。あたしよりうちの孫の方が年が近いぐらいなのに」
「あんたの孫はまだ2つでしょ?」
「ええっと、ごはん……」
ささやかな私の言葉は、透明な障壁にはじかれるように流された。
「戦場に出たんだろ? それで熱を出したって」
「万の兵士を蹴散らしたんだって!? さすが奥様の侍女になる子は違うね」
もうこの嵐が収まるまで待つしかない。ちょっとぼんやりした頭でそう考えていると、天の助けがやってきた。
「みんな、相手は病人なんですからあまり話し込んじゃだめだよ!」
扉にすがるように立ち止まったままの私と、席から立ち上がって迫って来ていたおばさん達の間に割って入ったのは、顔なじみの料理人見習いの少年ハリス君だ。
おばさん達もそれで我に返って、弾丸トークを収めてくれる。助かった。
けれど私を振り返ったハリス君は、今度は私に注意をしてくる。
「そっちもそっちだ。部屋にベルが置いてあっただろ?」
「うんあったけど……」
それで人を呼びつけるのはちょっと……と思って、歩いてきたわけで。けれどハリス君はそれがダメだと言う。
「病人なだけじゃなくて、キアラはもう普通の使用人とは立場が違うんだから」
「でも、私は私に変わりないんですし……」
「そうなるってわかってて魔術師になったんじゃないのか? 魔術師は王族にだって物申せる立場だって聞いたぞ。実際、キアラは王子とも親しく話してるって聞いたし。その立場に合った振る舞いをするべきだろ?」
叱ったハリス君は、ちょっと吊り上がり気味になっていた眉の端を下げて、困ったように付け加えた。
「誰も代われない立場になったんだから、それに見合った行動とるしかないだろ。キアラの仕事が変わったんだよ」
そう言われていまうと、私としてもうなずかざるをえない。確かに自分は、侍女ではなくなったのだ。そして会議は騎士隊長や守備隊長より上の席次だった。
確かに騎士隊長や守備隊長が、直接ここまで来てご飯をねだったりしないだろう。
「うん……ごめん。そしたら、お腹空いたから部屋まで何か持ってきてくれるとうれしいな」
「じゃあマイヤさんに頼むから、大人しく部屋で待っててくれ」
表情を和らげたハリス君が請け負ってくれたので、私は自分の部屋に戻ることにする。
食堂の扉を閉めようとしたところで、「お前さん……がんばったね」というおばさんたちの声と「今日は休んでいいぞお前。敗れ散った想いってのは切ねぇもんだな」という料理長の声。「は!? そんなんじゃないんだけど!?」というハリス君の声が聞こえた。
どうやらハリス君、同年代の女子である私と仲良くしてたことで、みんなに勘違いされていたようだ。彼の名誉のために私が訂正しに行ったら、逆にその場を混乱させそうな気がしたので、申し訳ないがそのまま離れることにする。
というか、少々立って歩くのがしんどくなってきた。
「ちょっと甘く見過ぎた……」
寝起きの時は、熱が少し下がったせいか元気になった気がしたんだけど。
早めに戻ろうと階段を上る。でもそれが一番大変だった。二階にたどりついたところで、その場にしゃがみこんでしまう。
「うぅ。早まったわ」
こんなことなら大人しく二度寝でもして、空腹に耐えておけば良かった。そしたら優しいマイヤさんが、いろいろと手配してくれただろうに。
「なんで私自分で動こうなんて思ったんだろ」
熱で頭が変になっていたのだろうけど、本当にバカみたいなことをした。
反省と後悔をしつつ休んでいたら、二階のどこかの扉が開閉する音の後で、驚いたように私の名前が呼ばれた。
「キアラ? こんなところで何をしてるんだ?」
ちょっと顔を上げると、珍しくも焦った様子でレジーが駆け寄ってくるところが見えた。
彼も館の中だけを移動していたのか、護衛もなく、衣服もシャツに淡い浅黄色の上着を羽織るだけの簡素なものだった。
階段の端でしゃがみこんでいるので、具合が悪いことは分かったのだろう。近くに膝をついたレジーは、すぐさま私の額に手を当てる。
私は思わず肩をびくりと上下させてしまった。……眠っている合間に、頭を撫でられたことを思い出したからだ。
一方のレジーは、表情を曇らせた。
「まだ熱が高いよ。どうしてこんなところまで一人で出てきたの」
「うう、お腹減っておねだりしに……」
空腹のあまりに徘徊したことは黙っておきたかったが、どうせ内緒にしてもレジーには白状させられるだろう。諦めて正直に話せば、レジーは困ったように微笑む。
「キアラは本当に子供みたいだね。じゃ、掴まって」
「え、あっ」
肩につかまってと言われたかと思うと。あっと言う間にひざ裏と背中を支えられて抱き上げられる。
二年でさらに成長したせいだろう。以前に抱きしめられた時よりもすっぽりと包みこまれるような形になって、それがすごく恥ずかしい。
でもそれだけじゃない。間近になったレジーの顔の、ついその唇を見てしまったら、もういたたまれない気持ちになってしまった。
キスされたんじゃないかとレジーを疑ったことを思い出したら、なんだか急に意識してしまったのだ。私は思わず顔をうつむけてしまう。
「あの、ちょっと休めば自分で移動できるからっ」
私はなんとか脱出できないかと考えて言ってみるが、レジーにやんわりと拒否された。
「そんな風には見えなかったよ?」
「でもでも、具合悪くなってレジーの肩に吐いたら大惨事に!」
だから私を降ろしてほしいと説得したつもりだったのだが、レジーには一顧だにされなかった。
「別にかまわないよ。病気の人間が不可抗力でしたことを怒ったりはしないから。安心して。ほらもっと楽になるよう寄りかかった方が良いよ」
レジーは私を少し持ち上げて腕で支える場所をわずかにずらし、私の頭を自分の肩に寄りかからせた。
ううう。確かにこの方が楽な態勢なんだけど、レジーの綺麗な顎が目と鼻の先にあって、口の動きまでしっかりと観察できるのがいたたまれない。
熱が余計に上がった気がする。
そんな私をお姫様抱っこした状態で、レジーはさっさと階段を上っていく。
全然重たそうじゃないのがすごい。身長差でいうと、私が小学生高学年くらいの子を抱えて階段上るようなものだ。絶対無理だよ私。
ていうか、レジーってば重くないんだろうか。重いと思われてたらどうしよう。
そこではっと気づく。カインさんも私の体重知ってるんだ! うわあああああっ、この熱下がったらもう絶対ダイエットしよう。
頭の中で大騒ぎしているうちにレジーは三階まで上がり、私の部屋まで到着した。
器用なことにレジーが自分で扉を開けると、そこにはマイヤさんと、たぶん様子を見に来たのだろうカインさんが居た。
「キアラ、どこに行っていたの?」
「お腹すいたんだって」
くすくすと笑いながら、レジーが私を寝台の上に寝かせてくれる。その前にマイヤさんが、さっと靴を脱がせてくれていた。
掛け布にくるまった私は、とりあえず礼を言わなければと思った。
「あの、レジーありがとう。それとカインさんも、お見舞いに来て下さって……」
「少しは熱が引いたようですね。良かった」
カインさんはうっすらと分かる程度に、口元をほころばせてくれる。
「もう無理しちゃだめだよキアラ」
「殿下の言う通りよ。お腹がすいたからって、まだ熱が高いのに歩き回ったりしてはだめよ。お水は?」
レジーに注意され、続いてマイヤさんに水がいるかどうか尋ねられる。歩き回ったせいなのか、熱があがったせいなのか、また喉が乾いたのでもらうことにした。
ちょっとだけ体を起こして、マイヤさんからコップを受け取って飲む。
少しぬるいはずの水が冷たく感じる。でもおかげで、少し煮えそうだった頭の中が、落ち着いた気がした。
コップを返すと、受け取ったマイヤさんはそれをテーブルに戻した後、盥に布を浸し始めた。熱が高いから、覚ますために用意してくれているのだろう。
その時、不意にカインさんが傍に来て手を伸ばしてきた。
「ああキアラさん、水が」
上手く飲めなかったのか、こぼしてしまったのだろうか。
私は自分の手でぬぐおうとしたのだが、その前に、指先が私の唇の横に触れる。
思わず背筋が震えた。
カインさんの指が、子供みたいに口の端をぬぐった後、ほんの一瞬だけ唇の一部を指先でなぞったからだ。
思わず目を丸くした私に、カインさんが「どうかしましたか?」と尋ねてくる。
何事もなかったかのような、いつも通りのやや感情がわかりにくい彼の表情。
私は……これは事故なのだ、と思うしかなかった。
たまたま触れてしまっただけ……だと思う。そうじゃないと、カインさんとこれからどう会話していいのかわからなくなる。
「い、いいえ」
小さく首を横に振って、私はさっと寝転がって上掛けを顔を隠すように引き上げた。
「もう休んだ方がいいわね。また後で見に来るわねキアラ」
その間、テーブルの上に用意した盥の水で浸した布を絞っていたマイヤさんは、それを私の額に乗せて、頭を撫でてくれる。
けれど彼女がレジー達に退出を促す前の一瞬。
問うようなまなざしをカインさんに向けるレジーと、珍しくもそれをじっと見返すカインさんの姿が見えた。
彼らもすぐに部屋を出ていく。
今度は私の容体が落ち着いたこともあるからだろう、ずっと誰かがついている必要がないと思ってなのか、最後に部屋を出たマイヤさんが鍵をかけていく音がした。
師匠以外には誰も居なくなって、ほっとする。
そしてさっき見たものの、何が私は気になったのかを考えたかったけれど、熱によって促される眠りが私の思考を散らしてしまう。
「なるほど、そういう効果か、イッヒヒヒ」
そして師匠のいつもどおりの笑い方が、今日はなんだか私を不安にさせたのだった。




