早すぎる事件の発生
「母上!」
すぐにアランが駆け付けて、剣の一閃で狼を退ける。
ぎゃんと鳴き声を上げた狼は飛びのいたものの、胴から血を流しながらも距離をとってこちらを伺っている。
ベアトリス夫人は立ち上がるものの、ひどく足を怪我したのだろう。狼の歯でドレスも一部引き裂かれ、血にまみれている。
「どうして……ベアトリス夫人が負傷?」
そんな筋書はゲームではなかった。だからベアトリス夫人は大丈夫だと思っていた。
ゲームでもエヴラール城から離れていたために助かったアランが、一時身を寄せた砦から出陣する時に、領主夫人である母親に後を頼む短い会話もあったのだ。
むしろ、それしかベアトリス夫人が出てこないので、こんな戦闘系だとは思わなかったというか……。
でもそうだ。ベアトリス夫人は自ら戦うような人なのに、なぜアランの軍について行かなかったのか。
国家の存亡の危機となれば、反抗後に負けたら親族の命など無いも同然。後を任せて安全な場所に置いても、あまり意味がないだろう。そんな状況なら、ベアトリス夫人は自ら従軍するはずだ。
「まさか、できなかった?」
負傷して、一緒に行くことができずに拠点である砦の守備の指揮しかできなかったとしたら?
そのベアトリス夫人は、これ以上戦うのは不可能だという判断に至ったようで、足を引きずるようにして馬車に向かって移動し、アランが庇うように前に立った。
そうしてベアトリス夫人は、馬車の前で呆然としてしまった私を見つけて叫んだ。
「キアラ!? 早く馬車に!」
私は首を横に振って、近づいたベアトリス夫人に駆け寄った。
「ベアトリス様が先です!」
風狼の突風が吹きつけるが、足を負傷して歩くのがやっとの夫人が倒れないよう支える。ベアトリス夫人の様子を見て、クラーラさんが私達を庇う位置についた。
他の騎士や兵士達も、馬から降りて対峙している。時折吹く突風に、騎乗したままでは対応できないからだ。
とりあえずみんな、負傷している者がいるようだが、大事に至っていないのがわかる。
馬たちは荷馬車の後方にまとめられていたが、不思議と狼達はそちらへ見向きもしなかった。
……普通、狼は食料になる馬を狙うのに?
疑問に思ったが、すぐにベアトリス夫人を馬車に押しこむだけで頭がいっぱいになる。
「マイヤさんお願いします!」
呼びかければ、馬車のタラップを上がれない夫人を、マイヤさんが力強く引き上げてくれる。そうして私も、と手を伸ばしてくれたその時、心臓がやけに強く拍動した。
「うっ……く」
一瞬だけ息がつまるほどの変な動悸に、思わず私は振り返る。
「キアラさん!」
クラーラさんが、叫びながら私にとびかかってきた――いや違う。
横から走り込んできた風狼が、ぎゃんと声を上げて、クラーラさんの剣に刺された。どっと地面に横倒しになった風狼は、痙攣しながらも私に視線を向けている。
え、この風狼は私を標的にしてたの?
「キアラさん、早く馬車に!」
「は……わっ!」
返事をして馬車に乗ろうとしたら、だん、と音をたてて馬車の屋根に風狼が一匹降り立つ。
風を巻き起こして飛び乗ったのか、吹き付ける突風で私は転び、クラーラさんも態勢をくずした。
そして風狼はまっすぐ、私めがけて飛び降りてくる。
「ちょっ……!」
どうして!? と驚くことしかできない。なんかほんとに私を狙ってる!?
私は風狼の牙が並ぶ口を見つめながら、その場を動くことができなかったが、
間一髪のところで、黒のマントと濃緑の上着の背中が私の前に立ちはだかり、飛び降りた一匹を一刀両断する。
飛び散るのは赤い血。
それをいくらか被ったウェントワースさんが、振り返って眉間にしわをよせる。
駆け付けようとしてくれたのか、先ほどよりも私に近い場所にいるアランも、荷馬車の傍にいた兵士も、私をめがけて襲い掛かろうとする風狼を相手に、近よらせまいと戦ってくれている。
間違いない。風狼は私を狙っている。
風狼の目がひっきりなしに私に向けられているので、勘違いなんかじゃないはずだ。
でもこれじゃだめだ、と私は思う。
風狼は身軽だ。すぐに風を巻き起こして、剣が届かないほど高く飛び上がる。四方八方から狙われているようなものだ。
なのにこっちは馬車や私を守るために動けない……ん?
四方八方から狙われなければいい?
私は立ち上がった。足は震えていない。ちゃんと力が入る。
そして起き上っていたクラーラさんがぎょっとする中、ドレスの裾を広がらないよう、少しでも短くなるよう結んで――走り出した。
「キアラさん!?」
「おい!」
クラーラさんが悲鳴のような声で名前を叫び、ちょうどこちらを振り返って周囲を確認していたアランが、目を見開いている。
けれどかまっていられない。
私は一端馬車の後ろ側に回る。そこで風狼達が騎士の頭上を飛び越えてやってくるのを目の端で確認すると同時に、反転してアランの脇を駆け抜けて木立の中へ。
「ウェントワースさんもう少し前へ出て! ライルさんとアランはそこにいて挟撃を!」
走れ私!
死にもの狂いで足を動かしながら、私は木を避けながらじぐざぐに走った。
案の定、私を追いかけてきた3匹の狼達が、木立を避けて私の後をついてくるせいで一列に並ぶ。
混んだ状態で生えた木立の中では、風を使って飛び上がりにくい。だから風狼も走るしかないのだ。
けれどすぐ追いつかれてしまいそうになるのはわかっているので、私は早々に木立を飛び出してウェントワースさんを目指す。
途中でもう一度アランとライルさんの間を駆け抜けてウェントワースさんの背後に駆けこむと、彼の真正面に風狼が迫っていた。
「なるほど」
何かを納得したようにつぶやいたウェントワースさんが、剣で鮮やかに風狼を串刺しにする。
仲間の遺体で足を止められた風狼2匹をアランとライルさんが横からしとめた。
それを横目に私はまた走り出す。
別方向からまた2匹が迫って来たのだ。
息が切れて立ち止まりそうになる。でもここでドジって転ぶわけにはいかない。
「お、願い!」
滑り込むように三人の兵士が固まった場所へ私は突入する。
対峙していた狼の突然の方向転換と、私を追いかける有様に驚いていた彼らだったが、すぐにまっすぐに向かって来る狼達を打ち払う。
地面に倒れた狼を、追ってきたアランとライルさんが仕留めた。
――私が狙いなら、私が動けば風狼はそれだけを目標に走ってくる。盲目的に私を狙っていたので、きっと木立でも私の後ろを忠実に追いかけると考えたのだ。
だから私は風狼の意識を私に向け、風狼が飛び上がらないように誘導した。
アラン達の腕ならば、自分に意識を向けていない相手を倒すのは容易い。その予想通り、彼らは私という獲物に注意を集中していた風狼を倒したのだ。
私は地面に座り込んで手をつく。
ようやく全部倒せた。だけどもう、息が上がって喜ぶどころではない。
なんとかドレスの裾だけ元に戻した後は、風狼を倒す様子を確認し、もう走らなくていいということだけを認識して息を整えていたのだが。
「この、バカ者!」
こちらも剣を持って走り回り、ぜいぜいと肩を上下させるアランに怒鳴られる。
声の大きさと威圧感に、私は思わず肩を縮めた。こ、こわいよアラン。
でも怯える私に、アランは容赦してくれなかった。
「弱すぎてすぐ死んでしまいそうな奴が、どうしてあんな真似をした! 無事でいられなかったらどうする気だった!」
「だってあのままじゃ」
みんなが怪我をしていたではないか。しかもベアトリス夫人が戦に参加できなかったということを考えれば、恐ろしい推論が成り立つ。
あの怪我なら、治って走り回れるようになるまで一か月くらいか。けれどベアトリス夫人はエヴラール城攻防戦後も戦場に出なかった。ならば、もっと深い傷を負った可能性もある。
もし私が馬車にいたなら、風狼に馬車を壊され、怪我をしながらもベアトリス夫人が戦わなければならない状況になったかもしれないのだ。
これ以上ベアトリス夫人に、痛い思いなどさせたくない。
しかもこの状況では、他の騎士や兵士はもっとひどい怪我を負うかもしれない。これから一国の軍と辺境伯領の軍だけで戦わなければならないかもしれないのに。
実はもっと怖い推測もある。
もしベアトリス夫人が参戦しない理由が私の予想通りなら。
ゲーム通りに事態が推移したなら、ベアトリス夫人が負傷して戦えない頃にルアインが攻めてくるはずだ。
あと一年近くの時間を待たずに……秋には攻めてくるかもしれない。
予想外の方向に状況が変わったら、どうなるのか予想がつかない。
サレハルドも今のところ動きがないというのに、一体何の理由でレジーが辺境伯領へ来なければならなくなるのかも、わからなくて怖い。だからこそ、アラン達に軽い怪我すらさせるのも怖かった。
結局私は魔術を扱えない状態なのに。戦力が減ってはどうなるか……。
けれど全てを説明できない。
説明できないもやもやを抱えてうつむいた私だったが、その肩に手を触れる人がいて顔を上げた。
「キアラさんは怪我は?」
ウェントワースさんだ。いつも通りの冷静な眼差しに、私はうなずく。すると彼は、アランを諌めてくれた。
「過ぎたことを責めても、仕方ありませんよアラン様」
「しかし……」
「彼女のおかげで、皆が無事だったのも事実です。それに今は、この場を離れることを優先しましょう。血の匂いに引かれた他の獣がやってきたら厄介です。ベアトリス様も負傷していらっしゃいますし」
アランがはっとした表情になり、それから素直にうなずく。
「わかった……言いすぎたな、キアラ。だが説明、してもらうからな?」
私はアランにうなずいて立ち上がると、心配そうに私を見るクラーラさんの手を借りて、馬車の中に入る。
「キアラ、大丈夫だったの?」
中で気をもんでいたベアトリス夫人に、私は微笑みかけた。
「平気です。風狼も全滅しました。急いで帰りましょう、ベアトリス様」
そうして手当をしていたマイヤさんを手伝いながら、私はどうやってこの危機感を説明したらいいのかと、頭を悩ませていた。




