憎いと嫌いの違い 3
「……不満か」
私の表情で察したんだろう。イサークがそう言った。
「お前は変な奴だな。友達だからって、命まで賭けるか? 男同士ならまだしも、お前は女だ。戦場に女が少ない理由はわかってるだろ? 戦闘以外の危険を冒す可能性があるってのに、ついて来る奴なんていない」
「私は魔術師だもの」
「強情だな……じゃあ、お前は強くないってことを教えてやろう」
「何を……?」
イサークが繋いでいた手を離した。その手で私の背中に腕を回し、抱きしめてくる。
慌てて振りほどこうとしても全く腕が動かない。イサークは片手だけしか使ってないのに。
「ほらみろ、俺を振りほどけない……俺はあの子爵ほどは隙がないからな?」
あげく、もう片手で私の顎を捕まえて上向かせる。私は間近に見えるイサークを軽く睨んだ。
「降参するか?」
「しない」
こんなことぐらいで引くような気持ちなら、人を殺すのが怖い時点で私は戦争に出て来られなかっただろう。
「……なんだかな。お前は周りが過保護だって言ってたが、わかる気がしてきたぞ。これだけがっちり捕まってるっていうのに、どうあっても引かないんだからな」
脅すつもりでこんなことをしてるだろうに、イサークは何を言っているのか。
「レジー達は変なことしてこないもの」
「ふうん?」
イサークの視線が細められる。
「なんだか面白くねぇから、俺が少しは警戒させてやろうか」
そう言ってイサークが顔を近づけてくる。
何をするのかと身を引きかけたところで顎を掴まれていたのを思い出した瞬間、頬に口づけられた。
……頬だけなら良かった、と内心で息をついた。
動揺しないのは、もしかして子爵のせいで、あれよりマシだと思うようになってしまったせいなのか、その前から慣れてしまっていたのか。
「イサーク、悪ふざけはやめて」
「なんだ頬ぐらいじゃだめか? それに悪ふざけじゃない。どうせお前のことだから、追い詰められないとわからんだろうと思っただけだ。……そろそろ、こんなに弱いくせに、戦場までついてきた理由を自覚した方がいいんじゃないか? 見てる方も苛つく」
苛つくという言葉に、私は少し怖くなる。
イサークは私個人には酷いことをしなかった。子爵からも助けてくれた。だけど機嫌を損ねたらどうなるかわからないっていう不安がまだある。
「それにしても、まさかこんなのまで慣れてるのか?」
「驚くことは、驚いたけど」
むしろイサークを苛つかせた不安の方が強くて、そっちが気になってたまらない。
「ほう、慣れてるわけだな。相手はあの騎士や随分親し気にしてた王子か?」
「だって二人は家族みたいなもの……」
なんとなく言い訳めいた答えを口にすると、イサークがため息をつくような表情になる。
「お前は恋愛感情が信じられないのか? だから家族だってくくりで相手を認識してるわけだ。だが家族だと言う割に、お前は捨てられることを怖がってるように見えるがな」
捨てられることを、怖がってる?
「不安なのは……お前が、家族に守られたことがないからか? 天涯孤独だって言ってたよな」
イサークの指摘に、私は目の前が真っ暗になった気がした。
家族に守られたことがない。だから前世みたいにお父さんやお母さんがほしくても、それになぞらえる人がいても、いつか突き放されるんじゃないかと思ってる?
今の人生の両親みたいに。無視されたり、置いていかれたり。新しく家族になったと思っても、結局お前は家族じゃないって排除されたから?
そんなことはないと言いたかった。
「信じてる……もの」
レジー達のことを信じてる。
何も信用するものを差し出せなかった私のことを、信じてくれた。それからも信じ続けてくれてた。
「ある程度はそうだろうが、一生それが続くって保証がない。なにせお前が信じてる相手は、別の人間と家族になる可能性があって、そうしたらお前よりもずっと優先するものが生まれるんだ。そうなった時、偽物の家族なんて放置される」
偽物の家族。その言葉に息が苦しくてたまらなくなった。
「お前もそれが分かってるから、捨てられないために他の何かが欲しいんだろ。例えば捨てきれないほど役に立つこととか、な。魔術師として役に立てば、守り続けたら多少距離が開いても大事にはしてくれる」
話し続けていたイサークが、言葉を止める。
そうして顎を掴んでいた手を離して、私の頬に指を滑らせた。
イサークがどうしてそんなことをするのかと思ったけど、すぐにわかった。
吹く風に頬が冷たくなって、自分が泣いていることに気づいたから。
……ずっとわからないふりをしてたのに。
私が必要だと言ってほしくてたまらなくなる理由。否定したくても、イサークの言葉は心の奥まで突き刺さって抜けない棘みたいに、私を苦しめた。
彼の推測を、正しいと思ってしまったから。
捨てられたくない。必要ない人間として扱われたくない。
前世の記憶があるからこそ、そう思っちゃうのかもしれない。家族がいる幸せを知っているから、何もないことが怖くて不安で。
でもこの世界では優しい家族なんていなかった。周囲にいるのはみんな他人だ。
気が合うといっても、友達というだけではいつか離れてしまうかもしれない。時には気が合わなくなって、アランとケンカした時みたいに距離を置くことだってあるけど、家族じゃない限りは、仲直りしても離れてしまうことだってあるはずだ。
血のつながりがないことを不安に思うのは、継母に使用人扱いをされた頃に、働かなければ追い出すと言われたりしたことが大きいのかもしれない。
以前、それをレジーに気づかされてしまった。
私の自由を尊重するレジーに守ることを拒否された時、あの人を失いたくないのと同時に、見離されたような恐怖を感じた。
何もしなくていいと言われると、私は混乱する。
じゃあどうしたらいいんだろうって。
私は皆が大好きだけど、皆がそれを同じように願い続けてくれるなんて……信じられなかったから。
だけど口に出して言えない。
寂しいよ。怖いよ。だから私がずっと必要だって言って、なんて。
重たいって思われて、友達としても側にいるのを嫌がられたら、もうそこにいられなくなってしまう。
「……恨んでもいいぞ」
私を泣かせた相手は、じっとこちらを見つめながらそんなことを言う。
「どうして……」
私を打ちのめすようなことを言ったの?
そっとしておいてくれたら良かった。気づかないまま、不安でも前に進めたのに――この戦争が終わるまでは。
「お前には、俺を恨んでもらった方がいい。……このままだと、お前のためにならない」
「恨む?」
そうつぶやいたイサークの灰色の瞳が、いつもより優しいような気がした。
恨めというのに、なんでそんな顔をしているのかと思った次の瞬間には、引き寄せられて唇を塞がれていた。
ほんの少しかさついた唇に、とてつもない現実味を感じた。
数秒してから我に返って。引き離そうとしたけど、頭も腕も押さえられてて動けなくて。
同時に感じたのは……違和感?
とにかくこんなの違う、止めてと思ったのにイサークは止めてくれない。呻いても、そのうめき声も全部飲みこまれた。
逃れられないと焦った瞬間に、子爵に押さえ込まれた時のことを思い出す。
何も抵抗できないのは嫌だ。怖い。だけど振りほどけない怒りのやり場を探して……私は思いきりイサークの足を踏みつけた。
「いっ……っ!」
布靴だったことが悔しい。穴が開きそうなほどするどいピンヒールを履いていたら良かったのに。
顔を離したイサークが、痛みに顔をしかめていた。
せいせいするけれど、それよりも唇を拭いたくてたまらない。
「さすが一筋縄じゃいかない女……」
そう言っている間に、私はばたばたと暴れた。
大したことはしないだろうと思ったんだろう。イサークが放したので、私は真っ先に石の床に手を突こうとして「おっとそれは勘弁」とイサークに抱え上げられる。
「放してっ、無理やりあんなことするイサークは嫌い!」
「別に嫌いでもいいがな。嫌うよりも、俺を恨んでおけよ」
「恨めってどうして。だってもうイサークのこと恨んでるのに!」
カインさんを殺そうとしたのはこの人だ。そのことは今でも許してない。
ただ子爵から保護してくれていたし、看病もしてくれたから……全ては、戦争がいけないんだと思える面があるだけで。
なのにこれじゃ、個人的に私の恨みを買おうとしているようにしか思えない。
イサークの方は楽し気に笑い出す。
「それならいい」
そうして担がれた私は、途中で暴れる体力が無くなって、ぐったりしたまま部屋に戻ることになった。
悔しくて唇を噛みしめている私を見たミハイル君が、目を丸くした。
「ちょっ、なんで泣かせて帰ってくるんですか!?」
ミハイル君に突っ込まれてたイサークだが、ひょうひょうと答えた。
「いいんだ予定通りだからな。……俺が連れて行けたら、こんなことしねぇよ。今後のことは後で話す」
するとミハイル君が、困惑した表情をさっと消した。
「なるほど……わかりました」
「じゃ、後は任せた」
そう言ってイサークはあっさりと部屋を出て行き……。私が、誰も側にいなくても怯えなくなったことを確認したミハイル君も、用事があるからと出て行った。
もうわけがわからない。
恨まれるためにあんなことをしたイサークの、意図は何なんだろう。私を怒らせてどうするの? 脱走する気持ちを強くさせるだけなのに。
「何考えてるの……」
私は思わず寝台に手を叩きつけた。それから突っ伏す。
……まだ魔力は安定していても体力が不足してる。
怒ってもこればかりはすぐ回復できない。
ただただ腹立たしくて、私は自分の口を手の甲で何度かこすった。まだ少し、感触が残っているから。
キスされたことを思い出すと、涙が浮かんできそうだ。
レジーとのことをカウントに入れなければ、口づけをするのなんて初めてだったのに、あんなことをされてとても恨んでる。
……なのにどうしても、私にはイサークを憎む気持ちが湧いてこない。
同じように大事な人を傷つけたのに、脅しかけたクレディアス子爵を憎いと感じても、イサークには怒ることまでしかできない。
最初に会った時に、助けられたと思ったから? それともただ混乱してるだけ?
それともイサークの事情を理解できると思ってしまったからだろうか。
「もうやだ……」
自分のこともわけがわからなくて、やみくもに逃げだしてしまいたい。
それができないのは、イサークの側を離れてしまえば、子爵に掴まってしまう恐れがあるから。
そうなったら、子爵の操る魔術師くずれからも、イサーク達サレハルドからも、ファルジアを守ることができなくなる可能性がある。
じっとしていることしかできないことに歯噛みする私とは違い、イサークは本当に私にしたことを気にしていないみたいだった。
子爵を警戒して夜になってからも、彼は一度様子を見にやってきた。
警戒心で一杯の私のことを鼻で笑った後は、報告を持って来た兵士さんや騎士さんに対応していた。
中の嘆願に、ものすごく気になることがあった。
「夜中に呪いの人形を、侍従のミハイルが廊下に放していて、この階に近づけないんです。止めるよう命じてもらえませんか」というものだ。
「深夜に出る悪魔の人形を見ると、戦場でつまずくとか不吉な話が軍の中に広まり始めているんです」
呪いの人形って……師匠のこと? 廊下で何してるの?
師匠が無事で、元気そうなのはなによりだけど、行動がよくわからない。
私がものすごく気になっていることを察したんだろう、イサークが余裕の表情で促した。
「気になるのか? そろそろ思うぞ。廊下に出て見てみろよ」
イサークの言う通りにするのは嫌だったけど、私は師匠の無事も確認したかったので、廊下に顔を出す。
細長い廊下の中央に、一つだけ燭台の明かりが灯された廊下は、薄暗く、明るい場所もオレンジ色の頼りない光が揺らめいて、どこかおどろおどろしい……というか、この世界の廊下なんてどこもこんな感じなんだけど。
ミハイル君が廊下のずっと端にしゃがんでいるのが見えた。
「はい、放流~」
彼がそう言うと、ミハイル君の手を離れた師匠が、カッチャカッチャと音を立てながら歩き出す。
ちょうど階段を上がって来ようとしていた兵士の姿が見えたが、その音を聞いたとたん、一目散に階下に逃げて行った。
……師匠、本当に何してんの?
やがて廊下に顔を出している私に気づいた師匠が、カチャっと片手を上げた。
「おお弟子か」
「師匠、それは?」
「夜中にある程度歩かぬと、身動きするための魔力が充電できないからの? イッヒッヒッヒヒ」
そんな話は聞いたことがない、というか私の魔力で作ったものに、そんなゼンマイみたいな機能はないはず。
でもちょっと考えて私は黙った。
師匠がわざとやってるんだと思ったから。
……何の理由で始めたのかはよくわからないけど。
あ、でも聞けばいいんだと思って部屋から出ようとしたところで、お腹に手を回して抱え上げられ、扉が閉められた。
「えっ、やだっ!」
強制的に引き戻されて、寝台の上に降ろされた。
「一応あれは人質だからな。あんまり近づかれちゃ困るんだよ」
理由はわかったけど、どうして人の手首を掴んだまま見下ろしているのか。
両手の自由を奪われているせいか、昼間のことが頭をよぎって、思わず息を詰めてしまう。
身動きするだけでもイサークを刺激するんじゃないかと、怖くなってじっとしてしまった。
しばらくして、イサークが言った。
「言うことを聞いておけよ? ……でなきゃ、我慢してやらない。抵抗できないように縄で縛って閉じ込める。子爵がやらかしたおかげで、次の一戦ぐらいはお前を体調不良だって言って出さないこともできるからな。……俺が誰かの首を取ってくるまで、ここで歯噛みしていたいのなら、自由にするといい」
私は、うなずくこともできなかった。
それでも黙っていることを了承ととったのだろう。イサークは私から離れて、部屋を出て行った。
言うことを聞かない状態だと判断したら、イサークはさっき言ったことを実行するだろう。
ファルジアが攻撃されている間に、何もできないのが一番嫌だ。
だから、ただひたすら我慢した。
抵抗せず、じっとその時を待って過ごしたのは五日後。
秋風が冷たくなったその日に、ファルジア軍のいるリアドナ砦への攻撃が行われた。




