戻ってきた現実と励ましと
寒気がした。
なんだかインフルエンザを思い出す。
頭がぼーっとして、熱が上がっているせいだってわかるのに、体が寒くて寒くてたまらないあの感覚。
お母さんが、マスクをしながらも看病してくれたんだよね。
またインフルエンザかな……。それにしてはなんだか、ベットの硬さが柔らかすぎるような気がする。愛用してた煎餅布団の硬さじゃない。寝つきがわるくてやめたスプリングベットとも違うような。
ああでも、とにかく寒い。
「寒……」
毛布をきつく引き寄せようとしたら、頬にヒヤッとした堅い物がくっついてきた。
つめたっ。だけど……あれ、なんだか寒気が引いた?
どういうことかと思いながら目を開けると、
「…………」
「起きたか弟子」
土色の土偶の顔とご対面した。
なんだろう。その一瞬で夢うつつな感覚がふっとんで、ものすごく目が覚めた気分になった。
「ししょ……う、げほっ」
喉がからからだ。
「三日、ろくに物を口にしておらんからの。乾いて当然じゃ。まだあまりしゃべるな」
そんなことを言う師匠の背後から、誰かが声をかけてくれた。
「水、飲みますか? 体起こせるといいんですけれど」
「あ、お願いし……」
そこまで言って、私は全く力が入る様子のない自分の背中を、起こすのを手伝ってくれる少年を見て目を瞬く。
金の髪には覚えがある。
ちょっと可愛いめの顔立ちをした彼は、イサークがミハイルと呼んでいた少年ではなかったか。
今は侍従みたいな服を着ていて、体の大きさは私とそう変わらないのに、ぐったりとした私を支えて水を飲ませようとしてくれる。
……完全に寄りかかった体勢になってることについては、考えるまい。彼は今、看護師さん代わりなのだから。
とにかく水だ。飲まないと話すどころではない。
ミハイル少年が支え持ってくれるカップの水を、少しずつ飲む。
本当は一気に飲み干したいけれど、介助されている身なのでミハイル少年が傾けるのに合わせて、ちょっとずつ口に入れるしかない。
口に含んだ水は、やたら美味しい気がした。それほど冷たくはないけれど、喉を通って胃に浸みこんで行くように感じる。
水を飲ませたミハイル少年は、私を寝かせてから食べたいものはないかなど、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
「あの……あなたは」
イサークの部下だというのはわかるけれど、一体どういう立ち位置の人なのか。
「申し遅れました。僕はイサーク陛下の侍従でミハイルといいます。何か口にできそうなものをお持ちしますので、少しお待ち下さいね」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
ミハイル少年を目で追って、私はようやく部屋の中を見回すことになった。
……戦場近くの館を接収したのだろうか。白壁の落ち着いた部屋はそれなりに広く、ミハイル少年が出入りした扉もしっかりとした造りだ。ただ貴族の家というほどでもない。
そしてかすかに感じる煙の匂い。
「師匠、ここはリアドナの中だったり?」
「そうじゃ。あれから三日経っておる」
「三日……」
そんなに眠っていたのかと思うと同時に、あの状態から三日寝込むだけで済んだのかとも考えた。
……正直、死んだかと思ったから。
生きているということは、サレハルドに捕えられたということだ。イサークが侍従を付けたのだから、酷い扱いをする気はない……のだといいけれど。
「でも、このままだと……」
ファルジアに敵対させられる。それを避けたい。
だけど私が死んだら、師匠も消滅してしまうのだ。カインさんを助けることや敵につかまりたくないということだけで頭がいっぱいで、あの時は師匠に謝ることしかできなかったけれど。
もう一度一人になった時に冷静にそれを選べと言われると……やっぱり難しい。
私のそんな物思いを知ってか知らずか、師匠が励ましてくる。
「今はとりあえず休め。まだ本調子ではないじゃろ。逃げるのなら、走れるように準備しておくものじゃ、ヒッヒッヒ。逃がしたと思った時の、あの男どもの間抜けヅラを想像しながら折り合いをつけておけ」
師匠のアドバイスにうなずきながら、私は首をかしげる。
「なんか具体的ですね師匠」
「わしゃ脱走の達人じゃからのー。牢の中から鉱山から、どこからでも逃げてやったわい……弟子ならば、お前もやりおおせろ」
それから師匠が、珍しく真剣な声音で続けた。
「お前の師匠はな、元は奴隷じゃ」
「どれい?」
突然の師匠の告白に、私は目を瞬く。
今まで師匠はそんな話をしたことがなかった。たぶん、奴隷だったなんて他の人に言いたくはなかったんだろう。なのに、どうして。
「サレハルドより北東の国で、生まれた時にはもう奴隷じゃった。だがとにかく自由になりたくてのぉ。脱走し続けて、殺されそうになってもまた逃げて、出会った魔術師に一か八か今すぐわしを魔術師にしてくれと頼んで……わしは当たりを引いたんじゃ」
それで、師匠は魔術師になったのか。
前からおかしいとは思っていたんだ。まだ生きたいと言って土偶になってまで存在を望んでいた師匠が、死ぬかもしれないような賭けに出る理由がないように思っていたから。
でも確かに。魔術師になれば奴隷になどなる必要はない。師匠は自由と生命を天秤にかけたのだ。
「わしはもっと自由に生きたかった。好きなものを見て、好きなことを言って生きて行く。魔術師の師の元は、奴隷生活よりは自由だったからのぉ。ついつい長居した上で終の別れまでした後も、腰の痛みぐらいでくたばってやるものかと思いつつ移住して……。気づけば干物老人になっておったか」
ふっと師匠がため息をつく。
「だからの。死んだあげくの延長戦の人生まで生きられて、わしはたいがい満足しておる。ファルジアはまだそんなに旅もしておらんかったからの。いろいろ見聞できた上、愉快な弟子の大騒ぎを見物できて、いつ消滅しようとそれほど悔いはない。だからお前が決めるといい。最後はここだという瞬間をな」
「師匠……」
私が死ねば、師匠も自動的に魂がこの世から解き放たれて、本当に死んでしまう。
それを選んでもいいと、師匠は言ってくれているのだ。
しかも私から頼まないで済むように、未練などないと説明までして。
「師匠はなんでもお見通しなんですね」
「ほっほ。今頃気づいたんかいの。まぁ十六の小娘の考えることぐらいは想像がつくじゃろ。さ、やる気になったのなら、直せほら」
「ぎゃああっ、師匠が壊れてるううう!」
後ろを向いた師匠の背中に、ひび割れができていた。ていうかなんか一部小さく欠けてる!
「どう、どうしてこんなことに! イサークが落としたの!? それとも捨てられたんですか!?」
「あーお前さんの魔力をな、ほれ、犬どもが魔力を吸ってどうにかしたことがあったじゃろ」
確かにあった。リーラが私にくっついてくれて、魔力を吸われたら、荒れ狂ってた体内の魔力を安定させやすかったことが。
「わしとお前は魔力で繋がっとるわけだからな、同じことができるじゃろと思ったんだが、なんぞ背中がすーすーと」
「もうしちゃだめですよ。私が死ぬより先に、師匠がこわれちゃうじゃないですか……」
うわーびっくりしたと思いながら、急いで師匠を直す。
その間師匠は「ヒッヒッヒ」といつも通りの笑い声をたてていたのだった。




