安部先輩と出会いの四月
桜の葉が目立つ四月半ば。
真新しい制服を身に包んだ俺は、うららかな陽気を遮る貯水ポンプの影となった場所で平穏なる学生生活とやらを満喫している。
「俗世…最高」
高校生になって一週間がたった。
私立仲会高校は三年前に校舎を改築したばかりの真新しい綺麗な校舎で、生徒の個性自主性を伸ばす方針の為か、部活動では運動系文化系両方共に受賞されるほどだ。
まぁ俺は目立たず、かといって地味になりすぎず、一般的な普通の高校生を演じる為、帰宅部を選択した。我ながら当たり障りない選択だ。
貯水ポンプにもたれてチュウとパウチ容器に入ったゼリー状の栄養ドリンクを吸う。
うん…うまいなぁこれ…。
昼休みの校内には沢山の人で溢れてる為、この薄暗い屋上は独りになれる落ち着く場所だ。
バターン!
突如響く何かがぶつかった音に、手の中の物を握り締める。
ゼリーが喉奥に噴射され咳込む。
「ケホ…っ、な、んだ」
咳が治まって、腰をあげる。
屋上は基本的に立入禁止とされている。
まだ新入生で普通の高校生である俺がこんな所にいるのを人に見られるわけにはいかない。
「おら、さっさとよこせ」
続いて聞こえたのは感情を出した荒い言葉。
「い、嫌です」
震えたか細い声が返す。
どうやら弱々しい彼女は汚い男にたかられてるみたいだ。
「はぁ?なんですかぁ?聞こえませんけどー」
「いいからさっさと出せよ!持ってんだろてめぇ」
複数の声色に思わず眉間にシワが寄る。
うわぁ最低。男は男達ときたもんだ。
「こ、これは私の…」
「うるせぇ!」
ドンッ
「きゃあ!」
抵抗したのか鈍い音の後に女の子は悲鳴をあげた。
うーん…これは助けに行くべきなんだろうか。
しかし目立たない普通の高校生をやりきるのが俺にとっての第一目標である。相手の姿はまだ見てないが女の子に手をあげる下種な野郎共だ。
本気を出さなくても勝てる見込みはある。
しかし…目ぇつけられるのもなぁ。
「いやぁ!返してください!」
「へへっ、お前押さえとけよ」
「うぃーす」
…仕方ない、か。
フード被って相手の記憶を喪失するくらいやればいい。
ブレザーの下に着込んだパーカーのフードを引っ張り出して被り、貯水ポンプから離れる。
バンッ
その時、勢いよくぶつかった音が響いた。
今度はなんなんだ?
「お前ら、男子が寄ってたかって女子に手をあげるのはどうかと思うぞ」
勇ましい言葉使いとは裏腹に多少低いが女の子の声だ。
壁につたい、そろそろと現場に近付く。
一体誰なんだ…あんなのに飛び込む人間は。
「んだよ。てめぇは…」
「馬鹿じゃねぇのぉ!こんなとこまで来てさぁ」
突然の介入者に男共はテンションをあげている。
「お前ら新入生だな」
あ、そうなんだ。
やべ、同じクラスだったらどうしよ。
「それがなんだってんだよ」
「学年色については分かるだろう。担任から説明があったはずだ」
突っ掛かる男に対して、彼女は怯むことなくハッキリと言葉を発する。
学年色…確か説明されたような…俺達、新入生は赤なんだよなぁ。
チラリと制服に刺繍された赤色を確認して、何とは無しに頷く。
「知らねー聞いちゃいないもんねぇ爺の話なんざ」
あ、担任は男か。
俺とは違うクラスのようだ。
良かった。
安心したその時、伝う壁はなくなった。
視界に入るのは頭髪をカラフルに染めた男二人の背中と…そこから離れてフェンスに寄り掛かるおさげの女の子。
残念ながら今この場に現れた介入者の彼女の姿は男共の背丈によって見えない。
「わけ分かんねぇ事言ってんじゃねぇよ…てめぇもぶん殴るぞ」
一人の男が右腕を振りかざす。
うわ、女の子相手にあれかよ…。
やばい…!俺はギュッと目をつぶる。
痛いのとか見るのマジ勘弁!!
「ぎゃあああ」
「は?」
思ったより汚い悲鳴に引っ込めた頭を出して現場を眺める。
そこには信じられない光景が広がった。
殴り掛かった男は床に減り込み、変なオブジェと化している。
相方の男はガタガタと震えて、瞳はウルウルと涙目だ。
オブジェの隙間からようやく姿を見せた彼女は、小さな背丈に黒い髪、規定通りの制服にこれまた規定通りの黒のハイソックス(無地)を穿いた、一般的女子生徒だ。
彼女は仁王立ちになると男二人を見据えた。
「お前達、なんだその言葉遣いは…先輩には敬語を使え!」
冷えきった屋上で彼女はそう啖呵を切った。
「…なんじゃそりゃ」
一部始終を見た俺としては、まさにこの一言に尽きる。
「ご、ごめんなさ〜い!!」
無事だった男は姿勢正しくなると綺麗なフォームで逃げ出して行った。
彼女はそれを横目に眺め、フンッと鼻を鳴らした。
トン、トンと指定の校内履きのスリッパの足音と共に彼女がオブジェに近付く。 やべぇ…これ俺見つかったらどうなるんだろ。
ってかそういやおさげの子はどうしてるんだ?
「あ、あわわあわ」
めっちゃこっち見てる。
ちょ、そんな見るなって!あと震えるな!気付かれるだろ!!
「ん?」
「くそっ」
ピュウッッ
「…っ、風。強いな…春風か?」
や、やばかったぁぁぁ。
「むぐぅむぐ」
腕の中でおさげの彼女が暴れる。
この子も俺と同じ新入生か…可哀相に。
まだ一週間しか経ってないってのにな。
「大丈夫、酷いことしないから」
テンパる彼女にトントンと肩を叩いてやる。
「むぐぅ」
瞳に涙を溜めて彼女は俺を見る。
そう、そのまま。
「俺の目を見て」
「…」
彼女の目から涙がこぼれ落ちると体の力も抜けてきた。
口を押さえていた右手を離し、クルリと彼女と見合うように体の向きを変えてやる。
まるで人形のようで彼女は何も反応を返さない。効いてる効いてる。
「君の名前は」
「…堀江 佳奈子」
「佳奈子、君が屋上に来たのは昼休み、風にあたりに。一人で来て誰とも会わなかった。いいね」
「私が屋上に来たのは昼休み、風にあたりに…一人で来て誰とも会わなかった」
「いい子だ。君は今から五分後に目が覚める。三、二、一」
カクン、と彼女は糸が切れたみたいに俺にもたれかかった。
これで良し。
「誰かいるのか」
やばい!
バッ…バサッバサバサバサ
「あ、ぶなかったぁ」
ふぅーよかった。
咄嗟に中庭に落ちてきて助かった。
ついでに木があって助かった。
いや、まぁ木がなくても怪我することはないんだけど。
なかったら目立つもんなぁ…普通の高校生は屋上から中庭に落ちてきて無事ってのはないから。
キンコンカンコン…
あ、予鈴…教室戻らないと。
中庭の名も知らない木から飛び降りて芝生に着地。
十点。
五時間目は数学か…眠くなりそうだな。
そんなこんなでその日は多少おかしな事に巻き込まれたが、あの日以来変な事に巻き込まれず穏やかな日々を過ごしていた…はずだった。
異変に気づいたのはそれから一週間経った日のことだった。
「やっぱおかしいわ伴場」
いつもおちゃらけた態度のクラスメイトの山下が、真剣な面持ちで俺に声をかけてきたのは朝の玄関近くの靴箱での事である。
「何がだよ」
いきなりおかしいなんて言われて眉間にシワが寄る。
俺は最近の日課となった手紙のチェックをこなしつつ返事をしてやる。
すると山下はビシッと俺の持つ手紙を指さした。
「その手紙だよ。そりゃ別の相手が入れてくれんならお熱いことだけどよ。毎日同じ相手からの手紙だろ。やべーって。ストーカーじゃねぇ?」
「ストーカーねぇ…」
対して山下が言うやべーのがあまり伝わらないが…普通に起きる事ではないようだな。
それは困る。
「俺さ、部活の先輩から聞いたんだけどよ…」
山下がなんとも楽しげに耳打ちしてきたのは以下の話だ。
うちの高校には存在しない新聞部があって、そこの部長は学校の七不思議から教師の不祥事までなんでも解決しては、普段は何も貼られない一階玄関の踊り場の掲示板に号外として事件の顛末を晒すらしい。
大まかに信じられる話はそれくらいだった。
後は、新聞部員は実は全学年全クラスに存在するとか、実は学校に怨みをもつ幽霊の仕業だとか、俄かに信じられない話だった。
多分、噂が回る際に余計な尾鰭がついたんだろうな。
そして放課後…。
俺は第二社会科準備室の前に立っていた。
どうやらここが新聞部の部室らしい。
情報元の山下は今頃グラウンドで爽やかな汗を流しているんだろう。一緒に来いよ。
まぁぼやいた所で仕方ないか…俺は溜め息を吐いて、目の前の木の戸をノックする。
ガタガタと戸が揺れただけで返事はない。
やはりただの噂なんだろうか。
存在しない癖に部室があるなんてのはおかしな話だもんな。
「帰るか」
「なんだ、用があるんじゃないのか」
溜め息まじりの独り言に返事が返ってきた。
「うわ!ビックリした」
振り返った先には不機嫌そうに見上げる女の子がいた。
あれ?なんか見たことあるような。
「用があるのか、ないのか…ハッキリしろ。私にも予定というものがあるんだ」
ズバズバと言い切られ、なんだかいたたまれなくなってこめかみの辺りを掻く。
来てなんだって話だよな。
山下から聞いて、半信半疑で来たんだ。
その…本気で新聞部の部長さんに俺のストーカー問題を解決してもらおう!なんて思ってなくて。
というか…この人が噂の新聞部の部長なのか?どう見たって普通の女の子だ。
…多少目つきは鋭いが。
「あの、部長…さん?」
「敬語」
ムスっとしたまま突っ込んできた彼女に会釈する。彼女のブレザーには青色の刺繍がしてある。
三年生だ。
「え、あースミマセン。貴方が新聞部の部長なんですか?」
「そうだ」
頷いた彼女は、器用にも片眉を上げて俺を見上げる。
「それで、お前はなんでここに来たんだ。罰ゲームか?先輩からの命令か?何にせよ冷やかしか?」
「いやいや、違いますよ」
まくし立てる彼女に俺は咄嗟に両手を振って否定した。
あ、やべ。
そんなつもりじゃなかったのに。
しっかりと俺の否定を耳にした彼女は目を丸くした。
「違う?お前新入生だろう。新聞部の事、誰に聞いた」
「クラスメイトからですよ。そいつの先輩から聞いた話を又聞きしたんですけど」
経緯を話せば彼女はパチパチと瞬きをして、先程までの勢いはなくなったみたいで目に見えて明らかだ。
「…そうか」
ポツリと呟いた彼女は、第二社会科準備室の戸の前に行くとガラリと開けた。
「入れ。話ぐらいは聞いてやる」
クルリとこちらに顔を向けた彼女は俺に促した。
「どうも」
先輩に促されたのだ。
今更断る雰囲気ではない。
仕方ない。
会釈して俺は中に入った。
第二社会科準備室は、思ったよりも狭い部屋だった。
古臭い資料が詰め込まれた棚が所狭しと並んでいる中、中央に置かれた長机を照らす夕日にキラキラと埃が舞う。
出入口のすぐそばの壁に立て掛けられたいくつかのパイプ椅子の内二つを引っ張りだした。
折り畳まれたそれを、長机を挟んで向かい合うように組み立てると、出入口側の椅子をひいて、俺をチラリと見る。
座れって事なんだろうけど、動かずそのまま出入口に突っ立ったままでいれば、明るい夕日に照らされた先輩は眉間にシワを寄せた。
「座れ」
今度は口頭で伝えてきた。
が、すんなりとハイ!わかりました!と行動に移せない。
こちらにも事情がある。訝し気に俺を見る先輩に、仕方なく口を開いた。
「スミマセン、先輩。ちょっと眩しいんでカーテンしてもらってもいいですか?」
先輩はしばらく眉を寄せた後、明かりを放つ窓に近付き、日に焼けたカーテンを引っ張った。
シャッシャッとレールの音が響く中、室内は居心地の良い薄暗さを包んだ。
「ありがとうございます」
振り返った先輩に頭を下げて、席へと座る。
俺が座ったのを確認した先輩は向かいの椅子に座り、腕を組んでこちらを見る。
「それで、何があったんだ?確証も何もない新聞部に来る程の理由とは」
ドッシリと構えた先輩に一週間程前から起きたおかしい事について口にした。
だいたい一週間前ぐらいですかね?下駄箱に手紙が入ってたんですよ。
白い封筒には宛名も差出人もなくて、てか手紙をもらう心辺りさえもなくて、最初は間違えたのかなってそのまま放っておいたんです。
そしたら帰りの下駄箱の中に白い封筒が二通。
減るどころか増えてたんですよ。
それで、もしかして俺に宛てたのかなって思って中を見たんです。
白い封筒には一枚の白い便箋。
そこにはびっしりと赤い文字が。
あぁもちろんインクでしたよ。
…内容は、まず最初に手紙を読まなかった俺に、どうして読んでくれなかったのかって一方的に悲観的な妄想が書き込まれてましたね。
次に今日俺がどこでどうすごしたとか、何回ああしたとか、またこうしてたとか…事細かに書かれてました。
あ、もう一通も読んだんですけど、最初に手紙を書いてきた事に謝ってきてて、それからはさっきと一緒で…前日の俺の行動がまたビッシリと。
「…それから今日まで休みなく一週間、手紙は続いてます。毎回最後にはいい子で待ってるから早く迎えに来てください。って…締めくくって」
「ゴメン」
長々と経緯を語らせてもらった後、そう短く発して先輩は頭を下げた。
「へ?」
目の前のつむじに情けない声を漏らすと、先輩はゆっくりと顔をあげた。
「悪かったな。疑って…なんだその顔は」
申し訳なさそうに眉を下げた顔から、ムッと不機嫌そうに眉を寄せた顔へ変えて俺を見る。
ポカンと開けた口の中が乾く。
「あ、いや…別に謝らなくても」
「いいや。私の気が済まない。お前も遊び半分な気持ちで来てると思ったんだ。まさかそんな事になってるとはな…ゴメンなさい」
ペコとまた頭を下げた。
なんというか潔いというか…頑固というか…変わった人間だな。
「さて」
ガタンと勢いよく立ち上がった先輩は先程までの雰囲気はなく、ついてけない俺を鋭い視線が射ぬく。
「何をボーッとしてる。行くぞ」
「いやいや行くってどこにですか」
俺の当然なツッコミに先輩はまた不機嫌に眉を寄せた。
「どこって…それはお前が知ってるだろ。お前の迎えを待ってるんだから」
先輩の答えに耳を疑う。冗談だろう?
「ちょ、探しに行くんですか!?」
「迎えに行くんだ。大丈夫、私も一緒に行ってやるから」
そう返した先輩はいつの間にやら戸の前に立ち、手をかけている。
と思えばガラリと開けた。
早い。
早すぎる。
立ち直るのとか行動とか展開とかなんかもろもろが。
「少しは心の準備させてくださいよ!」
初めて校内で叫ぶも、室内に先輩の姿はもうなかった。
だから早いんだっての。
「それで彼女はどこにいるんだ」
鞄を引っつかんで廊下に出れば、腕を組んで仁王立ちした先輩がそう声をかけてきた。
えー。
「知るわけないでしょ…手紙に宛名もなかったんで」
「敬語」
「申し訳ありませんが知りません」
ギロリと睨まれてうやうやしく返せば、先輩は組んだ両手を解いた。
「そうか」
そう言った。
確かにそう先輩は言った。
なのに目の前の小さな彼女の背は更に小さく遠くなる。
「ちょっと、ちょっと先輩。どこ行くんですか」
慌てて追い掛ければ廊下を走るなと怒られた。
解せぬ。
ツカツカとスリッパを鳴らし廊下を歩く先輩は前を見たままフッと口元を緩めた。
「分からない以上校内をしらみつぶすしかないだろ」
な、何を言ってんだ…この人間は。
「そういえば…まだ自己紹介をしていなかったな」
「はい?」
え、今?この競歩中にですか?
「私は三年二組の安部。お前は」
「え、と、一年六組の伴場です」
「わかった。よろしくな伴場」
こっちに向いて頷いた先輩は、すぐまた前を向く。
こんなアッサリとした自己紹介があったものだろうか…。
クラスでやった自己紹介の一人分にも満たなかったぞ。
「まずはココから探すぞ。上から順に端から端な」
前を向いたまま安部先輩は話す。
ココ、別館からってことは少なくともあと四階建ての校舎を二つも回るのか…。
うっわ、気が遠くなってきた。
というか、あの手紙を丸々信じてのこの行動だが…先輩は悪戯だと思わないんだろうか。
今日初めて見て、俺の話だけを聞いて…噂の新聞部の部長はやっぱり噂通りの変な人間だ。
ガラッ
「うお」
ガラッ
「え、何?」
ガラッ
「ぎゃあああ」
これは駄目だ。
片っ端に教室を開けていく先輩の手を止める。
「ちょっと先輩…いくらなんでも手当たり次第過ぎますよ」
「ノックしていちいち了承とってる時間はないだろ」
だからって男子更衣室をおもむろに開くのはどうかと。
野太い悲鳴を放つ男子柔道部員なんて見たくなかった。
その割に女子更衣室は開かないんだから…いや、探すならちゃんとどの部屋も確認しなければいけないから。
別に見たいとかそういうわけではない。
「この棟にはいなかったな」
別館であるこの校舎は、基本的には使われてない埃かぶった教室や準備室ばかりで、ちらほらと部活動に使ってる教室と、一階の剣道場を使用する柔道部員くらいしか人はいなかった。
突然の来訪に呆然とした生徒達の中に差出人はいなかった。
「というか先輩、あんな直球で…はいそうです。って、差出人名乗り出ますかね?」
来訪した先輩の行動は、まず戸を開け、次に白い封筒を掲げ一言。
「失礼します!この手紙の差出人はいらっしゃいますか!」
キョトン。
正にその言葉にピッタリな表情をしていた。
全員が。
「相手は、お前を待っているんだろう。だったら頷くなり挙手するなりなんらかの行動を返すだろ」
迎えにきてるんだから。
そう先輩は言うと、またズンズンと足を動かす。
次は本館ね…。
三学年の教室でさえ多いのに、更に科目室に職員室や保健室なども含まれるんだから…流石に差出人も本館まわる間に帰ってるんじゃないだろうか。
もう夕日は沈みかけ、空は紫がかった夜が近付いている。
しかし、自然と着いてきてるが…俺、手紙の差出人を迎えに行きたいとは一言も言ってないよな?先輩に話を聞いてもらって、そっから先輩がいきなり飛び出してって…
「伴場、何やってるんだ。行くぞ」
「あ、はい!」
って咄嗟に返事しちゃって…なんというか逆らえないんだよな。
いくら先輩だからって…彼女は普通の人間だってのに。
「…ここも鍵がかかってるな」
「じゃあ居ないってことで」
時間が時間だけにガタガタと戸が揺れるだけで開かない教室も増えてきた。
この分じゃ案外早く終わるかもしれないな。
「保健室か」
ガラリと開けたその部屋は嫌な匂いが充満していた。
「伴場?」
「あーすみません先輩。ここはパスで…駄目なんですよねこの匂い」
「匂い?するか?」
先輩は首を傾げるが、きちんと答えてあげることはできない。
「あれ?伴場じゃんか」
細めた視界にクラスメイトの山下が映る。
なんでいるんだお前。
「どうした?お前も怪我か?つーか先生いなくね」
怪我?先生?
「ヤバいなぁ…あ、ちょうどいいわ伴場。俺、先生探してくるからちょっと彼女の事見といてくれよ」
彼女?ああ、その子のことか。
今気付いたがお前一人じゃ
「っ、」
サアッと血の気が引く、気がした。
山下がパイプ椅子に座らせた彼女の膝からは水に濡れた肌の傷口からじんわりと真っ赤な血が滲んでいた。
「じゃあ頼んだぞー」
ピシャリと閉じられた戸の音にグラリと目の前が歪む。
あぁ、匂いがする。クラクラする。駄目だ抑えろ俺は普通の…普通の?
「どけ伴場」
ぐいっと肩を掴まれ、先輩が前に出る。
先輩が屈むとキュポンと茶色いビンをあけて、ピンセットを器用に使い、掴んだ綿をビンに沈めて取り出す。
赤茶色に染まったそれは俺の嫌な匂いをまとっていて、顔をしかめる。
「ひゃっ!」
「染みるか?効いてる証拠だ」
肩を揺らした彼女は甲高い声をあげるが、先輩は屈んだまま彼女の傷口に綿をポンポンとあてて、膝は赤茶色に染まっていく。
辺りはあの匂いが充満して、自然と肩の力が抜けた。
あぁ…この匂いは嫌いだがさっきよりはマシだ。
助かった。
パタパタと廊下が騒がしいと思ったらエプロンを身につけた女性が入ってきた。
「ごめんなさいねぇ」
「あ、先生」
山下が連れてきた彼女が声をあげた。
「あら…治療してくれたのね」
「薬みつけたので」
彼女の膝と先輩を見て、先生は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。助かったわ」
「すみません。ありがとうございます」
ペコりと後ろにいた山下が礼をした。
いたのかお前。
「ありがとうございます」
ヒョコッと立ち上がった女生徒も先輩に頭をさげる。
「いや、構わない。怪我は頑張ってる証拠だからな。でもまぁ程々にするんだぞ」
ポンポンと彼女の肩を叩いた先輩に、頬を少しばかり赤みがさした彼女は笑い、ハイ!と元気のよい返事をした。
「じゃあな伴場!」
山下は軽く手を挙げて彼女と共に保健室をでていった。
「ところであなたたちは保健室に何の用があったのかしら」
「この手紙の差出人を探してるんです」
先生に手紙を見せるも、彼女も首を振った。
知らないみたいだ。
「ごめんなさいね。お役に立てなくて」
「いえ。失礼しました」
ペコりと頭を下げる先輩にならい俺も頭を下げて保健室を後にした。
「伴場。お前はあの時何をしようとしたんだ」
廊下に出た途端に先輩からズバッとした質問をぶつけられた。
あの時はあの時だろう。
彼女の膝から滲んだ赤色を見つけた時。
「な、何をすると思いました?」
「質問に質問で返すな」
バッサリと切り捨てられて嫌な汗が止まらない。
暑くもないのにな。
今は。
「まぁ言いたくないならいいが。お前、酷い顔だったぞ」
え?
「行くぞ」
酷い顔?俺…ボロ出しちまったのか?
本館は一階から順に上がって行く方法で探索を続けていた。
廊下は静かでやはり殆どの教室が閉められていた。
「先輩、もういいですよ」
声をかけても、ガタガタと鳴るだけの戸を揺らす作業を止めない。
「手紙貰うだけで他は特にないですし。別に犯人探しがしたいってわけでも」
「待ってるんだろ」
「はい?」
ようやく止めた先輩は俺の顔をまっすぐに見つめてきた。
「お前を待ってる人がいるんだ。そいつはストーカーかもしれないが。そういった行動をするほどお前の事を少なからず思ってるんだろう。そのまま手紙を放置するのはお前にとっても差出人にとっても良くない」
それってつまり…先輩は俺や差出人を思ってこんな行動をしてるってことなのか?なんつーお人よしなんだ…この人間は。
本当、変わったタイプだよ。
「っ、」
「先輩?」
あれ?なんだ?また嫌な予感が。
「…平気だ。舐めれば治る」
プクリと人差し指にできた雫。
赤い雫。
ヤバい。
ヤバいヤバい。
また俺は酷い顔を晒してしまってるんだろう。
「伴場?」
だって先輩は怪訝そうに眉をひそめてる。
廊下は酷く静かなくせにドクドクと耳にこびりつく心臓の音。
暑い熱い。
目の前が赤く染まる。
口を閉じていられない。
「ばっ…!」
先輩の腰を抱く。
そこは女性らしく細く柔らかい。
先輩の指を口に持っていき、普段は仕舞う牙を剥き出してその細い指を咥内へと招く。
チュウと吸い込んだ指からは苦い錆のような味で不快しか感じないはずなのに、甘くてやめられない。
物足りない。
シワシワになるまで吸って抜く。
血は止まった。
物足りない。
先輩の白くて細い首筋が眩しく見える。
そこはきっと、こんな指よりもっと極上な甘い甘い毒が流れてる。
欲しい。
欲しい欲しい。
ゴクリと喉が鳴る。
ごめんね、先輩。
俺を助けようとしてくれたのにこんな結末になっちゃって。
グルン
「へゃ…」
ゴン
「がぁっ!!?」
視界が回転、したと思ったら頭に凄まじい衝撃を感じジンジンと痺れる痛みが頭蓋骨にしみる。
なんだよなんなんだよ…ぼやけた視界に移る逆さまの廊下に、学校指定のスリッパを履いた紺のハイソックスが現れる。
「伴場…いい度胸だな」
地の底からはい出るようなその声に視線を上へと辿る。
腕を組んで仁王立ちした目の前の人物は間違いなく先輩だった。
「まさか…依頼しといてあんな事してくるとは。お前、差出人と大差変わりないぞ」
鋭い視線と言葉をズバズバと受けて、俺はムクリと起き上がる。
少しふらつくがさっきよりは冷静だ。
そう冷静なんだけど…なんでこの人まで冷静なんだ。
「あの、先輩」
声をかければ、今までと変わりなく不機嫌そうな視線で促してくる。
「えっと…今、何が起きたんでしょうか?」
先輩は眉間にシワを寄せた。
「お前…頭を強く打ちすぎたか?」
仕掛けてきたのはお前だろ。
とムスッとした顔を背ける先輩に渇いた笑いをこぼす。
ですよねー俺、確かに催眠かけましたよねー。
しかも血、吸われましたよねーなんで動けたんでしょうね…マジで。
「言っとくが謝らないからな。そっちが仕掛けてきたんだから」
「あ、いや…すみません」
あれ?もしかしてこれって…。
「…行くぞ」
先輩は俺をほってスタスタと廊下を歩いていく。
その後ろ姿には慌てた様子も怯えた様子もない。
あんな事しでかしたのに…ばれて…ない?
「安心すればいいのか心配すればいいのか…」
全く分からないな…先輩は。
結局、四階まで上がったものの人影はなかった。
もう窓の外は真っ暗だ。校庭にも人影はない。
「先輩、もう今日は辞めにしましょうよ」
これ以上一緒にいたら、またボロを出すに決まってる。
嫌いなはずなのに…先輩のは甘くて癖になりそうだった。
先輩の為にも、平穏なる日々を普通に送りたい俺の為にも、離れた方がいい。
「いた」
「え?」
先輩はポツリと呟くと走り出した。
「ちょっと先輩!ここ廊下!!」
「煩い!一大事だ!関係ない!」
…理不尽!!
ショックを隠しきれない俺は、モヤッとしたまま先輩を追った。
先輩は勢いのまま階段を駆け登っていた。
その先は立入禁止の屋上で、下校時間をとうに越えたにも関わらず扉は開いた。
夜の屋上は月明かりのみしか射してなくて、薄暗く肌寒い場所に変わっていた。
仁王立ちで立つ先輩の姿に何故かデジャヴュを感じて、その前に立つ女子にもデジャヴュを感じた。
「あれ?」
クラスメイトにあんな女子いないのに…なんでだろう。
今時珍しいおさげをした彼女は月明かりを背負っていて表情が読めない。
「手紙の差出人はお前か?」
先輩は怯むことなく一歩踏み出すと手紙を見せる。
「どうして」
風が強くなってきた。
ヒュウヒュウと音をたてるなか、彼女は小さくもらした。
「どうしてあなたがそれを持ってるの」
ヨロヨロとふらつきながらこちらに近付く彼女。
「どうしてあなたが彼の隣にいるの」
虚ろに見つめてくる二つの眼は、まるで血のように真っ赤で、普通の人間ではない。
もしかしてこれは…魅了状態か。
「おい、どうした…?気分でも悪いのか?」
ふらつく彼女に先輩も近付き手を差し延べる。
「先輩!近付くな!」
「おい伴場…なんだその言い方は」
ムッと先輩は不機嫌を貼付けてこちらに振り向く。
慌てて俺も手を伸ばすも、先輩には届かず宙を切る。
「ぐっ」
僅かな差で先輩は彼女の細腕によって捕われていて、押さえ込まれている部分が首筋の為か、苦しげに眉間を寄せた。
「どうしてぇ…伴場君、私の事優しくしてくれたじゃない」
魅了状態…。
ヤバい。
あの時か。
まさかまだ解けてなかったとは…使うんじゃなかったな。
「どうしてどうしてどうして。どうして私を選んでくれないのぉ。どうしてコイツなのぉ」
「ぐっ」
「先輩!」
腕に力を込めたのか先輩は更に苦しげな声をあげる。
本来の人間である彼女ならこんな力はない。
今は魅了状態だから理性が吹っ飛んだ人体限界の桁外れな力なんだ。
このままじゃ先輩もろとも彼女も危険が及ぶ。
「酷いよ…私、初めてだったのに…初恋だったのよ。伴場君になら私、何だってあげたっていいのに」
もうあの子は正気を失ってる。
こうなったら…始末するしか…。
キシリと奥歯が尖り、牙を剥き出す。
「や、めろ伴場!」
抵抗を続けながら切れ切れに先輩が叫ぶ。
「先輩…」
「お前、分かってるのか?この子は普通の人間なんだぞ!手を出すな!」
どこまで…お人よしなんだよ!
「な、何言って…アンタこそ自分の状況分かってんのか!?」
「先輩に向かってアンタって言うな!」
先輩の威勢にガクリと力が抜け牙も引っ込む。
こんな時にまで…分かってないだろ先輩。
こうなったのは俺のせいなんですよ。
「そのままじゃやられちゃいますよ!今動けないでしょ!俺がやらなきゃ誰がアン…先輩を助けるの!?」
「いいから…私の言うことを聞け!このバンパイア!」
「え」
パァンと体が発光する。
その光に彼女も先輩も眼をつぶる。
足元には契約の魔法陣。
夢でも幻でもないらしい。
足は固定されたように動かせない。
「あーあ、本当最悪。俺、自由な俗世生活をまったり満喫するつもりだったのに…」
俗世生活のしおり、その冊子の一ページ目に書かれた文章。
人間に正体を言い当てられた時、その人間の使い魔として過ごして頂きます。
これは俗世で過ごす人間に魔族の存在を隠し被害を及ぼすのを防ぐ為です。
人間らしく立ち振る舞い、あなたも素敵な俗世生活をエンジョイしてください
「全く…面倒なルールだよ。どうしてこうなっちゃうのかなぁ…先輩」
フッと光は消えて、辺りはまた暗闇に包まれる。
ああそうだ…思い出した。
俺は先輩を見たんだ。
あの日あの時この場所で。
俺が魅了を使わざるをえなくなった状況を作り出した…あの三年生。
「ば、んば…」
ギリリと俺の首が絞まる。
くっ、先輩…全然余裕じゃないじゃんよ!
痛みに足がすくむ。
なんつー体力だよ先輩!アンタ人間だろ!!
「やだ、やだ…来ないでよ!私を選ばないあなたなんかいらない!あの時からずっと待ってたのにずっとずっと探してたのに」
「探してたのは…コレか」
先輩がスカートのポケットから取り出したのは黄色い鳥のマスコットだった。
この場に不似合いなファンシーな物に俺は目を丸くした。
先輩、今そんなボケとかいらない!
「あ…」
え?首への絞まりが緩んだ?…今だ!
トン、地を蹴り彼女の元へ着く。
目の前には赤い目を丸くした彼女。
「ごめんなさい」
俺は彼女に告げて、瞼を伏せるように手をかざし、パチンと指を鳴らした。
「あ…あれ?私…なんでここに…昼休みだったはずなのに…」
キョロキョロと彼女は混乱していたが瞳はもう黒く、魅了状態は解けていた。
もうこれ使わないでおこう。
「あ、ピヨタ…どうして持ってたんだろ?私、筆箱につけてたはずだったのに」
手の中におさめたマスコットを確認した彼女は首を傾げた。
「…まぁいいか。早く帰ろ。お母さん心配してるかも」
ニコリと笑みを浮かべた彼女はパタパタと屋上を出ていった。
バンと閉じられた音にホッと息を吐く。
あぁ疲れた。
「よかったですね。先輩。無事解決しましたよー」
「伴場、説明してもらおうか」
ヘラリと笑顔を向けた相手にギロリと睨み返されてしまった。
「つまり、お前は人間と共存するためにやって来たバンパイアなのか」
「そうですよ。まさか…来て一月も経つ前にこうなるなんて思わなかったんですけどねぇ」
かい摘まんで説明すれば先輩はすんなりと理解してくれた。やはりそこに驚きも恐怖心もない。
「で、契約ってのはなんだ」
「あーこれの最初のページに載ってます」
長々しい説明をはぶく為に俗世生活のしおりと書かれた冊子を渡す。
「…使い魔ってなんだ」
視線をツラツラと辿り終えると、クリっとした瞳でまっすぐにこちらを見据えた。
あぁ使い魔って言葉はこっちじゃ無いもんな。
「こっちの言葉で言うと…手下とか部下とかですか?まぁなんでも言うこと聞きますよってね。そのかわり俺の正体を絶対他人にばれないこと。そこらへんはギブアンドテイクってことで」
昔読んだ辞書から言葉を引いて、簡単に説明すると、先輩に通じたみたいで、彼女は唇に拳をあてて目を伏せ思考に耽る。
簡単に信じられないよな。
こんな事。
「まぁでも強制じゃないんで拒否することもできますよ。ただ俺の正体ばらさないでくれると嬉しいんですけどね」
正直言うと…その方が一番ありがたいんだけど。
「なんでもって言ったが本当か」
先輩の曇りない瞳が俺を見る。
「あー俺が出来る範囲内ですよ。争い事とかニンニク食えとかは勘弁してもらいたいんで」
「大丈夫だ。むしろ…お前にしか出来ないことだ」
「は?」
先輩がニヤリと笑った。
先輩について来た場所は新聞部の部室。
渡されたのは一枚のざらばん紙。
「俺にしか出来ない事って…これですか」
「ああそうだ。仲会高校一年の伴場にしか出来ないことだろう?」
それがまさか部員になることだとは…面倒だな。
いや、むしろこれぐらいで済んでラッキーか?
形だけの部員になって活動には参加しないで…
「言っとくが、うちは毎日放課後集まるから。サボるなよ」
「毎日ですか」
げ、嘘だろ…文化系でなんつースパルタな。
まぁ先輩は見るからに体育会系だもんな…はぁ。
「これから忙しくなるからな。なんといっても…新聞を作るんだから」
そう言う割に笑う先輩はなんだかとても眩しかった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
この物語は、息抜きがてら完全に趣味で書いたお話です。推敲も何もしてなくて読みづらいところがありましたら申し訳ありません。しかし…私はストーカーネタが好きみたいですね。
続きとしましては、他にも色々と普通じゃない後輩がでてきてしっちゃかめっちゃかする学園ものと妄想を楽しんでおります。シリーズ名も決まってて、いずれは書いていきたいなーと思うのですが、他に完結してもないわ、始まってもないわのお話がありますので、更新はどうなることやら…。
今回なんちゃってラノベと題してますが、ラノベをなにやら勘違いしてる気がしますね。展開ではいずれはハーレム化するのですが、誰のハーレムとは詳しくは言いませんが。
ここまで読んで戴きありがとうございます。もしシリーズ化した際は「安部先輩の魔族飼育日誌」をどうぞよろしくお願いします。