第91話 番外編 使いやすい、は数字にならない
※本編完結後の番外編です。本編のある時期、カイルの工房を、かつての客が訪ねてくる——そんな一場面です。物語の結末や設定には触れていません。ただ、数字にならなかったものの話です。
工房の朝は、音から始まる。
炉の低い唸り。
金属を打つ、乾いた音。
カイルはその日も、いつも通りに手を動かしていた。
特別な仕事ではない。
すり減った刃を直し、歪んだ留め具を戻す。
誰かが明日も使う道具を、明日も使えるようにする。
それだけだ。
「客よ」
ミレアが、扉の方を顎で示した。
カイルは手を止め、布で指先を拭う。
扉の前に立っていたのは、見覚えのない男だった。
いや——正確には、そうではない。
年季の入った革鎧。
肩の傷は古い。
前線に立っていた者の、立ち方だった。
「……ここが、カイルの工房か」
低い声。
確かめるような口調だった。
「はい」
カイルは短く答える。
男は少し迷ってから、腰の得物を鞘ごと外した。
手斧だった。
柄は使い込まれ、黒く光っている。
「これを、覚えてるか」
カイルは受け取り、目を落とす。
一目で分かった。
自分が打ったものだ。
まだギルドにいた頃。
名も残らない、量産の一本。
「……はい」
刃を確かめる。
欠けはない。
留めも、緩んでいない。
ずいぶん使われている。
それでも、壊れていなかった。
「覚えてるか、じゃ悪いな」
男は、ばつが悪そうに言った。
「あんたのことは、名前しか知らなかった。工房の奥にいる、生産職。……それだけだ」
カイルは何も言わない。
男は続ける。
「坑道で、はぐれた」
一拍。
「装備は限界だった。仲間とも逸れて、水もなかった。……普通なら、そこで終わってる」
カイルは手斧を握ったまま、聞いていた。
「でも、これだけは、最後まで折れなかった」
男は、手斧を指さした。
「岩も、金具も、殻も——全部これで割って、出てきた。何度も無茶をした。折れて当然だった」
一拍。
「折れなかった」
静かに、男は言った。
「だから、生きてる」
工房が、静かになる。
炉の音だけが、残る。
カイルは、刃をもう一度見た。
数字なら、言える。
鋼の配合。
焼きの温度。
重心の位置。
だが、この男が言っているのは、それではない。
「……壊れない設計に、しただけです」
カイルは、それだけ言った。
「派手なものでは、ありません」
「ああ」
男は頷いた。
「派手じゃない。切れ味が凄いわけでもない。……正直、支給されたときは、はずれだと思った」
一拍。
男は、少しだけ笑った。
「でも、使いやすかった」
その言葉に、カイルの手が止まる。
——使いやすい。
昔、そう言った者がいた。
評価表にも、報告書にも載らない言葉。
数字にならないと、切り捨てた言葉。
証明できなかった、と思っていた。
違ったのかもしれない。
証明する必要は、なかった。
ただ、使われればよかった。
こうして、誰かの手の中で。
「……直しますか」
カイルは、努めていつも通りに訊いた。
男は首を振る。
「いや。まだ使える。あんたが今、そう言った」
「はい」
カイルは、手斧を鞘に戻し、返した。
「まだ、使えます」
男は受け取り、腰に戻す。
それから、少しだけ迷って、言った。
「……礼を、言いたかっただけだ。それだけだ」
言い終えると、逃げるように背を向けた。
「また来る。今度は、直しに」
「はい。お待ちしています」
扉が閉まる。
工房に、また炉の音だけが残った。
ミレアが、作業台に頬杖をついていた。
「よかったわね」
からかうような声。
だが、目は笑っていなかった。
「……数字には、なりません」
カイルは、ハンマーを取り直す。
ミレアは、肩をすくめた。
「知ってるわよ」
一拍。
「でも、残るのよ。そういうのは」
カイルは答えなかった。
ただ、次の一本に、手を伸ばした。
窓の外は、いつも通りの朝だった。
特別なことは、何も起きていない。
ただ、壊れなかったものが、今日もどこかで、使われている。
それだけで、十分だった。
本編完結後の番外編でした。
第1話でカイルが切り捨てた「使いやすい」という言葉を、今度は人の口から返してみたかった、という一話です。本編の結末には、何も足していません。ただ、数字にならなかったものの話でした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




