カピバラ
少し時間が遡る。
キール帝国皇帝カイルがアルバン公国を訪問するという一報が公表されると、公国の貴族社会は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「悪逆非道の野蛮人が……」
「高貴な我が国を力で蹂躙しておいて……」
威勢だけはいいが、実際に皇帝を目の前にしたら喜んで膝をつくに違いない連中である。
「しかし、将来のことを考えたら皇帝陛下には喜んでいただいたほうが……」
「どうやったらご機嫌を取れるだろうか?」
「皇帝はまだ独身だそうだ」
「嫌よ、残酷で人殺しの皇帝に嫁ぐなんて……」
「莫迦! 権力者に取り入るには……」
結局は保身に必死で臆病な貴族達だ。
皇帝が訪問した際には最大限に歓迎することで合意したらしい。
アルバン公は皇帝のために公宮の貴賓室を準備させていたが、謁見は連邦総督の屋敷で行われると一方的に通達された。
また滞在中、皇帝はナタリア・ハインリヒ伯爵令嬢を案内役にアルバン公国を視察して回るとのことである。
「またナタリア嬢がおいしいところを独り占めか⁉」
「どこまで強欲なのかしら!?」
「守銭奴めっ!」
彼女の評判がますます悪くなったのは言うまでもない。
◇◇◇
ナタリアは子供の頃からアルバン公が嫌いだった。
嫌なことを言われたことはない。むしろ逆である。
幼い頃から可愛がられた記憶があるのに、なぜだか生理的に受けつけない。
あの男の視界に入るだけで背筋が凍るようなおぞましいという感覚がこみあげてくるのだ。
アルバン公はナタリアの母であるリディアがお気に入りであった。
もちろんパトラ村という利益を生む村の村長の娘であったからかもしれないが、度が過ぎるほどの好意に居心地の悪い思いをするほうが多かった。
『リディアの娘をアダムの婚約者にしよう』
半分平民であったにもかかわらず周囲の反対を押し切ってアルバン公は幼いナタリアをアダムの婚約者に決めた。
そして妃教育と称して母子をしょっちゅう王宮に呼び出していた。
(妃教育なんて口実でお母さまと会いたいだけじゃないかしら?)
そう考えたこともある。
ただ、まさか正妃のいるアルバン国王が王宮で邪な行為に出るとは思ってもいなかった……。
リディアが自死した直前にも二人は王宮に滞在していた。
妃教育の講義が終わった後、いつも待っているはずのリディアの姿が見えない。
仕方なくその場に佇んでいると、しばらくして髪を振り乱して息を切らしたリディアが現れナタリアを強く抱きしめた。
『お母さま、泣いているの?』
『いいえ、大丈夫よ』
真っ青な顔をした母はそれ以上何も言おうとしなかった。
その日の夜にリディアは亡くなったのである。
(嫌なことばかり想像してしまうから、もう考えるのを止めよう。考えてもお母さまは戻ってこないわ。でも、母が死を選んだのはきっとアルバン公のせい……)
母親を失い打ちひしがれたナタリアであったが、当時まだ八歳だったこともあり王宮で様子がおかしかった母親については誰にも話したことがない。
それ以来、ナタリアはアルバン公を避けるように過ごしてきた。
アルバン公もその頃から人と会うのを億劫がり王宮に引きこもるようになったので難しいことではなかった。
しかし、今日はどうあっても避けられない。
皇帝カイルに謁見するためにアルバン公と取り巻き貴族一行が連邦総督邸にやってくるのだ。
不安もあるが、さすがにキール帝国皇帝の御前でおかしなことはしないだろう。そう願う。
ナタリアが執務室の扉をノックするとカイル本人が扉を開けてくれた。
既に謁見用の衣装に着替えたようだ。黒が基調なのは変わらないが、正式な礼服を身にまとっている。
「どうだ? これで文句ないだろう?」
『タキシードを着たペンギンっぽいわね』というナタリアの内心などつゆ知らず、カイルは誇らしげに告げた。
「陛下、とても素敵ですわ」
ナタリアが褒めると、ふふん!と得意げな顔をする。
「ただ、少しだけメークさせていただいてもよろしいですか?」
カイルの顔が警戒心でいっぱいになる。
ナタリアが懇願するように見上げるとカイルは諦めたように肩を落とした。
「……変なことをしたらすぐに落とすからな?」
「はい。目の下にあるクマを消したいのです。あと、眉をもう少し凛々しくするために整えさせていただければ……」
「それくらいならいい」
カイルの皮膚の色に合うような化粧下地を選び、目の下に部分的に肌色を入れていくと上手くクマは見えなくなった。
さらに眉を整え、眉頭と眉尻に軽くまゆずみを足し眉に凛々しさを加えてみる。
よし、『目つきが悪い』から『眼光鋭い』へと変貌を遂げた。
もともと端整な顔立ちなのだ。
肌や眉を整えただけで目を瞠るほどの美形男子になった。
これで瞳に輝きがあれば最高なのに、とナタリアは内心で考えた。
死んだ魚の目なんてもったいない。まぁ、サメっぽくて可愛いと言えなくもないのだけど。
「なんだ? 気にいらないのか?」
考えこんだナタリアにカイルが声をかける。
「いえ、陛下の瞳にこう……煌めきというか輝きがあれば、完璧なのになぁ……なんて」
カイルが物凄い形相で目を剥いたので残念だがそれ以上は諦めた。
次にナタリアが取り出したのは櫛とヘアブラシである。
ヘアブラシは艶出し効果のある猪毛を使っている。
髪の手入れはお世話係として初めてではないが、今日は特に念入りにする必要があるだろう。
カイルの髪は白銀でシルクのように柔らかい。
パトラ村でできたばかりの絹糸を触った時のことを思い出す。
櫛で髪を解いた後、念入りに何度もブラッシングをする。
前世で働いていた水族館には何故だかカピバラもいてブラッシングが大好きだった。
(カピバラか……。懐かしいな。もっともっとってブラッシングをせがんできたっけ)
カピバラを想像しながら無心でブラッシングを続けた後、十分に艶が出た髪を凹凸がないように撫でつけ、後ろで一つに結ぶ。
光を反射して白銀がきらりと輝いた。納得の出来栄えである。
「おおおお! すごいな! 陛下、めっちゃくちゃカッコいいですよ!」
「うるさい」
様子を見にきたセドリックが感嘆の声をあげた。
ナタリアは誇らしげに胸を張る。
後ろに結いきれなかった長めの前髪が無造作に頬にかかる。
前髪の隙間から覗く鋭い黒曜石の瞳と凛々しい眉、すっと通った形の良い鼻梁、薄い唇も全て装飾品のように美しく映えている。
細いが長身で体幹がしっかりしているので立ち姿も美しい。
漆黒の礼服が良く似合う見事な美丈夫である。
黒と白はやっぱりペンギンかシャチっぽいけど。
「さすが、ナタリア嬢だ。陛下、きっとアルバン公国の貴族令嬢も黄色い歓声をあげますよ」
「そんなものはいらん」
舌打ちでもせんばかりの表情のカイルだが、やり切った感が半端ないナタリアは満足だった。




