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暴君陛下のお世話係

 お世話係、一日目。


 ナタリアは皇帝カイルの頭のてっぺんから足先まで視線を何度も往復させた。


 カイルが居心地悪そうに目を逸らす。


「陛下。さすが皇帝だけあってお召し物は最高級品。とてもよくお似合いですわ。髭も今日はきちんと剃っていらっしゃいますわね。でも、御髪とお顔の手入れはわたくしにお手伝いさせていただけますか?」

「な、なぜだ?」

「お肌が乾燥していますし、髪も乱れていますわ」


 有無を言わさずにカイルをソファに座らせる。


 この日のために用意した『皇帝陛下の健康手帳』と書かれた冊子を取り出してニヤッと笑うとカイルの顔が引きつった。


「な、なんだそれは!?」

「まずは脈拍と呼吸数、体温を測りますね」

「はっ!? 何のために⁉」

「健康管理もお世話係の大切な役目です」


 水族館の飼育員は担当する動物達の体温や心拍数、一分間の呼吸数を測るのが日課だった。


 食生活や睡眠の管理も大切な仕事だ。


 口のきけない動物を世話する時は細かい観察眼が重要になる。


 緊張している、不安そう、イライラしている、など感情の動きも察知できなくてはならない。


 体温計がないのは残念だが、額に手を当てるだけでも平熱かどうかくらいは分かる。


 カイルは常に手袋をしているので手首には触れず、代わりに首に指を当てて脈拍を数えた。


「ベースラインを確立するために毎日記録をつけますね」

「なんだそれは⁉ 一体どうしてこんなことをする?」


 目を白黒させて焦るカイルを見ると少し優位に立てたようで気分が良い。


「いいですか? 脈拍や呼吸数を記録しておけばその人の通常の平均値がどれくらいか分かります。もし突然その数値に変化があれば体調が悪いとか何か普通とは違うことが起こっているということ。そういう判断基準になるのですよ。それをベースラインというのです」

「……」

「普通の人よりも脈拍が速いようですね。あ、もしかして緊張されています?」


 信じがたいものを見る目でナタリアを睨みつけたカイルだが、それ以上は何も言わなかった。


 ナタリアは『皇帝陛下の健康手帳』と書かれた冊子に日付、時間、カイルの数値を記録していく。カイルは諦めたようにはぁっとため息をついた。


「さっさとしてくれ」

「はい、もう終わりましたわ。では次にお肌の手入れをさせていただきますね。本当はお化粧もさせていただきたいのですが」

「けけけけけけしょう!?」


 残虐非道の皇帝が恐れおののいた。ナタリアはにやりと笑いメーク道具を取り出す。


「でも今日は止めておきましょう」


 カイルがほっと胸を撫でおろした。


 まずはたっぷりの保湿剤だ。


 せっかくのシミ一つない真っ白な肌なのに乾燥してカサカサだ。


 マッサージしつつ手作りの保湿剤を塗りこんでいく。


 ナタリアの母リディアはべたべたと人工的な保湿剤が苦手だと言って自分で保湿剤を作っていた。


 蜜蜂の巣のビーワックスにシアの木の種子からとれるシアバターを溶かして混ぜたものだ。


 子供の頃に母を手伝って作ったこともある。


 ナタリアはそこにレモンやライムの皮や薬草を抽出した香油を加えてオリジナルの保湿剤にした。


「ん? いい香りがするな? シトラスか?」

「はい、レモンやライムの皮を搾ったものを入れました」

「まさか手作りか?」

「はい」

「伯爵令嬢が?」

「でないと保湿剤なんて手に入りませんので」

「……買ってはもらえなかったのか?」

「父がわたくしのためにお金を出すことはありません」

「そうか、親に愛されない子供というのは不憫なものだ」


 そう言ってカイルは目を閉じた。


 彼自身の人生を振り返っているのかもしれない。


 でも、ナタリアは憐れまれるのは嫌だった。


「おかげで一人で生きてゆく知恵がつきました。悪いことばかりではありませんわ」


 カイルが驚いたように目を開く。


 目が合ったナタリアが微笑むと彼女が強がって言っているわけではないと分かったのだろう。


 再び目を閉じて今度は穏やかな表情を浮かべた。


「そうか。それは良かった」


 しばらくカイルの顔、首、肩をマッサージしていると前よりも筋肉がほぐれてきたような気がする。


 余分な保湿剤をふき取り「はい、終了です」と声をかける。


「お前は俺が怖くないのか?」


 静かな声でカイルが尋ねた。


「え? 怖くありませんが……」


 あっさりと答えるとカイルは調子が狂ったというように頭をガリガリと掻いた。


「俺は人殺しだ。しかも身内を殺したんだぞ? そういう噂を聞いただろう? それで怖くないのかって聞いてるんだ」


 ナタリアは考えこんだ。


『転生した聖女は傷だらけの暴君を癒したい』


 前世で読んだラノベの内容を知っているので、彼が手あたり次第に人を殺して回る殺人鬼ではないことは分かっている。


 しかし、それだけではない。


 彼が理由もなく人を殺す人間ではないと、今世のナタリアは『知っている』のである。


「わたくしも殺したいほど憎い人間がおります。それが叶わないのはわたくしが非力だから。陛下のように力があったらわたくしも殺していたでしょう」


 カイルの瞳が驚いたように瞬いた。そしてすぐに面白そうな顔つきになる。


「へぇ、殺したいほど憎い人間ねぇ。力がないというなら俺が協力してやろうか?」

「いいえ」


 ナタリアは食い気味に答えた。


「協力は必要ありません。ただ、陛下のことは利用させていただきますわ」

「……利用?」


 一瞬ぽかんとした後、カイルは笑い出した。


「お前は本当にいい性格をしている。できるものならやってみろ。俺はそう簡単に利用できる男ではないがな」

「かしこまりました」


 ナタリアが優雅に会釈するとカイルは少し真面目な顔になった。


「お前が殺したいのは……ハインリヒ伯爵夫妻か?」

「まぁ」


 カイルがナタリアの両親のことを知っているとは意外だった。


 ラノベでも自分に関係のないことにはまったく関心を示さないキャラだったのに。


「セドリック様から何かお聞きになりましたの?」

「ああ、ここに来る前も大変だったそうじゃないか」


 ナタリアはパトラ村から王都のハインリヒ伯爵邸に戻ってきた時のことを思い出した。


      ◇◇◇


 パトラ村から帰ってきたばかりのナタリアは逆上した父親と継母にいきなり罵倒され、地下室に連れ込まれた。


 なぜか継妹のローザまで付いてくる。


「アダム様に婚約破棄されたそうだな! 今までどこに隠れていた!?」

「あんたみたいに生意気な娘はアダム様に愛想をつかされて当然だわ!」

「しかも慰謝料まで要求したそうだな。金、金、金……。金にしか執着しない強欲さ! なんて下品なんだ!」

「ローザもおねえさまのせいで恥ずかしい思いをしましたわ。くすんっ」

「あら? でもローザはアダム様の婚約者になりたがっていたし、ちょうど良かったのではなくて? お父さま達もそれを望んでいらしたのでしょ?」


 ナタリアの言葉に両親とローザは気まずそうに目を泳がせた。


 本当にくだらない茶番だ。


「おい! 何を笑っている。聞いているのか? お前はハインリヒ伯爵家の恥だと言っているんだ」

「そうですか。それは申し訳ございません」


 ちゃんと謝ったのに父親の顔が怒りで真っ赤に染まる。


 後退著しい広い額の髪の際まで紅潮したので思わず生え際を凝視すると火に油を注いでしまったようだ。


「お前という娘はとことん親を莫迦にして! この礼儀知らずが!」


 怒る父親に継母も加勢した。


「そうよ! 反省してアダム様への借金と慰謝料を帳消しになさい!」

「嫌ですわ。どうしてそんなことをしなくてはならないのです?」

「アダム様からはローザとの婚約を打診されている。妹への祝い金だと思えば……」

「はぁ!? 厚かましすぎませんか? お断りです」

「ここまで育ててもらった恩を忘れて! 恩知らずな子!」

「食べるものもろくに与えず屋敷の外に何日も放置していたくせに『育てた』なんてよく言えますね?」


 継母の顔が怒りで真っ赤になる。


「この女! あんたみたいな娘と暮らす私達の地獄を考えてみなさいよ!」

「へぇ? 贅沢三昧で食べるものに苦労したこともないくせに。地獄というならわたくしのほうが地獄でしたわよ」

「きぃいいいい! ああいえばこういう! あなた! こんな娘になったのはあなたのせいよ!」

「違う! こいつの死んだ母親のせいだ!」


 亡き母のことを持ち出されてナタリアは怒りに震えた。


「お母さまを侮辱しないでください! お母さまは女神のような方でしたわ!」

「いい気になって! 調子に乗るんじゃないわよ!」


 継母が持っていた扇でナタリアに打ち掛かる。


 ひょいとそれを避けると父親がナタリアの両手首を後ろ手に縛りあげた。


「お父さま!? これが実の娘にする仕打ちですか⁉」

「うるさい! お前が言うことを聞かないのが悪いんだ! おい! 顔は傷つけるなよ」

「分かってるわよ! このっ! このっ!」


 とんとん


「旦那様、奥様」


 その時、ノックの音がして意地悪そうな目つきの侍女長のメグが扉から顔を出した。


「な、なんだ!?」

「お声が大きいので漏れております。ナタリアお嬢さまはキール帝国の犬。慎重にされたほうがよろしいかと」


 父親と継母はハッと我に返り顔を見合わせた。


「確かにそうだな」

「それから旦那様。以前ナタリアお嬢さまが旦那様の脱税の証拠書類を持っているかもしれないとおっしゃっていましたが……」

「あ、ああ、そうだ」

「今のうちにナタリアお嬢さまの部屋におかしなものがないか探しておきましょうか?」

「それはいい考えだ。メグ、お前はいつも気が利くな」


 メグは暗い目をしたまま会釈をした。


「ただ、ナタリアお嬢さまの部屋には鍵がかかっていて……」

「問題ない。マスターキーがある」


 父親は上衣のポケットをごそごそと探りだした。


 継母はメグの腕に手を伸ばし、いかにも同情しているという声を出した。


「メグはこんな小生意気な娘の母親に仕えていたのよね。本当に気の毒に」

「リディアはいつも俺の意に背くようなことばかりしていてこの屋敷では安らげなかった。メグも苦労したことだろう」

「……」


 ようやく鍵を見つけた父親は胸のポケットからマスターキーを取り出した。


「これでナタリアの部屋も開けられる。しっかり探してくれ。頼んだぞ」


 一礼してメグが出ていくと、継母は扉がきちんと閉じているかを確認する。


 その後、ナタリアは両親とローザから殴る蹴るの暴行を受け続けたのだった。


 翌日、連邦総督セドリックの使いの者がハインリヒ伯爵家にナタリアを迎えにきた。


 食事を与えられず怪我の手当もされずに監禁されていたナタリアは、ふらつく体を支えながら慎重に足を地につけて馬車に乗りこんだ。


 連邦総督邸でナタリアを出迎えたセドリックは心配そうに眉をひそめた。


「酷い顔色だ。またハインリヒ伯爵夫妻が?」

「ええ。いつものことですわ」

「助けを呼べば良かったのに……」


 セドリックは彼女の家庭の事情をある程度は知っている。


「いえ、慣れていますから。それに今は大事にしたくありませんの」

「すぐに手当てを。リゾットのような消化に良い食事を用意させましょう」

「助かります」

「明後日、キール帝国の皇帝陛下がこちらに到着されます。それまでに元気になっていただかないと」

「ありがとうございます。自分の務めはちゃんと果たしますわ」

「今から皇帝の滞在中、あなたもずっとこの総督邸で過ごしてください。ハインリヒ伯爵にはそのように伝えておきますので」


 顔色の悪いナタリアを気遣うセドリックに彼女は気丈な笑みを浮かべた。

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