皇太子
その日、ナタリアとカイルは、重厚な机を挟んでセドリックと向かい合って座っていた。
空気は張りつめているが敵意はない。
ナタリアはまだ完全には飲み込めていない事実を思い返していた。
ヴァルハルト・キール。
彼はかつてのキール帝国皇帝の皇后の嫡子であり本来であれば皇位を継ぐはずの皇太子であった。つまり現皇帝カイルの兄にあたる。
先の皇帝はカイルの手によって討たれた。それは復讐であり避けられぬ運命であった。
そして今ヴァルハルトはセドリックという名前で二人の前に座っている。
「ナタリア嬢、君はもう俺が誰だか分かっていると思うけど……」
「はい。キール帝国の皇太子でいらしたヴァルハルト殿下ですね? ……何故ご自身が皇帝の座につかなかったのですか?」
『転生した聖女は傷だらけの暴君を癒したい』
物語の中にもヴァルハルト皇太子は登場していたが、カイルが父親の前皇帝に復讐した際に皇宮は大混乱になり、皇太子以下皇族は皆殺しにされてしまった。
血なまぐさい残虐なクーデタのせいでカイルは貴族や国民の支持を得られずに、アルバン公国との戦争でも苦戦を強いられることになったのだ。
まさかセドリックという名前で生き残っているなんて思いもよらなかった。
そのセドリックがふっと微笑んだ。
「俺はカイルに負い目があるからね」
「兄上、負い目とは……?」
カイルが戸惑った顔をしている。
「先代の皇帝は酷い人間だった。皇后も側妃も皇子も皇女も皆あいつを憎み……恨んでいた。それなのに結局一番若い弟に手を汚させてしまったんだ。俺にもっと勇気があれば……と後悔ばかりだ」
「そんな……兄上は皇子扱いされずに虐待されていた俺をいつも庇ってくれた。先代の皇帝は人の皮をかぶった悪魔だった。父親だと考えたこともないが、兄上には感謝してもしきれない、ずっとそう思ってきたんだ」
「いや、そうじゃない」
セドリックはいつも嵌めている手袋をゆっくりと外した。クリーム色の手袋の下から白磁のような手が現れる。カイルとナタリアは彼の左手の甲を見て目を見開いた。
「まさか⁉」
「兄上……それは……⁉」
そこにはカイルと同様に竜紋の痣が浮き出していた。
「兄上にも竜紋が⁉」
「ああ。母上は俺が生まれてすぐに竜紋の痣の意味が分かった。それで父……先代の皇帝から竜紋を隠したんだ。侍医以外は誰も知らないはずだ。……ずっと隠していてすまなかった」
カイルの顔色は青ざめている。ナタリアは思わず手を伸ばして彼の手を握りしめた。
「ありがとう、ナタリア」
彼女が励ますように微笑むとカイルの頬に血の気が戻ってきたようだった。
「カイル、本当にすまなかった。お前は命を狙われ、母君と乳母までもが殺された。一方で俺はのうのうと平和に暮らしていた。本来なら俺も命を狙われていただろう。お前にばかり辛い運命を押しつけて、俺は逃げてしまった。皇帝になる資格のない人間だ。申し訳ない」
セドリックが深く頭を下げる。カイルは何と返事をしていいのか分からないようだった。
「それで陛下に皇帝の座を譲られたのですか?」
ナタリアの言葉にセドリックは真剣な顔で頷いた。
「ああ、そうだ。カイルが皇宮で復讐を遂げた時、俺はすぐに母親や側妃たちを皇宮から逃がした。先代の皇帝を恨んでいた者は多かった。そのせいで皇族も憎まれていたからな。皇宮は危険な状況だった。幸い、誰も皇族という立場に固執していなかった。平穏に暮らせるなら平民になってもいいという人間ばかりでね。俺の母親と妹もそうだった。今も市井で穏やかに生活をしている」
「それで妹君とは離れて過ごされていたんですね」
以前の会話を思い出してナタリアは呟いた。セドリックはにっこりと微笑む。
「よく覚えていたね。俺は皇宮に残りカイルを支えると決めていた。臣下としてね。だから名前も変えた。皇宮に仕える者達や貴族は俺が誰か分かっているが、前の皇太子が全面的にカイルを支持すると表明したんだ。カイルが新皇帝になることへの不満や反感は少なかったよ」
「兄上には人望があった。兄上が皇帝になったら救われると信じていた者も多い。それなのに何故皇帝になるのを拒絶するのか……どうしてこんなふうに助けてくれるのか、ずっと疑問だったんだ」
セドリックはカイルの頭をくしゃくしゃに撫でまわした。
「お前は可愛い弟だったし、カイルのほうがずっと皇帝にふさわしいと思っていたからな」
「そんな! 兄上のほうが臣民からも貴族からも慕われていたのに! それに……今回のことで兄上の努力を水の泡にしてしまった、のかもしれない。ごめんっ……」
カイルの声が小さくなる。今回のこと、とはカイルがキール帝国皇帝の座をセドリックに譲ることを指すのだろう。
「いいんだ。カイル。お兄ちゃんはお前のわがままを聞くのが嬉しくて仕方がないんだよ。ナタリア嬢と幸せにおなり。お前がナタリア嬢に惹かれているのは分かっていたが、うじうじと告白もできずにいたからな。俺が一肌脱いだんだ」
「そんな!? じゃあ、あの『ナタリア嬢に惹かれている』みたいな言動はすべて嘘だったんですか⁉」
人の知らないところで何を無責任なことを言っているのだとナタリアは呆れるばかりだが、セドリックは得意げに頷いた。
「ああ、もちろん。だから二人が上手くいって、お兄ちゃんは嬉しい。全力で感謝してもらって構わないのだよ」
「まったくもう! 上手くいって……ってどういうことですか?」
ナタリアが大きく息を吐くとセドリックは笑った。
「俺がすぐにカイル支持に回り、先代の皇帝の罪を暴き立てたこともありキール帝国の内政はすぐに落ち着いた。カイルはすぐに新皇帝として認められたんだ。それなのにアルバン王国が予告もなしに侵略を始めてね」
それを思い起こすとナタリアの頬も怒りで熱くなる。
「まったく卑怯ですわね!」
「ああ。そんな時にアルバン王国に放っていた斥候が信じられないくらい貴重な情報を持ってきてくれてね」
「わたくしの手紙ですわね?」
「ああ、これはもう運命だと思った。これからカイルは皇帝として輝いていく運命なんだって思ったんだよ。だから、俺がカイルと国を支えることが贖罪になるだろうって」
セドリックの瞳が少し潤んだ気がした。
贖罪というのは末弟のカイルが酷い目に遭っていたのを救えなかったという意味だろうか? そんなの前の皇帝が悪かったんだし、セドリックの責任じゃないと言ってあげたいけれど、口に出すと言葉が軽くなってしまうような気がしてナタリアは結局黙っていた。
「贖罪なんて……負い目なんて感じる必要ないよ」
ぽつりとカイルが呟くとセドリックが心から嬉しそうに笑った。
「ああ、これからは俺が責任を持ってキール帝国を治めるよ。だから、カイルはアルバン公国のほうを頼む。そうすれば災厄も起こらないだろう」
「災厄?」
「ああ。竜紋を持つ人間はいずれ国の頂点に立つ。だから、竜紋が複数の人間に現れた場合、竜紋同士が争わないように国を分割して統治させたこともあったようだ。さもないと国に災厄が起こるって言われていたらしいよ」
「災厄も防げて敵にならずに済むのならそれが一番だ」
カイルはゆっくりと顔を上げた。
「……今度は国同士、友好的にやっていきたい。今は属国という立場だがいずれは独立国として同盟関係になれたら、と思っているよ」
セドリックも晴れ晴れとした顔をしている。
「ああ、これから忙しくなるな」
張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
ナタリアは二人の間に流れる奇妙な信頼関係をようやく理解した気がした。
「ナタリア、これからも俺の専属世話係をお願いしたいのだが?」
悪戯っぽくカイルが尋ねる。
「お給料ははずんでくださいますか? 今はもう貯金を使い果たしてしまって。また一から節約を始めますわ!」
カイルの隣にいることがナタリアにとって新たな生きがいになるかもしれない。
「当然だ」
ナタリアの手を握りしめてカイルは微笑んだ。
*以上で完結になります!去年の9月から長々と時間をかけてしまい、大変申し訳ありませんでした。間が空くと『あれ? 一人称は僕だっけ俺だっけ?』『え? こんな性格だったけ?』など分からなくなることがあり、大いなる反省点を残した作品になってしまいました(-_-;) いずれ読み返して大幅改稿したいと思っています。この半年間、お付き合いくださり、ブクマや評価をしてくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。




