皇帝カイル
ナタリアは激しい衝撃と共に忘れていた記憶を思い出した。いわゆる前世の記憶というものだろう。
この世界に生まれ変わる前は日本という国で生活していた。
親に虐待され施設で育った彼女は大人になり地元の水族館の清掃員として雇われた。極度の人間不信で恋人も友人もいなかったが妙に動物に好かれる性質であった。
清掃しているだけでペンギンやアザラシが集まってくる。
「掃除の邪魔だからあっちに行っていて」
餌も使わず動物達は大人しく言うことをきく。さらにイルカやシャチからも異様な愛着を示されるのを見た館長が「費用は出すから専門学校に通って飼育員にならないか?」と申し出てくれた。そのおかげで水族館の飼育員になることができたのである。
特にシャチとの相性が良く一日中プールの中でシャチと過ごし絆を深めた。気性が荒いシャチもいたが彼女の前では人懐こい子犬のよう。結果、水族館のショーの完成度が素晴らしいと話題になり来場者数も激増した。激務だったが毎日が充実していた。
ところが過労のせいか風邪をこじらせ肺炎になり、あっという間に死んでしまったのだった。
(あの子達はどうしているかしら? ……寂しがっていないといいけど)
そしてもう一つ大切なことを思い出した。
『キール帝国』と『アルバン王国』
(この国の名前……知っているわ)
家族も恋人も友達もおらず貯金が趣味だった彼女の唯一の楽しみは図書館でラノベを借りて読むことだった。
『転生した聖女は傷だらけの暴君を癒したい』
何度も借りたのでよく覚えている。ナタリアはこの本の世界に転生してしまったのだ。
***
そして、ナタリアは噂の暴君の目の前に立っている。
白銀の長髪に精悍な顔立ち、髪の隙間から覗く黒曜石のような双眸は美形と言えなくもない。しかし、髪はぼさぼさだし、全身真っ黒の衣装を着崩しているので胸元がはだけている。第一印象は『だらしない』だ。
おまけに目の下のクマが酷く目立つ。目つきが悪く死んだ魚のようにどんより曇った瞳を前にすると肝の据わったナタリアでさえもゾクリとする迫力があった。
(でもなんか懐かしい感じがするのよね……)
キール帝国皇帝カイルは視察のためにアルバン公国にやってきた。アルバン公のいる公宮ではなく連邦総督セドリックの屋敷に滞在するらしい。
「お前は誰だ?」
挨拶をしたナタリアにカイルが冷たい声で尋ねる。彼女を紹介したセドリックが如才なく助け船を出した。
「ほら~、前に言ったでしょう? 彼女はナタリア・ハインリヒ伯爵令嬢。帝国も随分お世話になっていますよ。今回もアルバン公国での案内役をお願いしました」
「ああ、守銭奴か?」
守銭奴であることは否定しないが、一言で片づけられるとカチンとくる。
「初対面の女性に対して随分失礼ですこと。それがキール帝国の礼儀なのですか?」
言い返したナタリアに、セドリックが『まずい!』という顔をした。
「ふざけるなっ! 俺を誰だと思っている!」
カイルが大声で怒鳴りつけると空気がビリビリと振動する。全身から物凄い威圧感を発し、同じ部屋にいた従者と騎士が緊張で体を強張らせた。
しかしナタリアはびくともしない。
「キール帝国の皇帝陛下であらせられます」
「俺にそんな口をきいて無事ですむと思っているのか?」
至近距離で睨みつける黒曜石の目から怒りの火花が散っているようだ。だが、噂ほど怖くはなかった。
「いきなり初対面の女を傷つけるほど愚かではないと思います」
「なんだと?」
はらはらした表情で見守っていたセドリックがぷっと噴き出した。
「陛下、ナタリア嬢は本音を言う女性です。彼女が『愚かではない』と言うのは珍しいですよ。誉め言葉です」
「おい! あにう……セドリック、お前何を言っているんだ!?」
カイルが本気で混乱した顔つきになった。しかし、さっきよりも表情に生気がある。そして、なぜ懐かしいと感じたのかが分かった。
「あ、そうか!」
思わず声をあげるとセドリックが「どうしました?」と尋ねる。
「あ、いえ、なんでもないです」
「いや、あなたの意見はいつも興味深い。何を考えているのか教えてくれませんか?」
「本当に何でもないですわ」
「遠慮するな! 思っていることを言ってみろ!」
腕を組んで偉そうに顎を上げた皇帝カイルが命じる。ここは素直に応じたほうがいいかもしれない。
「皇帝陛下はシャチに似ているのですわ!」
「しゃ……ち? とはなんだ?」
「海に生きる哺乳類でクジラより小さくイルカより大きい。黒と白の模様が美しい海の狩人ですわ!」
「「……」」
カイルとセドリックは何ともいえない表情をしているがナタリアは止まらなかった。つい最近戻ったばかりの前世の知識を誰かに言いたくて堪らなかったのだ。
「最初は目がサメに似ているなと思いましたの。サメって瞬膜と呼ばれるまぶたがあって下から上にその膜が上がると白目をむいたみたいに見えるんですよね。ちょっとゾンビっぽいっていうか、そこが可愛くもあるんですけど。死んだ魚の目みたいだなって思いました。もちろん、サメは魚ですから間違いじゃないんですけどね!」
ナタリアの勢いはとどまることを知らない。
「シャチは哺乳類なんですよ。目もサメよりも生き生きとしていて可愛いんです。魚と哺乳類をどうやって見分けるか知っていますか? 魚って尾びれが縦についているんですけど、クジラとかシャチは尾びれが横なんです。どっちもカッコいいですよね~。でも、私はやっぱりシャチが一番カッコいいと思っていて……」
「つまり陛下が一番カッコいいと思っているってこと?」
ナタリアに慣れているセドリックはちゃんと話についてきたようだ。
「おい! 変なことを言うな! それにこんなくだらない話を聞かされるとは思っていなかった。いいかげんに……」
カイルがイライラした口調で怒鳴る。
「いいえ! カッコいいからじゃなくて、黒と白の組み合わせがシャチっぽいなって。シャチと比べたら、正直だらしないです。シャチはもっときりっと凛々しくて賢くて強いんですから!」
「ほぉ……だらしない? 皇帝の俺が? ……お前、ほんっとうにいい性格をしているな」
凄まれてもナタリアは一向に気にしない。
「だって、服装も着崩れてだらしないですし、髭もちゃんとそれていないし、髪なんで伸ばしっぱなしでばさばさじゃないですか? そもそも肌荒れも酷いですよ。保湿剤、ちゃんと塗っていますか?」
「ひげ……? ばさばさ……? 肌荒れ……?」
カイルが呆然と呟いた。セドリックは真面目な顔を取り繕っているが口元がひくひくと震えている。彼は片手で口を押さえてしばらく沈黙した後、表情を引き締めてカイルに向き合った。
「……陛下、睡眠が不足していると何度も注意したじゃないですか? 働きすぎなんですよ!」
セドリックの口調は軽いが目は真剣だ。
「陛下、あなたはご自分を粗末にしすぎなんですよ! いつも言っているじゃないですか? 会ったばかりのナタリア嬢ですら気がつくくらいです。それに清潔感のある身だしなみは大切ですよ?」
「……清潔にはしている」
「でも、身なりが整っているとは言えませんよね? アルバン公やアルバン貴族との謁見では莫迦にされますよ」
「奴らと会う日にはちゃんと整える」
「いえ、陛下には身の回りの世話をしてくれる人が必要で……そうだ!」
良いことを思いついたというようにセドリックが顔を輝かせた。
「ナタリア嬢、案内係の他に陛下のお世話係も兼任していただけませんか?」
「お、お世話係!?」
前世では動物達の身の回りの世話は重要な仕事だった。飼育員として毎日動物達の体温、呼吸数、心拍などを計測していたしシャチの歯磨きまでしていたのだ。
本音を言うと、睡眠不足で目の下にクマを作りカサカサの肌をしているのに自分に無頓着な皇帝を見ていると、前世飼育員としての使命感がうずうずと動き出す。しかし、安請け合いしていいものではない。
「わたくしには無理ですわ。案内係だけでも荷が重いのに……」
躊躇するナタリアにセドリックは親指と中指をこすり合わせた。これはお金を表すハンドジェスチャーである。
「案内係と世話係の兼任。大変な仕事です。報酬は弾みますよ?」
「本当ですか⁉」
途端にナタリアのやる気に火がついた。既に案内係としてかなりの報酬を約束されている。さらに稼げるとなれば断る理由はない。
「二つの役割をこなすのですから報酬は二倍でお願いいたしますね」
にっこりと微笑むと皇帝が「評判通りの守銭奴めっ」と呟いた。しかし鋼の精神を持つナタリアに響くはずもない。
「よろしいですわね? セドリック様?」
「はいはい。もちろんですよ」
ナタリアを良く知るセドリックも動じない。皇帝は死んだ魚の目でセドリックを睨みつけた。
「俺の世話なんて必要ない。無駄な金は払うな」
「まぁまぁ、陛下。ナタリア嬢は伯爵令嬢なのに継母にいびられておりましてね。使用人からも酷い扱いを受けてきたんですよ。なんと舞踏会に出る際にも誰も手伝ってくれないから、髪もメークもドレスも全部自分一人で支度するという強者です。きっと陛下の身の回りのお世話もお手の物でしょう」
虚を突かれたようにカイルは黙り込んだ。一瞬、彼の目に気の毒そうな色が浮かんだように見えたが気のせいかもしれない。
「ではナタリア嬢、これからよろしくお願いします」
セドリックがにこやかに微笑んだ。
*読んでくださってありがとうございます! またしばらく更新が開いてしまうと思います…。でも必ず完結はさせますので気長にお待ちいただけると嬉しいです。どうかよろしくお願いします。