鉄拳
「いい気になるなよ! 権力にすり寄る犬のくせに! お前みたいな計算高い売国奴と別れられてせいせいした!」
アルバン公御一行を見送るために連邦総督邸の正面に立っていたナタリアの耳元でアダムは囁いた。
目が恨めしげに血走って敵意をむき出しにする姿はとても元婚約者に対する態度とは思えない。
カイルとセドリックはアルバン公の補佐官と話をしている。彼らが周囲にいない隙を狙ってきた姑息さにナタリアはため息をついた。
はっきり言って答える気にもなれないが、一応口角を持ち上げて機械的に微笑んだ。
「いい気になってんのはどちらかしらね? わたくしが権力にすり寄る莫迦だったらあなたが王子様で調子に乗っている時にもう少し愛想良くしていたわよ。ずっと婚約破棄したかったのはわたくしのほうだわ!」
いつもの丁寧語ではなく早口で一気に喋るとアダムの顔が怒りで赤黒くなった。
「お、お前……。くそっ、娼婦の娘のくせに!」
母親のことを言われると怒りが抑えられなくなる。
「お母さまのことを侮辱したら許さない!」
「はっ! お前は知らないのか? ハインリヒ伯爵は金でお前の母親を父上に売ったんだぞ!」
アダムの言葉の意味を脳が処理した瞬間に足元が崩れていくような錯覚を覚えた。衝撃を受けるナタリアを見て満足げに嗤うアダムにむかむかと吐き気がこみあげてくる。
(この男……くそがっ!)
ナタリアは拳を固く握ると、アダムの左頬に思いっきりその拳を打ちこんだ。
殴られたアダムは「ぐふっ!」と変な声を出しながら数メートル先の地面に転がった。
「な、なななにごとだ!?」
アルバン公が慌てて駆け寄りアダムを抱きおこす。
「うっ、痛いっ、痛いよ、父上っ、父上にも殴られたことないのに! なんて女だ! 死刑だ! 極刑に……」
「……アダム様は私の母を侮辱いたしました。当然の報いです!」
仁王立ちになったナタリアが言い放つ。物凄い迫力のオーラが背後から湧きだしていた。アルバン公は怯えたような表情を隠せない。
「アダム、お前はリディアを侮辱したのか?」
「そ、そんなことはしていません。この女がいきなり殴りかかってきて……」
「嘘です!」
アルバン公は息子を助け起こすとナタリアに向き直り、彼女の肩に手を置いた。
はっきり言って気持ちが悪い。
失礼だと分かっているがナタリアは思いっきりその手を振り払った。
「失礼ですが、触らないでいただけますか?」
あからさまに嫌がられているのにアルバン公はそれに気づく様子もない。
「ナタリア、皇帝が帰国したら公宮に来るように。しばらく滞在する準備をしておきなさい。迎えを寄こすからそのつもりで」
有無を言わさぬ口調に何と断ったらいいか迷っていると、不意に背中に頼もしい気配を感じた。
「アルバン公、彼女は連邦総督邸で仕事を継続してもらうことになっている。公宮に閉じこめるのは止めてもらおう」
「なにっ!? 本当か、ナタリア?」
「はい、そうです!」
そんな話は聞いていないがナタリアは全力で乗っかった。
「ですから公宮に行くことはできません!」
「……そうか」
不満そうにカイルを睨みつつもアルバン公はそれ以上何も言わなかった。
◇◇◇
一行が帰った後、ナタリアは深くため息をついて「疲れた」と呟いた。カイルが心配そうにナタリアを見つめる。
「ナタリア嬢、俺がキール帝国に帰国した後も君はしばらくここに滞在したらどうだ? ハインリヒ伯爵邸に戻ったら、何をされるか……」
カイルは本気で心配してくれているようだ。
(残虐非道の皇帝なのに随分甘いのね。でも、どうしても確かめなくてはならないことがある)
先ほどアダムが言っていたことが気になって仕方がない。
今すぐ帰って父親を問い詰めたいくらいだが、必死で『落ち着け』と自分に言い聞かせた。
「いいえ、わたくしは大丈夫ですわ。お気遣いありがとうございます」
「そうか。もし身の危険を感じたらすぐにセドリックに連絡するんだぞ?」
「分かりました」
「本当にだぞ?」
「はい」
「無理矢理に公宮に連れていかれそうになったらすぐにセドリックに伝えるんだぞ?」
「はい」
思いがけなくカイルが過保護な母親のような顔をするのでナタリアは思わず噴き出しそうになった。
「何かおかしいか?」
首を傾げるカイルも可愛い……などと皇帝に対して不敬なことを考えてしまい、ナタリアは口元を引き締めた。




