ディードリヒ
「君は当時のカイル王太子の婚約者ではあったが王族ではなかった。王城の秘密の通路というのは普通王族しか知らないのではないか? 何故君は知っていた? どうして敵国であるキール帝国にそんな貴重な情報を渡したのだ?」
カイルは自分のことを疑っている。
それはそうだろう、とナタリアは思った。
祖国を裏切る人間を信用できるはずがない。正直に話すしかないだろう。
「秘密の通路は……当時国王だった今のアルバン公から直接教えていただきました」
カイルの眉がピクリと動いて、はぁっと大きなため息を吐く。
「君の母君が関係しているのか……?」
「はい。アルバン公は当時から母に執着していて、何かと理由をつけては母を王宮に呼び出していました。母は極力断って、どうしても断れない時は従者を連れて王城に行こうとしていたんです。でも、父が従者をつけるのを許さずに……」
「どうしてだ? 奥方に従者や護衛をつけるのを嫌がる夫がいるのか?」
ナタリアは乾いた笑い声を立てた。
「父はその頃にはもう母への関心を失っていたようでしたから……」
「酷い話だ」
「わたくしを連れていって、と母に頼んだんです。母を独りで行かせるのが心配だったから。母を守りたかったんです」
「そうか」
カイルの瞳が優しく細められる。
「……結局、わたくしがアダム様の婚約者になってからは妃教育という口実で何度も王城に行かざるを得なくなったんですが」
悔しそうにナタリアは唇をかみしめた。
「そんなある日、王城で国王の寝室に案内されました」
「寝室に?」
「わたくしはずっと母の手を握りしめていました。絶対にお母さまを守るという気持ちでいっぱいだったんです」
「ああ」
「寝室には大きな暖炉があったのですが、温かかったので火はついていませんでした。暖炉の内側の壁を強く押すと秘密の通路がありました」
「知っている。俺自身、その扉から王城に侵入したのだからな。君が教えてくれた通路だ」
「はい」
「なるほど。その情報を帝国側に伝える気になったのはどうしてだ?」
「……それは」
ナタリアは一瞬躊躇したが観念して口を開いた。
「今から話すことはディードリヒにもかかわることです。陛下はセドリック様から彼について何か聞いておられますか?」
「ディードリヒ? セドリックがアルバン公国で地元採用した税務官か? いや、思いがけない拾い物をした、と言っていたのは覚えているが……」
「ではディードリヒの個人的事情については割愛させていただきます。お気になるようでしたら本人に尋ねてください」
「分かった」
まっすぐに見つめ返すカイルの目には先ほどまであった猜疑心が少し減ったようでホッとする。
(疑わないでほしいって思っちゃっているのかもしれないわ)
そしてナタリアは語り始めた。
◇◇◇
ディードリヒは山の中で隠遁者のようにひっそりと暮らしていた。
小さな小屋に山ほど本を積み、菜園で野菜を育てたり山菜を採集したりする以外はひたすら本を読んでいるような人だった。
たまに猪や鹿などを狩ることもあり、そんな時は一日中歩き回って獲物を探す。
ディードリヒが野犬に襲われているナタリアを助けたのはそんな時だった。
「君は見たところ貴族令嬢のようだけど、こんなところで一人で何をしているんだ?」
少し苛立ったように眉をひそめてディードリヒが尋ねた。
ナタリアへの怒りというよりはまだ八~九歳の少女が一人で山をうろついているのに親は何をしているのだという目つきであったと思う。
ナタリアが家を出された事情を説明すると彼は何も言わずに自分の小屋に連れ帰り食べ物を分けてくれた。
「追い出されて行く場所がなかったらここに来るがいい」
それ以来、ディードリヒの小屋に入り浸るようになったナタリアに、彼は本を読ませてくれただけでなく、いろいろなことを教えてくれた。
母亡き後、教育を受けられなかったナタリアに知識を与えてくれたのはディードリヒだった。
そんなある日、ディードリヒの小屋に行くと大怪我を負った少年が眠っていた。
「……矢で打たれたようだ」
「動物と間違えられて打たれたのかしら?」
「いや、矢じりには毒も塗ってあった。食用の獲物には毒を使わないだろう」
「毒!?」
幸いディードリヒは毒消しの薬草の知識もあり少年は助かった。
回復するまでの世話をナタリアも手伝い少年がキール帝国人であることを知る。
ナタリアが興味を持ったので、ディードリヒはキール語の学習本やキール帝国に関する書物を貸してくれた。
寡黙な少年であったが、ナタリアが熱心にキール語で話しかけるとたまに頷いてくれるようになった。
ナタリアが小屋を訪ねた時、偶然二人の会話が耳に入った。
「アルバン王国の特権階級は腐りきっていて自浄作用もない。どうしようもないな」
「……キール帝国も似たようなものだ。何よりも皇帝が酷すぎる」
アルバン王国の王族と貴族の腐敗ぶりについてはいつもディードリヒから聞いていた。
キール帝国でもそうなのかと暗澹たる気持ちになる。
「ただ俺の主君は違う。心から国民を大事にする人だ。あの方が上に立てば帝国は必ず良くなるだろう」
少年の言葉は自信に満ち溢れていた。
そんなふうに信じられる主人を持つ彼のことが羨ましいと思ったのをよく覚えている。
数か月後、回復した少年はキール帝国に戻っていった。
アルバン王国で何をしていたのか、ナタリアは尋ねたことはなかったけれど、諜報のような活動をしていたことは想像ができた。
そして、クーデタで皇帝が代わった混乱の時期にアルバン王国がキール帝国への侵略を始める。
威勢よく宣戦布告までしたのだが、アルバン王国はあっという間に劣勢に陥った。元々の国力に差がありすぎるのだ。愚かで無謀な策であった。
キール帝国が攻めてくるのではと人々が戦々恐々としていた頃。
その少年が再びディードリヒを訪ねてきた。偶然ナタリアもそこにいる時だった。
「間違いなくアルバン王国は負ける。新しい皇帝は恐ろしい人だ。国土は全て蹂躙されるだろう」
「そんな!? 罪もない人達が殺されるの?」
「先に攻撃したアルバン王国が悪い。ただディードリヒとナタリアは俺の恩人だ。主君に助命を頼んでやる。帝国に来い」
「そうだな。正直、俺はアルバン王国にはうんざりしている。帝国で就職先があるなら紹介してほしいくらいだ」
ディードリヒの軽い口調にその場の緊張が少し和らいだ。
少年の強張った頬も多少緩む。
「待って! 私には大切な村があるの。簡単に帝国には行けない」
「パトラ村か……。あの村が襲われて代々受け継がれてきた養蚕が破壊されたら、確かに人類にとって大きな損失になるな」
「そんな大げさな」
少年は笑うが、ナタリアは彼の腕をつかんだ。
彼女の顔は紙のように真っ白になっている。
「わたくし、キール語で手紙を書くわ。あなたの主君……でも誰でもいい。偉い人に届けて」
「手紙って……何を書くんだ?」
「パトラ村がどれほど価値のある村かって……」
「はっ」
帝国の斥候だという少年は鼻で笑った。
「そんなの我が国の皇帝が一顧だにするはずがない。もっと価値のある情報ならともかく……」
「価値のある情報? あるわ! わたくしは王城の秘密の通路を知っているの! 外から直接国王の寝室まで入れる通路よ!」
「また出鱈目ばかり」
ナタリアのことを信用しなかった少年を説き伏せたのはディードリヒだった。
かくして手紙は運よく皇帝の元に届き、帝国軍はアルバン王国の国土を蹂躙することなく勝利をおさめた。
パトラ村について交渉しにやってきたのが少年の雇い主であったセドリックだ。
彼はナタリアの立場を理解し、パトラ村を保護することと彼女が村の特別管理官になることを認めてくれた。
そしてセドリックはディードリヒのこともいたく気に入り、彼を雇用することにしたのである。




