馬車の中
翌日の視察はパトラ村だった。王都からは馬車で約七~八時間の距離である。
朝四時には出発するので馬車の中で朝食をとることになる。ナタリアは厨房でカイルと自分の分の朝食を作ってもらった。他の随行者の分はセドリックが用意してくれるそうだ。
馬車の中にまで仕事の書類を持ち込んだカイルはひたすら分厚い報告書を読んではサラサラと手帳に何かを書き記している。
(まぁ、いいわ。わたくしは眠ることにしましょう。どうせ気にしないでしょうし)
朝食の入ったバスケットを隣に置いてうつらうつらと眠りに落ちたナタリアは、馬車がガタンと揺れた時にハッと目を覚ました。
(いやだ、ぐっすり眠ってしまったわ)
その時、至近距離にカイルの麗しい顔貌があることに突然気がついて「きゃっ」と「ひゃっ」の間くらいの小さな悲鳴をあげてしまった。
「すまない。よだれがこぼれそうだったので……」
「はっ!? よだれ!?」
言った瞬間に口の端から何かが漏れる感覚があり、カイルは「よっ」と手に持っていた白いハンカチでドレスに落ちる直前に受け止めた。そのままハンカチを上に持ってきてナタリアの口元を拭う。
「大丈夫か? 気持ちよさそうに眠っていたのに起こしてしまったか、悪い」
カイルは何事もなかったかのように元の席に戻りハンカチをポケットに押し込んだ。
「は!? あの!? え⁉」
女性としての羞恥だとか混乱だとか怒りだとか複雑な感情が渦巻く中、ようやく出てきた言葉は「ありがとうございます」だった。
「別に」
カイルは再び書類に目を落とし、もうナタリアのほうは見向きもしない。
(嗚呼ああああ! やってしまった! どうしよう!? 爆睡してよだれを垂らす女って……。いくら朝早かったからって、情けない)
心の中の声が表情に出ないよう素知らぬ顔で窓の外を見ると、ちょうど朝日が昇りかけているところだった。
一体カイルにどう思われたのだろうと横目で盗み見しても、彼は相変わらずの無表情とよどんだ魚の目で熱心に書類を読んでいる。
ぎゅるぎゅるぎゅr……。
今度はナタリアの腹の虫が鳴った。慌ててお腹を押さえるがもう遅い。カイルが目を丸くして彼女を見つめていた。
「悪女でも守銭奴でも腹はすくし、よだれも垂らすんだな」
今一番言われたくないことを指摘されて、ナタリアは穴を掘って自分を埋めたい衝動に駆られた。
どうも前世の記憶を思い出してから緊張の糸がほぐれてしまったというか、脳のねじまで緩んでしまったような気がしてならない。
いくら夜中の三時起きだったからといって、昔なら絶対にあり得なかった失態だ。
赤い顔で俯いたままじっと耐えていると「くっ」という音が聞こえて顔を上げる。
皇帝カイルが片手で口を覆って肩を震わせて笑いをこらえていた。
「……いっそ笑っていただいたほうが気が楽ですわ」
「わ、わるい……我慢できなくて……あんな……天使のような寝顔から……よだれとか……くっくっくるしい……豪快な腹の音が……」
笑いすぎて涙がにじみ出てきている。案外笑い上戸なのだろうか。
「もう! 淑女に対して失礼ですわよ! わたくしにだって羞恥心はあるのですから!」
「しゅ、淑女!」
我慢できなくなったのか、お腹を抱えて爆笑するカイル。
「セドリックが言っていた通りだな。君は面白い!」
「お、おもしろい? わたくしが? 生まれて初めて言われましたわ」
笑いがおさまるまでしばらくかかったが、ナタリアは黙って冷たい視線を送るだけにした。
ようやく笑いがおさまったカイルが目尻を指先で拭きながら「いや、悪かった」と言うが、まだ口元がぴくぴくと動いている。
「陛下、そろそろ朝食にしましょう。料理長に頼んで特別にお弁当を作っていただいたのですよ。朝食の後に陛下の健康確認をさせていただきます」
話を変えるためにバスケットをずいとカイルの目の前に押し出した。
「ああ、そうだな。俺も腹が減った。……君ほどではないだろうが」
「もう、揶揄うのはいい加減にしてくださいまし!」
ぷいと顔を背けるとカイルの切れ長の目が優しく弧を描いた。
今までのような死んだ魚の目ではなく瞳にわずかだが光がある。
(陛下にこんな顔をさせられるなら恥をかいた甲斐があったかしら……? いえ、やはり淑女としてあるまじき行為だったわ。くっ)
「お、いい匂いだな! 今日はなんだ?」
心なしか声が弾んでいる。カイルはナタリアの手配する朝食が気に入ったようだ。
「ムルタバといってパイのような生地にひき肉を包んで揚げたものです。今日は牛ひき肉をニンニクやスパイスで味付けて調理してもらいました」
「ほぉ、珍しいな」
そう言いながら既に紙に包んだムルタバを頬張っている。
あっという間に口の中に消えたががつがつしている印象はない。
さすが皇族だけあって品があると見ていたらバチっとカイルと目が合った。
「なんだ?」
「いえ、なんでもありませんわ」
「言え、気になる」
「さすが皇帝は手づかみで食べているのにどことなく品があるなぁと感心しておりました」
「品、か……」
どことなく寂しげにカイルが呟いた。
「育ての親が食べ方や立ち居振る舞いに厳しい人だったんだ」
きっとカイルを隠れて育ててくれた乳母のことなのだろう。
殺されてしまった養母を思い出しているのかもしれないカイルの横顔にナタリアも胸が痛くなった。
「とても素敵な方だったのでしょうね」
ナタリアのしんみりとした口調に同調するようにカイルが目を瞬かせた。
「ああ、素晴らしい女性だった」
小さく呟くとカイルは大きな口を開けてムルタバを頬張る。
「美味いな」
カイルがコホンと咳払いをして湿ってしまった空気を変え、バスケットの中を覗きこんだ。
「他にも何か入っているぞ」
「はい。こちらはデザートです。ムルタバ・マニスといってパンケーキでチョコレートクリームを挟んだ感じ、でしょうか」
「ほぉ、美味そうだな」
カイルは案外甘いものが好きだ。
前世でいうどら焼きを大きくしたものに見た目は似ているが中身は餡子ではない。
カイルは餡子も好きそうだ。小豆が手に入れば簡単に作れる、などと考えながらカイルの気持ちよい食べっぷりを眺めていた。
「君も食べろ。遠慮するな」
「ではお言葉に甘えて」
ひき肉を包んだムルタバはスパイスの香りとサクサクした生地の食感が堪らない。
噛むとじゅっと溢れる肉汁もまだほんのりと温かい。
片手で頬を押さえて『ん~、美味しい!』と幸せに浸っているとカイルが面白そうにそれを見つめている。
「な、なんですか?」
「いや、なんでも」
カイルに見られていると思うとどことなく気恥ずかしい。
それでも素知らぬ顔で何とか朝食を食べ終えた。
◇◇◇
「君とはゆっくり話がしたいと思っていたんだ。尋ねたいことがある」
目的地まではまだ時間がある。
食事の後、真剣な顔つきで口を開いたカイルの目は再びどんよりと曇っていた。
「はい。なんでしょう?」
「なぜキール帝国にアルバン王城への秘密の通路を教えたのだ?」
ナタリアは息をのんだ。




