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恩人

 カイルが登場すると、代表団の面々は途端に借りてきた猫のようにおとなしくなった。


 アルバン公のためにカイルが椅子を用意させたが、アダムは父親の体調不良で公宮に帰ると言い張った。


 自然と代表団も帰り支度を始める。


「アダム様よりも格上の男が現れたらあっという間に鞍替えして、酷い女! 調子に乗るんじゃないわよ!」


 ローザは別れ際に他の人に聞こえないくらいの小声でナタリアに囁いた後、大きな笑顔を作った


「それではおねえさま、ごきげんよう。皇帝陛下、総督閣下、また御目文字できる日を楽しみにしておりますわ」


 耳元で聞こえたドスの利いた声の持ち主と同一人物とは思えない。


ローザはカイルとセドリックにも最大限の愛嬌を振りまいて帰っていった。


 代表団を見送った後、気が抜けたのか疲れが一気に襲ってきた。


「陛下、大変申し訳ないのですが、少し休憩させていただいてもよろしいでしょうか?」

「無論だ。君はよく頑張った。特にあの……アルバン公の君、というより君の母君への執着……異常だな」


 ナタリアは力なく笑った。


 彼女には珍しく弱気な表情にカイルの顔が引き締まる。


「今後のことはまた相談しよう。決して君の安全が脅かされないようにする。今日はもうゆっくり休んでくれ」


 その夜、カイルの心遣いに感謝しつつナタリアはあっという間に眠りについた。


      ◇◇◇


 ぐっすりと熟睡したナタリアは翌朝さっぱりとした気持ちで目を覚ました。


(さて、今日も皇帝陛下の健康手帳と朝食を……)


 厨房に向かう途中で「ナタリア!」という懐かしい声が聞こえた。


(え? まさか……)


「ディートリヒ!」


 四十前後の知的な顔つきの男性が笑顔で手を振っていた。ナタリアにとって祖父と同じくらい信頼できる大人である。


 ナタリアは子供の頃、食事抜きで閉じ込められただけでなく、外に追い出されることも多かった。


 山をさまよい野犬に襲われかけたところを助けてくれたのがディードリヒである。


 彼はアルバン王国貴族の優秀な家臣であったが、主君の不正を諫めようとして逆に不名誉な濡れ衣を着せられ追い出された。


 そのうえ他の屋敷で雇用されないよう悪評を流されるという酷い仕打ちを受けた。


 貴族の汚さに絶望したディードリヒは全財産を家族に渡し、別れを告げて山で一人暮らしをするようになったのだ。


 彼はその後も何かとナタリアの面倒をみてくれた。


 ディードリヒがいなかったらナタリアは生き残れなかったかもしれない。


 紆余曲折あり、現在ディードリヒは連邦総督セドリックの腹心として働いている。


「久しぶり! 会いたかったわ、ディードリヒ」

「ナタリアも元気そうで良かった」


 知的な笑みを浮かべるイケオジ。


 自分の密かな初恋だとナタリアは頬を染めた。


「今回はどこに行っていたの?」


 セドリックからディードリヒは出張中だと聞いていた。


 アルバン公国の税制に詳しく土地勘もある彼はセドリックに重宝されており、しょっちゅう問題のある領地に監査役として派遣されている。


「北の方だ。それよりナタリアの活躍ぶりは聞いているよ。皇帝陛下のお世話に行かなくていいのかい?」

「あ、いけない! 遅れちゃうわ。今日から視察が始まるのに。また今度ゆっくりお話ししたいわ」

「私もだ。頑張りなさい」


 優しく頭をぽんぽんしてくれる手の温かさは変わらない。


「はい! 頑張ります!」


 朝食を運んでいくと皇帝カイルは相変わらず書類に埋もれていた。


「おはようございます! 本日の朝食はクレープです!」


 片手で食べられるシリーズ第二弾はクレープである。


 そば粉のクレープにはベーコン、アボカド、カマンベールチーズを挟み片手で持っても崩れないように紙で巻いてある。


 甘いクレープはバナナ、チョコレートと生クリームの王道だ。お茶はライム風味のアイスティーにしてみた。


 カイルは何も言わずに机の書類を片付けだした。


(え? わざわざ仕事しながら食べられるものにしたのにいいの?)


 そう思いつつ机にランチョンマットを敷いて食事を用意すると、カイルのお腹がぐぅーーっと大きな音を立てた。


「……」

「……」


 カイルの顔が赤くなったが、何も聞かなかった振りをして配膳を済ましお辞儀をするナタリア。


「……ありがとう」


 小さな声で呟くのが聞こえた。


「それでは失礼いたします」


 頭を下げて部屋を出ようとすると思わず、というふうにカイルが引き留めた。


「君の朝食は?」

「わたくしはいつものように厨房でいただきますわ。終わりましたら、また陛下のご健康を確認させていただきます。その後、お仕度を手伝いますので」

「そうか」

「何か?」

「いや、君もここで朝食をとったらいいのに。わざわざ厨房を行ったり来たりするのも面倒だろう?」


 いや、別に面倒ではない。ただ、カイルは一人で食べるのが寂しいのだろうか?


「陛下がお嫌でなければ、明日からご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」


 試しに尋ねてみるとカイルの顔が少し明るくなった。


(ちょっと子供みたい。人に懐かないペンギンが初めて寄ってきた時のことを思い出すわ)


 ナタリアは口元が緩みそうになるのを必死で引き締めた。

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