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婚約破棄は撤回不可です

「父上、ナタリアです。リディア様ではありません」


 アルバン公を支えるように立つアダムが忌々しそうに舌打ちしながら言った。


「……ナタリア? リディアの娘か?」

「そうです。そのお名前を出すとまた母上がお怒りになりますよ」


 体が弱いアルバン公の正妃はほとんど公けの場に出てこず、今回も代表団には入っていない。


 ハッと我に返ったアルバン公の目がピタリとナタリアに据えられた。


 じっとりとまとわりつく視線に全身の毛が逆立つような寒気を覚える。


「リディアに生き写しだ。後で公宮にくるように。ゆっくりとリディアの思い出話でもしよう」

「大変申し訳ございません。わたくしはただいま皇帝陛下に賜った職務についておりまして……」

「まったくこれみよがしに帝国との繋がりを自慢して、あさましい」


 アルバン公の隣にいたアダムが吐き捨てるように呟いたので、ナタリアは呆れて眼球をぐるりと回し肩をすくめた。


「自慢などしておりません。事実を述べただけですが」

「だからその態度が可愛げがないと……!」

「アダム、止めないか。婚約者は丁重に扱えと前から言っているだろう。そうだ! お前がナタリア嬢を公宮に招待するといい!」


 アルバン公が口を挟むと声を荒げていたアダムが気まずそうに俯いた。


 まさかと思うが、彼はアルバン公に婚約破棄を報告していないのだろうか?


「アルバン公閣下、わたくしは先日アダム様の誕生日パーティで衆人環視のもと、婚約破棄を申し渡されました。わたくしはもうアダム様の婚約者ではございません」

「な、なんだと!?」


 アルバン公が目を剥いた。アダムの目は泳ぎまくっている。


(やっぱり言っていなかったのね。婚約破棄も一人で暴走したのかしら?)


 アダムは慌ててローザを抱き寄せると精一杯の笑顔を作る。


 ローザも瞬きを繰り返しつつ上目遣いでアルバン公に愛想笑いを振りまいた。


「あ、あの、父上、こちらがローザ。ナタリアと同じくハインリヒ伯爵家のれっきとした令嬢です。それにナタリアと違い愛国心に溢れる素晴らしい女性なんです。私は彼女と婚約するつもりで……」

「は!? なにを言っている? リディアには似ても似つかないじゃないか!」

「えーと、リディア様とは別の女性が産んだので……」


 アダムがもごもごと口ごもり、ローザの満面の笑顔がこれ以上は維持できないというように引きつり始めた。


一方、アルバン公は目を血走らせる。


「こんなに冴えない娘を公宮に入れるつもりはない!」

「さ、冴えない……?」

「う、うちの娘が……?」


 ローザを形容する言葉として初めて聞いたに違いない。


 三人は『冴えない』という言葉に『美しい』とか『可愛い』という意味が含まれていただろうか?と考えているようだ。


 そんな三人を放置してナタリアはアルバン公に向き直った。


「アダム様に一方的に婚約破棄を言い渡され、公衆の面前で罵倒されました。わたくしは婚約破棄を受け入れましたので確定事項です。それを翻すつもりはございません!」


 アダムは慌てて弁明を試みた。


「すべてナタリアが悪いのです! 自業自得です」


(この期におよんでまだ人のせいにするの!?)


「そうですわ! 恐れながら我が姉はハインリヒ伯爵家でも手を焼くほどのわがままで自分さえ良ければいいという人間なのです! しかも帝国に尻尾を振る裏切り者なのですわ!」


 『冴えない』から立ち直ったローザも援護射撃を始めた。


 呼応してハインリヒ伯爵夫妻もいかにナタリアが自己中心的で強欲かを語り始める。


 この手の誹謗中傷は少しずつ真実を織り交ぜながら話を膨らませるのがコツである。


 周囲で聞き耳を立てていた代表団の貴族たちもナタリアが『悪女』であることを思い出したようだ。


「まぁ、そういえばそんな話を聞いたことがあるわ」

「やっぱりあれはそういうことだったのか」


 捻じ曲げられた事実であっても説得力があり、なぜか全ての責任はナタリアにあるという流れになってしまった。


 しかし、アルバン公だけは苦虫を嚙みつぶしたような顔をしながら頑迷に主張する。


「いかに悪女だろうとリディアの娘だ。公国の妃として公宮にもらい受ける。婚約は継続させよ、いいな、アダム。ハインリヒ伯爵も?」


(いや、そんなの勝手に決めないでよ! 気持ち悪い。公宮なんて近づきたくもない!)


「そ、れは困ります……」


 必死に否定しようとするナタリアだがアルバン公もその場にいる誰も耳を傾けない。


(どうしよう、本当にこのままなし崩しに婚約破棄が撤回されてしまったら……)


「それは困るな。アルバン公」


 誰かがナタリアの肩に大きくて温かい手を置いた。


 その声に思わず安堵して目の奥が熱くなる。


「こ、皇帝陛下……」


 ナタリアの背後から皇帝カイルが彼女を庇うように一歩前に踏み出した。


 男らしく彫りの深い横顔がちらっと視界に入る。


 普段は死んだ魚のようなカイルの瞳が怒りで火花が散っている。


 恐れをなした代表団一行は再び頭を深く下げた。


 アルバン公だけは悔しそうに顔を上げたままカイルを睨みつける。


「困るとはどういうことでしょう? ナタリアは我が国の者です。返していただかないとこちらが困る」


(人を物みたいに言うわね)


 改めてアルバン公は気持ち悪いと思った。


「彼女の意見を尊重することが大切ではないですかな? ナタリア、君はどうしたい? 婚約破棄を撤回してもらいたいかい?」


 カイルの顔を見て自分の気持ちを正直に伝えてもいいのだと安堵する。


「いいえ!」


 食い気味にナタリアは叫んだ。


「わたくしはアダム様との婚約を望んでおりません。はっきり申し上げて、絶対に嫌です!」

「とのことですよ。アルバン公」


 現在、この国でカイルに抗える者はいない。


「そんな……。ナタリア……。リディア」


 アルバン公が両手で顔を覆って膝から崩れ落ちた。

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