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部屋を抜け出した俺は、こそりと周囲の様子を窺う。
周囲には誰もいないようで、俺はほっと胸を撫で下ろした。
太陽の位置を見るに、時刻はちょうど真昼というところだろうか。
イーディスの体は、部屋から出るその挙動だけで疲労を訴えている。……仕方がないことだが、想像よりもかなり脆弱だな。
「隠蔽魔法……使えるかな」
頭をかきながら、ぽつりとつぶやく。
隠蔽魔法は自身の姿を周囲から隠せる便利なものだが、術式がかなり複雑だ。深い集中をしつつ複雑な魔法を行使するのには、それなりの体力が必要なわけで……この脆弱な体でできるのだろうか。
しかし身を隠しながら警備がいる屋敷を出ることは、現実的に考えて難しいしな。ま、やるしかないか。
「──隠蔽」
前世の感覚を思い起こしながら、魔法を行使する。
すると、頭の奥がかき回されるような不快な感覚が湧き上がった。
「……っ」
これはきついな。
イーディスの体は、脆弱な上に魔法を使うことに慣れていない。しかしながら魔法の原動力となる『魔力』は莫大ものを持っているという、非常にアンバランスな状態だ。
──激流が狭い出口で堰き止められているせいで、体に負担が募っていく。
今の状態は、そんな光景を想像してもらえるとわかりやすいだろうか。
前世では手足のように使えていた魔法に、これほど手こずるとは。歯を食いしばりながら、魔力の奔流に飲み込まれないように耐える。
飲み込まれたらどうなるかは、あまり想像したくないな。魔力暴走で、大怪我を負うことは必至だろう。
そして──。
「ぷはっ」
なんとか隠蔽魔法の行使を完了させた俺は、大きく息を吐きながらその場にへたり込んだ。
体には疲労が溜まり、息が乱れている。
小さな手で顎を伝う汗をぐいと拭ってから、俺はもう一度息を吐いた。
この体の最大の課題は、体力かもしれない。
そんなことをしみじみと思う。
魔力回路に毀損はないし、魔法に対する勘も悪くない。
けれど決定的に、複雑な魔法を使うための体力が足りないのだ。
前世の俺は衣食住が足りていたので体力が充実しており、戦闘訓練もしっかりと受けていた。その上、女性よりは体の作りが頑強な男性だったからな……。現世との体力の差は歴然だ。
念のために足音を忍ばせて庭を進むが、すれ違う誰もが俺の存在に気づかない。うん、魔法の効果は完璧だな。
こうして……。俺は堂々と正門から、公爵家の屋敷を出たのだった。
「さて、どこに行こうかな」
頭の中でこの国の地図を広げる。
魔物は人々の負の感情から生まれる生き物なので、街の側にある森林などに発生することが多い。
街中にぽんと発生することが少ないのは、数の暴力による駆除から逃れるための野生の知恵なのだろう。
「領都近くの森に行ってみるか」
レッドグレイヴ公爵家の領都は大きいし、前世で何度も行ったことがあるので迷うこともない。
なにより屋敷から近いので、夕飯を持ってくるメイドがやって来るまでに戻ることができる。この選択しかないだろう。
「よし」
つぶやいてから、足に魔法の風を纏わせる。
うん、集中を要しない単純な魔法の行使は問題ない。
たんと軽く地面を蹴れば、足は軽やかに動き体がぐんと前に進む。
……魔法で負担を軽減しているとはいえ、体力が尽きないように慎重に進もう。