番外編:エイシュ・ペティのプロファイル(2)
「朝っぱらから何の用だ、ミルティ?」
ネルスターは少し機嫌が悪かった。
この女はしょっちゅうパシリ感覚でネルスターを呼びつけるのだ。
「あなたに大切な人からメールが来ているぞ。」
「大切な人?」
きょとんとしてミルティからボードを受け取る。
ボードの表面をタッチすると浮かび上がる文字。
“母危篤、至急参られたし”
精緻な筆跡で書かれた文字が、ネルスターの全身を駆け巡った。
「……パクだ。」
ネルスターは知らず口にしていた。
母が危篤、という知らせに衝撃を受けたのか、それともパクの筆跡に衝撃を受けたのか、どちらか分からなかった。
なにしろパクとはもう何年も連絡を取っていない。
パクにはここのアドレスだけを教えていたのだった。
しかし、今までただの一度も向こうから連絡が入ることはなかったし、もちろんこちらから連絡を取ることもなかった。
「行ってやってくれ。」
ミルティが珍しく感情のこもった声を出して言った。ミルティとネルスターの母の関係は深い。なんでここまで性格の違う二人の馬が合うのかよく分からないのだが、今でもよく連絡を取り合っているらしい。
「行けるわけないだろ。」
ネルスターは吐き捨てるように言った。
「……あなたらしくもないな。いつまで過去に拘っているんだ?」
ミルティはあくまで静かな声色で投げ捨てるように言い、さらに付け加えた。
「マウラが死んでから後悔しても、遅いんだぞ。」
今朝の夢見の悪さは、虫の知らせというやつだったのだろうか。
結局、ネルスターは母親に会いに行った。
あのパクが連絡をしてきたのだ。七年前のあの事件以来、自分との関係を完全に断ち切ってみせたあの男が。これはちょっとやそっとのことではない。と、自分に言い聞かせながら。
病室の扉は真っ白だった。
真っ白な扉を開けると、同じように白い壁とベッド。
そこに横たわる母の寝顔も白かった。もともと痩せた人だったが、それがさらにこけて、青白い肌が痛々しかった。
「エイシュ……?」
その響き。声のトーンにたまらなく懐かしさを感じて、ネルスターはむしろこわごわと、ゆっくりベッドに近づいた。
母は白い顔をして、信じられないほど美しい微笑を浮かべてそこにいた。
「……来ると思ったわ。」
母は自信たっぷりに言った。
ああ、そうか。この人はこういう人だった。
「どうやら、あなたより先に死ぬことが出来そうね。」
母は冗談とも本気とも付かない調子でそんなことを言った。
「ミルティは元気?彼女にもぜひ会いたいものだわ。相変わらず年取ることを知らないでキレイなんでしょうねぇ。」
「綺麗だよ。」
ネルスターはやっとのことでそう言った。ぺらぺらと喋る母に、返す言葉がなかなか見つけられない。
「ねぇ、エイシュ。」
布団の隙間から忍び出してきた、少し筋張った細い手が伸びてきて、ネルスターの頬に触れた。その手は、意外にも温かかった。
「あなたが何を気に病んでるのかしらないけど、私は、何も言わないわ。あなたは、あなたの信じる道をゆけばいい。」
唐突に投げかけられたその言葉に、ネルスターは一瞬目を見開き、そしてまじまじと母の顔を見返した。母は変わらずゆるい微笑みを浮かべたままからかうようにネルスターを見ていた。
この上なく優しい、その声色。
ネルスターは何も言えず、ただ目を伏せた。
この人は、はじめからネルスターを疑うことなど、微塵もしなかったのだ。たしかに思えば、そういう人だった。
そしてその人は、追い討ちをかけるようにくすりと笑いながら言った。
「もちろん勝算があるなら、あの憎たらしいタヌキ親父に、目にもの見せてやってくれてもいいけどね?」
ははは……
ネルスターは思わず笑い声をたてながら泣き笑いのような顔をして言った。
「普通そういうことを言うか?……あんたはやっぱり最高だ。」
そんなネルスターを見返す母の笑顔は、相変わらず美しかった。
「でも、思ったより元気そうで、安心したよ。パクが“危篤”だなんて言うから、飛んで来たっていうのに」
「ふふ……、だって、どうしてもエイシュに会いたかったんだもん。だからパクにお願いして、メールを送ってもらったの。パクからメールが来たら、さすがのあなたも来てくれるだろうと思ってね。」
そう言うことだったのか。まったくこの人という人は……
「それに、パクも、あなたに会いたがってるわ。今度は、あの子がお休みの時に来て頂戴。」
「パクが……?それは、さすがにないでしょう。」
「ううん、本当よ。ずっと、あなたと仲直りする機会を掴みかねてるだけなの。あの子も意地っ張りだからね。それに……」
母は困ったような、切ない笑顔を作って言った。
「あの子は、誰よりあなたのことを、心配してる。」
ネルスターは何も言えなかった。
「あなたに全部任せちゃったことに、少なからず後ろめたさを感じているのよ。」
そんな……。パクは昔っから、父のことにもネルスターのことにも、完全な無関心を決め込んでいたはずだ。むしろどちらかと言うと、自分たちのことをひげた者のように、見下しているというようにも思っていた。
「お母さんが生きてる間に、ちゃんと仲直りして、私を安心させなさいね。」
そんなことを言われたら、どうすればいいか分からなくなる。
エイシュはなんだか少し、切なくなってきた。
もう少し早くこの場所に来ればよかった。
いまさら、兄に会って話がしてみたいものだと思った。