番外編:エイシュ・ペティのプロファイル(1)
静かな夕暮れだった。
キールは、古いアパートのあの、赤茶けた籐の椅子に腰掛けて、いつものように静かにコーヒーを飲んでいる。
ありふれた日常の一場面に、微かに差した不穏の色は、部屋一面が夕刻の茜に染められているせいか。窓の外に目を向ければ、ビルに隠された朱色の空のその中空に、短く切れ込みを入れるように白い月が浮かんでいた。
ほどなく、出し抜けに鋭いマジック製の音が鳴り響き、静かな空気を乱した。
キールははっとして、ゆっくりと立ち上がった。
メールボードを取り上げて書き込む。「どちら様ですか。」(キールの家のメールボードには、用心のために、来客と玄関先に備え付けられたボードで連絡出来る機能が付いている。)
しばらくの沈黙の後、メールボードに走り書きが浮き上がる。
「ノエル・ペティだ。」
ノエル・ペティ……?
聞いたことのある名前だ。
心臓が微かに震えるのを感じた。それが一縷の不安によるものだとは、その時は気付かなかったのだが。
ノエル・ペティといえばたしか、
「ネルスターの、……いや、エイシュの、お父さんですか」
キールは言い当てた。キールはノエル・ペティとは面識は無かったはずだが。
「少しお邪魔しても?」
キールは突然の訪問に驚きながらも、戸口へ向かった。
「どうぞ。」
扉を開くと、男はするりと中へ入ってきた。
初老の男だ。上等そうなメリノのテーラードを羽織り、顔は帽子に隠されていて何故かよく見えない。
口の端を少し上げて、人の良い笑みを浮かべているが、その目には何となく人を不安な気持ちにさせる光があった。
その目が、キールを上から下まで眺め回す。
”この男、本当にネルスターの父親なの?“
キールの心の中で何かが警鐘を鳴らし始め、見ず知らずの男を部屋へ入れたことの後悔が沸き起こった。
「あなたが、キールさんですか」
男の口調にどうしようもない不快感を感じる。
「いったい、どういったご用件で私の家へ?」
キールの声に若干とげが立つ。
男はキールの当惑を楽しむように、相変わらずの不快さを帯びた目でキールを眺めながら言った。
「あなたがいったい、どんな女なのか、一度確かめておきたくてね」
男は打って変わって非常に魅惑的な笑顔を満面にした。
キールは再びたじろいだ。気味が悪くなった。
”この男、本当にネルスターの父親なの?“
男は笑みを残したままの顔で、ちらりと“こちら”を振り返った。まるで挑発するように。
いやだ、止めてくれ。
ノエル・ペティの冷たい手が、キールの細いあごに掛かる。
止めろ。
「止めろ……!」
ネルスターは自分の、悲鳴にも似た声で飛び起きた。汗びっしょりだった。
心臓がバクバクと激しい音を響かせている。
心音はやがて収まっていったが、体がいつまでも震えて仕方なかった。
全身を支配しているのは、鮮烈に実感する恐怖だった。たとえようのない恐怖。
いつかの自分が乗り移って自分の体を支配しているかのようだった。遠い昔の話だ。いまだに自分は、あの男にこれほどの恐怖を抱いているというのか。
ピリリリリリ……!
鋭い着信音に、ネルスターは再び体をびくりと震わせた。
勘弁してくれよ。
恐る恐るボードに手を伸ばす。
表示されたのは見慣れた流麗な女文字だった。
「至急本社に来い──ミルティ。」