Interlude
時刻は午後8時45分。夕食を済ませて雑誌を読みながらごろごろしていた時のことだった。
――ピンポーン。
静かな宵の空気を乱して、景気の良いチャイムの音が鳴り響いた。
こんな時間に来客?今日は平日だし、友人が来る予定も無かったと思うんだけど……
私が訝しみながら玄関のドアを開けると、そこにぬっと背の高い男が立っていた。
「ぎゃあっ」
あんまり驚いたので、自分でもびっくりな奇声を上げてしまった。
「なんだよ、化け物でも見たような声出して。そんな驚くこたないだろ?」
「いや、驚くわよ誰だって!いったいなんなのこんな時間に?」
ネルスターは仕事帰りらしく、見慣れたいつもの仕事着・強力バージョン(見た目はただの綺麗めおしゃれ、その実、魔法回路に裏打ちされた完全武装)を着て現われた。
「腹ぺこなんです。なんか旨いものを食べさせてください……」
ネルは憐れっぽい声でそう言うと、戸惑う私を余所に問答無用で部屋に上がり込んで、ソファにどさりと座り込んだ。
「えっ、ち、ちょっと……」
何があったか知らないが、こんな宵の時間に女一人暮らしの家に突然押し掛けるなんて、紳士としておよそ見上げたことではない。
「来るなら事前に連絡ぐらいしてくれてもいいのに。」
事前に連絡をくれたところで、丁重にお断りしたと思うけど。
「えっ、て言うか、どうしたのその顔!」
部屋の中の明るい光に照らされて、ネルの顔を見たら、左半分が赤く腫れている。青たんとまではいかないけど、ちょっと痛そうだ。
「腫れたか?うまく受けたつもりだったんだが」
私はひとまず貯蔵庫から氷を取り出して氷嚢を作ってやった。
「誰にやられたのよ?あんたの顔面にパンチ入れられる人間なんているのね……」
ネルスターが物理的攻撃を受けてるところなんて、私は彼と出会ってこの方およそ見たことがない。
「ミルティのヤローが、俺に無茶苦茶な仕事ばっかり押しつけるんだ。」
ネルスターは私の質問には答えず、憮然とした口調でそう言った。
「やってらんねーよ。やってらんねぇ」
ネルスターってば、まさか愚痴りに来たのか?
「あんたが社長の文句を言うなんて珍しいこともあるのね。」
彼は根っからの“ミルティ信奉者”のはずなのに。こりゃ、よっぽど酷い目にあったのかもしれない。
「ギヴアンドテイクなんじゃないの?あんたは社長のお気に入りなんだから。」
社長はこの人にとことん甘い。突っ込むと怒られそうだから言わないけど、プロナでの一見も然りだ。社長はネルスターをめちゃくちゃ重宝していて、だから代わりに甘いんだと思う。簡単に言えばそれだけ頼りにされてるってこと。
「ううん、さすがキールさんは洞察力があるね。まさにそのとおりだ。」
彼は感心してるのかバカにしてるのかどっちだか分からないような口調でそう言った。
「私はあんたと社長がデキてるのかと思ってたんだけど?」
この際多少の文脈は無視して、前々から気になっていた疑問を口にしてみる。
私の知るかぎり、社長をミルティなんて呼び捨てにする人を他に知らないし、ネルスターはなぜかあの冷血な社長と仲が良い。仲がいいって言うか……よく分からないけど、二人にしか了解しえないような世界を持っている感じがする。
しかしネルスターは途端に鋭い目付きになって私を凄むように睨んだ。
「アイツと俺が、出来てるってェ……??」
げげっ、そんな、ちんぴらみたいに凄まれても……。
「ミルティには男がいるんだ。俺なんかが一生かかっても敵わないような男が。」
ネルスターは説教でもするようにびしっと言った。
「そ、そうなんだ……」
まぁあの年齢だし(正確には知らないけどたぶん軽く三十は越えてると思う)めちゃくちゃ美人だし、何人恋人が居たって驚かないけど……。
このネタにはもう触れないとこう。私はそう肝に銘じてそそくさとキッチンに戻った。
貯蔵庫に残っている食材をチェックする。鳥肉が一切れあるから、適当に炒めて、あとは私の夕食の食べ残しのポトフで十分かな。豆パンはまだいっぱいあるし。
ところが私がチキンとポトフとカリカリにトーストした豆パンとを持ってリビングに戻ると、ネルスターはソファの上でデカい図体をせせこましげに縮めて、氷嚢を枕に眠りこけていた。
なんという自由人。
「ちょっと、お腹空いてたんじゃないのー?」
私がわざと大きな声で行ってもびくともしない。参ったなぁ。
「よっぽど疲れてたのね……。」
何があったのだろう。私はネルスターに似合わない無防備な寝顔を見ながら思った。
ネルスターに出会ってもう1年以上経つけど、この人はほとんど自分のことを語らない。いつからアヴェンジャーをやってるのかとか、なんでアヴェンジャーをやってるのかとか。知らなくてもいいことだけど、興味はある。
「家族はいるの?……恋人は?あんたのそのアヴェンジャーへの異常な思い入れはなんなの?」
私がぼんやり呟いても、彼はぴくりともしない。
だけどそうだなぁ、この人にはいつも申し訳ないぐらいいっぱいお世話になってるわけだし、美味しいご飯が食べたいってんならそのぐらいのことはしてあげなきゃいけないか。
美味しいご飯を食べさせてくれる女性なんて彼の周りにはいっぱい居そうなイメージ(勝手な)なのに、なんで私の家に来るのか甚だ疑問ではあるけど。
仕方がないので私は夕食の上にふきんをかけ、読みかけの雑誌持ってきてネルスターの向かいに座った。
夜は静かに、ゆっくりと更けていった。