Chapter5:鳥人間ティルテュ・ルゥにまつわる話(完)
「ブレークさん、またハトのエサっすか?」
「ああ、これが食いたいって言って聞かねぇんだからしょうがねぇだろ?アイツ自分のことを、マジで鳩だと思ってやがんだ」
ブレイクは笑って答えた。
「実際、そうなのかもって思わないでもないっすよ。たまに体の構成が本当に鳥になってる時がありますから。ほんと、いちいち驚かされますよ彼女には。」
「調子はどうだ……?今は落ち着いてるみたいに見えるが」
「ええ。非常に良好です。やはり投薬がいい効果を出してるみたいです。」
科学者風情の男、サージはここ一週間のデータを詳細にまとめたカルテをブレイクに見せた。特に目立った変化はない。ここのところ全ての数値は低い値を横這いで推移している。
「エサ、やってきてもいいか?」
「もちろんです。だけどくれぐれも気を付けて下さいよ。また前みたいに、いきなり噛み付かれるってことも有り得なくはないんですからね」
ブレイクはこの管制室からガラス一枚で隔てられた、彼女の「鳥カゴ」へと踏み込んだ。南国の植物と花でうめつくされた小さな温室。ガラスのはまった大きな天窓からは明るい陽光が燦々と降り注いでいる。
ブレイクが腰を屈めて小さな動物に対してするように、片手を差し出すと、バサバサと草木の擦れる音とともに、実際飛ぶように軽やかな足取りで少女が姿を現わした。
柔らかいアイボリーのシフォン型のチュニックを着て、ジーンズ地のホットパンツから長い足が伸びている。
ブレイクは思わず、目を細めてその様を見ていた。
深い闇色の瞳は濡れたようにきらきらと輝き、その細い手足にもふわふわと無造作に流れる長い髪の動きにも、健康的な伸びやかさがあった。初めて出会った時の、ガリガリに痩せて生きてるのか死んでるのか分からない病的な姿からは想像もつかない。
「くくくくく……」
彼女は嬉しそうに目を細めてブレークの手からハトのエサを、実にうまそうに食べた。ブレイクがそんなにうまいのかと思って一口食べてみて、死ぬほど後悔したシロモノだ。
「ぶれいく」
彼女は意味もなくよくその名を口にする。ふわりと微笑みながら、口の中でその響きを転がして楽しむように。
ブレイクは思わずそのふわふわとした焦げ茶の髪に触れた。触れると意外に柔らかく、指で梳くとさらさらと流れ落ちる。
「ぶれーく」
ティルテュは少し首を傾けて嬉しそうに微笑んだ。
「ティルテュ、」
ブレイクは管制室から自分たちの様子を見ているサージを一度ちらりと振り返ってから、言葉を続けた。
「覚悟は出来てるか?」
「くくくくく……」
彼女はいつも、幸福そのもののようにやさしく笑う。
「わたしならだいじょうぶ」
本当に大丈夫なのかと不安に思いながら、ブレイクはずっと思い描いていたことを実行に移した。
ティルテュにはよく言い聞かせて、一昨日から今日までの薬を、飲んだ振りをして捨てろと言って置いた。それだけでおそらく、十分だろう。
すべては今日、この時のため。
二年前、あの胸くそ悪いカンパニーの研究所が崩壊した後、どさくさに紛れて彼女の研究を引き継いだのがこのアヴェンジャー社であったことは、ティルテュにとって非常に幸運だったと言えるだろう。アヴェンジャーは潤沢な資金と有能な科学者を駆使し、彼女に対してこれ以上ないほど適切な管理と指導を施した。
そしてその事実を知ったブレイクは、亢進性障害に関する知識を死ぬ気で頭に詰め込み、素性を隠して忍び込んだ。
相手はかのアヴェンジャー社。便利屋として、一世一代の大仕事だ。
「オレのことは、心配する必要ないからな。」
ブレイクは彼女の小さな耳たぶに触れ、銀色のピアス型の、彼女のすべてをコントロールしているアヴェンジャー謹製の超強力な魔力制御装置を外した。
「……やっちまえ。」
ブレイクは不敵に笑って宣言した。
ティルテュの濡れたような瞳が一層輝きを増す。
彼女は一度、その瞳を閉じ、一つ深く深呼吸をした。それに呼応するようにふわり、ふわりと静かに魔力が高まっていく。
ブレイクにはそれが迸る白い光に見えた。
手に取ればふわふわとした手触りが感じられそうなほど、実体感を伴った強靱な光。しかし、優しい光。これが、彼女の本来の力なのだ。歪められることのない、真っ直ぐな。
――ブレイク。
彼女は再び目を開くと、光の中からそっと手を差し伸べた。
ブレイクは躊躇わずその手を取る。
ブレイクは期待と、微かな恐れに身震いした。力を完全に統制し、持てる全ての力を引き出す方法を身に付けた今のティルテュを完全開放したとき、何が起こるのか、ブレイクはデータ上のシュミレートでしか知らなかった。正直に言えば恐れもある。
「行こう。逃げ出すぞ、ここから。」
ティルテュはそれに答えるように、ふわりと、笑った。
ほとばしる力。全てを跳ね除ける。ティルテュの「鳥カゴ」を厳重に、幾重にも取り囲む、アヴェンジャー社の高度な技術力を駆使した防護柵をも、軽々と跳ね除けていく。
この研究所も、今日で崩壊することになりそうだな。ブレイクは心の中で笑った。
しかし次の瞬間、ティルテュの膨大な力が、物凄い勢いで逆流を始めた。
「これは……」
全てが巻き戻るように、折り畳まれるように、光が収束していく。
「残念だがそこまでだ。ブレイク、お前がやろうとしていること、本社は全部お見通しだそうだ」
鳥カゴの中へと入ってきた男は、冷たく言った。
ブレークが研究職としてアヴェンジャーに入社したのは約半年前。作り込まれたプロファイルと身分証明、入社当初は誰も彼を疑わなかった程に自然で鮮やかな潜入だったそうだ。
アヴェンジャー社が彼を疑ったのはティルテュ・ルゥが彼に対して極めて異常な反応を示したためだ。
ブレークはたしかに有能な便利屋だったが、やはりアヴェンジャー社の調査力と情報網の方が一枚上手だった。アヴェンジャーは、彼が過去に便利屋として、ティルテュ・ルゥの何番目かの持ち主であったミッドランドナイト社の研究所に潜入していたという事実をあっさり入手した。
それが何を意味するのかまでは、もちろんその時にははっきりとは分からなかったのだが。
「アヴェンジャー社の設備を甘く見ない方がいい。そのぐらいの魔力なら充分に制御可能だ。」
「頼む。見逃しちゃあ、くれないか。」
ブレイクは懇願するように言った。
まったく、よりにもよって厄介な相手が現れたものだ。
“ネルスター”。ブレイクは同じ便利屋として、その名をよくよく知っていた。アヴェンジャーと言えば、一番にマークすべき相手と言えるだろう。
「諦めろ。俺は、お前がやろうとしていることが正しいことだとは思わない。」
ネルスターは二人にゆっくりと歩み寄りながら言った。ティルテュの力が襲い掛かっているはずなのに、ネルスターはひるむこともなく向かってくる。
「ティルテュを野に放つことが、どれほど危険なことか分からない程バカじゃないだろう?」
「……そんなことは分かっている。だが、今のティルテュなら大丈夫だ。コイツはちゃんと自分の力を制御するすべを知ってるし、制御装置と薬がある限り暴走はしない。その為に今日まで努力してきたんだコイツは。」
「本当に大丈夫だと言い切れるのか?」
ネルスターはあくまで淡々と、諭すように問いかける。
「彼女が本当に、世間の中で生きていけると思うのか?一人でスカイウォーカーに乗ることができると思うか?マーケットで買い物ができると思うか?制御が効かなくなったらどうする?あんた、責任取ることが出来るのか?あんたはこの先一生、そいつを背負って生きてくのか。いつ暴走するかも分からない、爆弾を抱えてるそいつのことを?」
「止めてくれ……!!」
ブレイクはたまらず叫んでいた。
「それ以上は、言わないでやってくれよ。」
ティルテュは何も言わず、ただネルスターとブレイクの問答を聞いている。ティルテュは理性のない化け物などではない。彼女は全てを理解している。彼女自身の前でそんな分かりきった現実をわざわざ思い知らせるなんて、あまりにも酷だ。
ブレイクも、ティルテュ自身も、そんなことは十分に分かっているのだ。
「……それでもオレは、こいつを自由にしてやりてぇんだ。」
自分でも馬鹿げていると思っている。自分みたいな人間が、なんでわざわざ面倒起こして、苦労してまで彼女を助けたいと思ったのか、こんな気持ちになったのか、自分でもさっぱり分からない。
でも偶然「アヴェンジャー社」に、いつか出会った、ガリガリに痩せたあの少女が居るということを知った時、ブレイクは何のためらいもなく行動を起こしていた。
理屈や言葉で逐一説明出来ることじゃない。説明するまでも無く、人間の感情がなすべきこととして当たり前のことじゃないのか?
しかし相手はそんなブレイクの気持ちなど鼻であしらうかのように、あくまで冷たく言った。
「俺はあんたがいつか必ず、全てを後悔する時が来ると思うね。そんな一時の同情やヒロイズムに突き動かされてなした自分の行動を、後悔する時が、必ず来る。……だってこの先一生だぞ?いつかあんたはティルテュを持て余し、疎むようになるだろう。」
「……っ!!」
ブレイクは目の前の男に対する、どうしようもない激しい怒りを感じた。
いつかティルテュを持て余すようになるかも知れない――その男の語る言葉が一つの理を説いているからこそブレイクの心は苛立った。それも事実だった。だが、彼女の身に振る不幸の何を一つも知らないで、無遠慮につらつらと自分たちの心を踏み躙るようなその言葉が許せなかった。
そのすました鼻ヅラ、殴り飛ばしてやりてぇ。
そう思うより早く手が出ていた。ブレイクの拳がネルスターの顔面へ向けて思い切り繰り出される。
ネルスターは避けなかった。彼は顔面にブレイクの鍛えられた渾身の拳をもろに受け止めて、倒れこみそうになりながら踏みとどまった。その目は真っ直ぐにブレイクを見据えている。
その潔さが余計にブレイクの神経を逆撫でした。構わずさらに畳み掛けようとした時、
「ランサー!」
混沌を貫くように響いたその一言に、ブレイクの思考は停止した。
ティルテュの放つ白く淡い光の向こうから、彼女は現われた。
「リラ……」
リラはいかにも彼女らしい、ベージュのトレンチコートに身を包み、細身のジーンズをはいていた。
あまりに見慣れた姿。この混沌とした、現実離れした空間にふと日常が入り込んだようで、彼女と過ごした穏やかで優しい生活が不意に懐かしく蘇った。
「ランス、あなた何をやっているの?何をやってるのよ。どうして私に何も言わず居なくなってしまったの?」
ブレイクの思考は停止したまま、何も言えず彼女の言葉を聞いていた。
「……会いたかった。」
リラは綺麗な顔をくしゃくしゃにゆがめて、必死に堪えたけれど堪えきれなかったと言うような涙をぽろぽろとこぼした。
「リラ……」
ブレークの心は揺れた。
そしてその揺らぎを、感受性の豊かなティルテュは的確に感じ取っていた。新しく現われた女性とブレークとの間に流れた感情を、的確に感じ取っていた。
「……そのひとはだれ?」
ティルテュは、リラとブレークを不安そうに見比べながら言った。
「恋人だ。ブレークの、恋人だよ。」
ネルスターはあえてどこまでも残酷に、何も知らない無垢な少女に教え諭すようにそう言った。
「こいびと……。ブレークの、恋人?」
もう一度リラを見返して、ティルテュはひるむように言った。ブレイクの恋人は、優しげな目をした綺麗な女性だった。都会的な、洗練された大人の女性だった。
戸惑うように、悲しむように、ティルテュの放つ魔力の圧力が急速に静まってゆく。
「違うっ!待てティルテュ……!」
ブレークは必死に叫んだ。
「……そう。そうなの。」
ティルテュは静かに言って、ブレークの手を振りほどき、たじろぐようにゆっくりと後ずさった。
黒い瞳に、もうブレークを映してはいなかった。
彼女が一歩後ずさる度に、再び、ふわり、ふわりと静謐な光が満ち始める。魔力が高まっていく。
研究所の魔力制御は先ほどと変わらず最高値にあったにも関わらず、である。
「まずい……」ネルスターが焦った声で言う。
「待ってくれ、ティルテュ!」
しかしブレークの手は届かない。ティルテュは完全に、全てを拒絶、隔絶していた。
あの時と、まったく同じだ。また、お前を失望させてしまった。
「しょせんわたしは“ばけもの”だから、にんげんのせかいで生きてくことなんてできない」
――さよなら、ぶれいく。
ふわり、ふわりと、白い羽が降り始める。
「まさか……」
ブレークは、亢進性身性転異症候群の症状、その魔力の究極の形が何なのかを、もちろん知っていた。彼らのその絶大な力は、この世に当たり前に存在する自然の摂理をも、軽く超越して余りある。
ほとばしる強い力に応えるように、「鳥カゴ」全体がわんわんと鳴っていた。その中心で、天窓から降り注ぐ陽光を高く振り仰ぎながら、彼女はその白い光の粒子の中に分解していくように、変容しようとしていた。
――もうじゅうぶん。じゅうぶんだよブレイク。ありがとう。
ティルテュは人としての意識がなくなる直前にブレークの方へ顔を向け、最期の言葉を投げ掛けた。
「ティルテュ……!!」
ブレークは、有りっ丈の声で彼女の名を呼んだ。
そして彼女は、三人の男女がなすすべなく見守る中、まるで蛹から蝶へと羽化するように、白い羽根を広げ、鳥となって飛び立った。
行ってしまった。鳥カゴの天窓など存在しないもののように軽く飛び越えて、恋い焦がれた空へ向かって、翔んでいってしまった。ティルテュはやっぱり、知能を持たない化け物なんかではなかったのだ。
彼女は、ブレークの為に、自分が何をすべきか、どうすべか、きちんと理解していた。
恐らく彼女は二度と戻ってこないだろう。二度と、戻ることはないだろう。