Chapter5:鳥人間ティルテュ・ルゥにまつわる話(9)
ところが、ロビーに着いて来客用の待合いスペースをのぞいたところ、ビジネスマンらしき人たちが数人居るだけで、それらしい人物は見当たらない。
帰ったのかな、それならそれでありがたいのだが。
リラがきょろきょろとしていると、一人の男性がすっと立ち上がり、明らかにリラを目指して歩いてきた。ちょっと派手なストライプのシャツに高そうなジャケットを来た背の高い男だ。
彼は少し首を傾げるような仕草をしながら口を開いた。同時にリラも悲鳴に近い声で言った。
「ラ、ランサム・スミス……!?」
リラは慌てて自分の口をふさいだ。
「ええ、この間はどうも。スミスです。お礼をしなきゃと思って例のバーのマスターに聞いたら、さすがに住所は教えてくれなかったんだが、職場がここだと教えてくれて」
リラは目を疑った。声は確かにあの夜聞いた声と同じだった。
だけど、ぼさぼさだった髪をちょっと撫で付けて髭を綺麗に剃ってオフィスカジュアルを着せただけでこんなに人間変わるものなのか?
黒髪と、くっきりした眉と彫りの深い顔立ちは昔話に出てくるカルプソーあたりの王族みたい。
「今時間ある?」
「は、はいっ。今ちょうど、お昼休みをとろうと思ってたところだから」
「じゃーお昼、ご一緒しても構わない?」
もちろんリラは二つ返事で承知した。彼のその途方も無いギャップに、完全にノックアウトされていた。
この間とあまりに雰囲気が違うから全然分からなかったとリラが言うと、仕事柄“変装”には慣れているから、というよく分からない返事が返ってきた。
その言葉の本当の意味をリラが知るのはだいぶ後になってからのことで、リラは彼と付き合うようになってしばらく経ってから、ようやく本当に、本物のランサム・スミスは、あの夜リラが酒場で見かけたどうしようもない男の方で、リラのオフィスに颯爽と現われた“ランサム・スミス”の、ジャケットの着こなしとしゃべり方、仕草、立ち居振る舞い、その全てが“変装”だったと言うことを、嫌と言うほど思い知らされたのだった。
彼はリラが剃れと言わないといつも不精髭を生やしていたし、粗野だし下品だし、気紛れだし、口も悪かった。
彼はリラが見てきた世界とは、まるで違う世界に生きているみたいだった。
ランスはひと時もリラの傍らに留まって居てはくれない。いつも突然現われ、突然居なくなるのだった。いつもそう。夜半過ぎに連絡も無くふらりと現れて、翌朝もういないなんてことはしょっちゅうだった。そんな時、いつもいつも寂しがっていたりしたら、とてもやってはいられない。
だから、彼には期待をしない。現われたら現れたその時だけ、その時限りの恋をする。それ以上のことなど望まない、そう、割り切って付き合っていたはずなのに。
こんなに辛くなるなんて思いもしなかった。本当に彼が居なくなってしまった時、こんなにも辛くなるなんて。
せめて何か一言でも連絡を寄越してくれたらそれだけで気が済むのに。生きているのか死んでいるのかさえも分からない。むしろいっそ、彼は死んだと知らされた方がどんなにか楽だろう。
――ピリリリリ……
リラはびくりと体を震わせ、握っていた包丁を脇に放り出してメールボードへ向かう。
――ノーラ・シドン。
リラは肩を落とし、自分の過剰な反応を笑いながら友人のコールに応える。
“ハローリラ。今夜ヒマ?金曜の夜じゃん。ウェッジウッドまで出てこない?たまには飲もうよ”
リラは思わず微笑みながら、優しい友人に返事をした。
“ごめん、今日はちょっと体調悪くて。せっかく誘ってもらったのに申し訳ないんだけど、また今度、飲もう”
“そっかぁ。お大事に。早く、元気出しなね”
ノーラが自分を元気付けようとしてくれているのはよく分かった。
だけど、きっと彼女は、ランスが居なくなったことを肯定する。
あんな危なそうな男とは、早く別れた方がいいって前々から思ってたのよ。あんな奴のことなんてさっさと忘れて、早く次の恋人探しな。
そんなセリフを吐く友人の顔が目に浮かぶようだ。
リラにだってそんなこと、死ぬほど分かっている。身に染みて、分かっている。
だけど、今の自分にはまだ無理。現実を現実として受けとめて、理性的で合理的な判断を下せるほど、リラはまだランスから離れることが出来ていなかった。
今彼女と話をしたら、大ゲンカになるか、泣き喚いてしまうか、どっちかだろう。
「私って、こんなに弱い人間だったかな。」
いろんなことに思いをめぐらせていたら、どうしようもなく涙が込み上げてきた。
夕食を作ろうとしてたんだった。リラは再び台所へ戻ろうとした。その肩越しに、再びメールボードのコール音が響いた。
リラは慌てて振り返り、メールボードに表示された文字を見る。
ロジャー・ボガード――ロジャー?ランスとしばしば組んで仕事をしていた彼の仕事仲間だ。
なんてタイミングだろう。涙で滲むその文字を必死で追った。
“リラ、久しぶりだな。元気にしてたか?”
ロジャーの書き殴ったような汚い文字が躍る。
“朗報だ。ランスが見つかった。「アヴェンジャー」という組織で、“ブレーク”と言う名で仕事をしてるらしい。今、当のアヴェンジャー社から直接連絡があった”
「アヴェンジャー」。リラは何度もその文字を見返した。