Chapter5:鳥人間ティルテュ・ルゥにまつわる話(8)
――同じ頃。グリーン地区ウエステリア郊外のとある街。
一日の仕事を終え、帰宅する人の波の中に、リラ・マクミランの姿はあった。
彼女は、仕事に疲れ、どれだけくたくたになっていたとしても、家に入る前、ポストに手を突っ込んで注意深く中を探ることを忘れない。
そして家に入ると、メールボードにメッセージが残されていないかをチェックする。あるいは、朝も確認した新聞の社会面にもう一度目を通す。何か一言でも、ランスに関する言葉を見つけることが出来ないかと。
そして、落胆して、ストールを外し、外套を脱ぐ。
もう何度、こんなことを繰り返しているのだろう。
分かってる。ランスみたいな男を好きになった自分が悪いんだと。だいたい、ランサム・スミスなんて名前、本名かどうかも分からない。
ランスと出会ったのは、リラが行きつけの居酒屋のカウンターで一人飲んでいた時だった。今となってはもう随分昔のことのように感じる。
あの時、リラは前の彼氏に振られてひどい傷心で、イケメンのマスターに慰めてもらいながら浴びるほど飲んでいた。
そこに偶然ランスが居合わせたのだ。彼は仲間達とボックス席にたむろしてこちらもなかなかちゃんがらな飲み方をしていた。
うるさい集団だなぁと思ったことを覚えている。ランサム・スミスは、特に目立つわけでもなく、端の方の席で仲間達の話を混ぜ返しながら静かに飲んでいた。
もちろんリラも、初めはそれほど彼らに注意を払っていたわけではない。
リラがランスに注目することになったきっかけは、彼が閉店間際に一人取り残されていて、テーブルに突っ伏して眠りこけていたからだ。どうやら寝ている間に仲間に見捨てられてしまったらしい。
マスターが声を掛けると彼はむっくりと起き上がり、一言「気持ち悪い……」と言った。
リラが初めて見た彼の顔はなんというかそれはもう、“うげっ”て感じだった。
青白いグロッキーな顔色で、不精髭は伸び放題、油臭い香りが漂ってきそうな(自分も飲んでいたから気付かなかったが実際には強烈に酒臭かっただろう)つまり絶対に関わり合いになりたくない相手、という印象だった。
「その人大丈夫ー?私はそろそろ帰りますから、マスター頑張ってね。」
その時にはだいぶ酔いも覚めてきていたので、リラは割り合いきちんとした足取りで店を出た。
まだスカイウォーカーの最終便まで余裕のある時間だった。マスターに慰めてもらったお陰か、すっかり満ち足りていて、鼻歌でも歌いたい気分だった。
ところが、まだ店を出ていくらもしないうちに、
「ち、ちょっと、ちょっと待って……」
非常にまずいことに、絶対に関わり合いになりたくないと思った男がリラを呼び止めたのだった。
無視して逃げようかとも思ったが、一応立ち止まって相手の様子をうかがう。
「ああ、あの……駅ってどっちだっけ?」
ろれつの回らない舌で言われて、リラは思わず天を仰いだ。最悪。この人とステーションまでご一緒する羽目になるの?
「この道をまっすぐ行って、ええと、たしか州立銀行の建物を右に曲がったらもう見えますよ」
「州立……銀行?」
男は頭をぼりぼりかきながら聞き返す。
全く理解が出来ていない様子。そんなに難しいことは言っていないと思うんだけど。
「……私も駅まで行きますから、一緒に行きます?」
リラは少し自棄になって答えた。
「ああ、そりゃ有りがてぇ」
彼はふらふらしながら何度も頭を下げた。
駅までそう時間が掛かるわけでもない。ほんの5、6分ぐらいのものだろう。
しかしそう思ったのが甘かった。
歩きだすと男は気持ち悪い気持ち悪いと言い始めた。気持ち悪いならもうちょっとバーで休んでれば良かったのに。リラは心の中で突っ込みながら、無視してすたすたと歩いていた。
そして案の定、もうすぐ駅というところで我慢が出来なくなったらしく、側溝にうずくまってげーげーやっていた。
「ああもう、ほんっと最低。」
こっちまで気持ちが悪くなってくるではないか。
だが、グロッキーになっている相手を放っておくことも出来ないのが同じ酒飲みとしての心情と言うもの。リラはふらふらと戻ってきた彼にハンカチをかしてやった。
「それ、あげますから。もう駅ですよ」
「かたじけない……」
彼は土下座でもしそうな勢いで謝りつつハンカチを受け取った。
「じゃあ私、スカイウォーカー出ちゃうんで先行きますね。気を付けて帰ってください」
リラはこれでお役御免だとばかりにそそくさと立ち去ろうとした。
「ああちょっと……あんた、名前は?俺はランスだ。ランサム・スミスってんだ」
彼は義理堅くリラの名前を聞いた。
「リラです。リラ・マクミラン。」
「ああそうか、リラか。いやどうも、ありがとう」
「いいえ。」
リラは今度こそ解放されて、ほっとしてスカイウォーカーに乗り込んだ。
しかし面白かったのはその後だ。
ハンカチを貸した相手が律儀に返しに現われる、なんて三文小説みたいな展開がほんとにあるんだと思った。友人に言わせるとそれは完全にリラにもう一度会いたいがための口実だってことになるのだが、でもあの時ランスは完全に泥酔状態だったし、リラのことを覚えているなんて思いもしなかった。
だから、それから二週間が経った同じく金曜日のこと、ちょうどリラが昼休みに入ろうとしていた時に、内線ボードに急な呼び出しが入って、ランサム・スミスと言う客人が面会に来ていると言われて、リラはすぐにそれが誰のことだか思い出せなかった。
しばらくいろいろと考えを巡らせた結果、一人の人物に行き当たってものすごく慌てた。
あの男が仕事場に来るなんてありえない。と言うか、会社の人に知り合いだと思われたくない。
なんでよりによって昼日中こんなところに来るのよ。ウエステリアの中心街のお洒落な高層ビルに入ってる大手金融会社のオフィスなのよ、ここは!
“マクミランさん?”
思わず自分の思考に入り込んでいたリラを内線の相手が引き戻したので、仕方なくリラはボードに書き付けた。
“分かりました。すぐに行きますのでロビーで待って頂くよう言ってください。”
リラはため息を付きながら立ち上がった。もうすぐお昼にしようと思っていたところだし、仕方ないから少し出掛けてこよう。