Chapter3:弱虫ヴィンスの逃亡劇(6)
「utsukusii…」
傍らに座るヴィンスが何かを呟いた。その目線の先には、朝日に照らされた街並みが金色に輝きながらどこまでも広がっていた。
牧草地の向こうに突如現れた広大な市街。緑や青、パステルカラーの家々が立ち並ぶ。ブルー地区に入ったのだ。
「綺麗でしょう。パレットで、一番美しい街よ。」
非常事態でもなければ、最高の空中散歩だ。
「あなたはたいせつなひとがいますか?」
突然語る翻訳機の言葉に私はきょとんとしてしまった。
「大切な人……?」
大切な人……。
「そうねぇ」
私はそんなことを聞くヴィンスの態度に戸惑いながらも、紙に答えを書きつけた。
“居るわ。あなたがどういう意味で「大切な人」という言葉を使うのか分からないけど”
こんなことを、誰かに話すのは初めてのことだった。赤の他人という気安さ、しかも、筆談という気安さが、私の口を軽くした。
“これからどれだけ時がたってもずっと、ずっと、心の中から消えることはないだろう、「大切な人」であり続けるだろう、そういう人が、居るわ”
ふと、やわらかい髪の毛の感触が私の手にありありと蘇った。風変わりなタバコの匂い。骨ばった強い指に、そっけない銀の指輪。それに、キール。そういうものと一緒に、私の心の中に、居座り続けるのだろう。
――頬に冷たいものが走ったと思ったら、一筋涙がこぼれていた。
私は慌ててそれを拭った。
こんなときに、何を感傷に浸ってるんだ。
「いいことです。それは」
相変わらず無機質な翻訳機の言葉に、思わず苦笑してしまった。
「イイコトデス」
ヴィンスが繰り返す。
うん。
私はうなづいた。
まったく、変な男だ。
「お腹、すかない?」
私は圧縮バックの回路に手をかざし、圧縮収納されていた食料を取り出す。パレットの保存食の代表格、真っ黒なパレット大豆。
ヴィンスは突然現れた異世界の食べ物に目を丸くした。
紙袋に詰まった黒い豆を二人でぼりぼり食べる。
「意外にいけるでしょ?」
実は私はこの保存食がわりと好きなのだ。こういう非常時のために常備しているのに、小腹がすくとついついつまみ食いをしてしまう。
「ウマイウマイ…」
どうやらヴィンスの口にもあったようだ。相変わらず、よく食べる。
「食べたら少し休みなさい。あなたも昨日はあまり眠れてないでしょ?これから大変なんだから、体力温存しておいてもらわなくちゃね。」
私はメモに書いてヴィンスに渡した。
「運転手さん、マグノリアまで、あとどのぐらい?」
「ウィンターです、お客さん。セシオ・ウィンター。あなた、どのぐらい掛かるかも分からないで乗ったんですかい?」
ウィンターは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「最高速度でぶっとばして5、6時間ってとこですかね。昼にはおそらく着きますよ。」
「そんなに早く?」
もっと、一昼夜ぐらいかかるもんかと覚悟していたが。
「そりゃこちとら、空飛んでますからね。」
「それよりお客さん、」
ウィンターは少し声のトーンを落として続ける。
「サンドストーンに行くつもりなら、そっから先の方が大変ですよ。」
さすがに黒キャブとやら、我々の目的などお見通しというわけか。貿易港サンドストーンのことも、この男に聞けば分かるだろうか。
「まさかサンドストーンまで乗せてってくれるって言うの?」
「なにをバカな……」
期待を込めた私の問いは、軽い嘲笑であしらわれてしまった。
「お客さん、ほんとに何も知らないんですね。あすこへは、マジックの船じゃいけませんよ。」
マジックの船じゃいけない?
「……しかしあんたら、そんなんでサンドストーンに向かうなんて、悪いこと言わないからやめといた方が身のためだと思いますがね」
「そう言うなら教えて。どうしたらサンドストーンへ行けるの?」
「考えりゃ、分かるでしょうに……。マグノリアから、サンドストーンへの道は、貿易品の往復のためだけにあるんです。つまり、その道を通る車はどれも全部、政府の車か、もしくは政府の登録を受けた車だけ。登録されていない、目的の分からない車が走っていたら、一発でばれて、捕まっちまうって訳ですよ」
そうか……。政府はパレット全土の魔力量や魔圧を常に監視する技術を持っている。(それによりパレット全土に住む人々のマジックは常に監視されている。これはパレットに住む人の常識。)
マグノリア・サンドストーン間を通るのは、サンドストーンで取引される輸出品か輸入品のどちらかだけ。使われるマジックは、輸出入をする業者によるものだけのはず。だから、もしそれ以外の、政府の登録を受けていない車なんかがマジックを使って走っていたら、すぐにモグリだとバレてしまうのだ。
「じゃあ、もし密かにサンドストーンへ行きたいなら、政府の車をジャックするか、こっそり乗り込むかしかないってこと?」
「まぁ、そう言うことになりますね。もっとも……もう一つ手段はありますが」
ウィンターはもったいぶって言う。
「徒歩ですよ」
徒歩……!?
なるほど、マジックに頼らない方法なら、監視にも引っ掛からないってわけね。
これは、思っていた以上に大変な旅になりそうだ。
ヴィンスを逃がす上で敵に回すのはパレット政府そのもの。つまり、サンドストーンへ向かうって、敵の懐にまっすぐ飛び込むみたいなものなんだ。
「オマエの経験と実力から言っても、今回の件はオマエの手に負えるものじゃない」。
ネルスターの言葉が、じわじわと身に染みてきた。