Chapter3:弱虫ヴィンスの逃亡劇(3)
ところが、クラウドベリータンの自宅について、家の扉を開けようとした時だった。
「タスケテ……」
私はギョっとして振り返った。
振り返った先に、あの骨ばった怯えた顔があった。
ヴィンスはさっきと同じように、すがるように私の腕を掴む。
勘弁してよ……。
「あんた、まさか私の後をつけてきたの……?」
案外根性はあるみたいだ。即刻捕まって終わりかと思ったが。
「アナタ、私、助ケタ。アナタ、助ケテ!」
男は慣れない言葉で、懸命に訴える。
「静かにして。ご近所さんに怪しまれるでしょ。」
間もなく夜も更ける。
私はまたしても、同情心を動かされてしまった。
「しかたない……。今夜一晩だけよ。他に隠れられそうなツテ、探してあげるから、明日には出てってよね。」
私の言ったことが理解できたとは思えないが、男は心底安心した顔をして私のアパートへ上がりこんだ。
私がひとまずリビングのソファに座らせると、彼はいそいそと背負っていた茶色いナップザックから薄っぺらい板を取り出した。
「?」
彼はパカっと二つ折りのカードみたいな板を開けた。下側にはボタンがずらりと並び、上には何らかの文字が表示された画面がある。
「なにそれ?なんかいかにも“外文化”って感じ!」
“携帯電話”とか、““パーソナルコンピュータ”とか言うものだろうか??
――私がなんでそんなものを知ってるかって?
実は私、外文化モノのちょっとしたマニアなのだ。
アヴェンジャーの外文化研究所には外国の本がたくさんある。一般の人間にはほとんどお目にかかる機会のない代物だが、とにかく、マジで面白いのだ。私は暇を見ては研究所に入り浸り、色々な本を読み漁っていた。
さらに言うと、洋書を原典で読めるようになりたいと思ってちょっとだけ英語の勉強もしたことがあるので、英語についても普通の人よりは少し分かる。結局、難しすぎて諦めたんだけど。
「はじめまして!」
えっ!喋った!?
メールボードみたいなその物体が、無機質な声を放った。
ヴィンスはパタパタとすごい速さで指を動かし、ボタンを押しまくる。
「ほんやく」
また、ボードが喋った。
ホンヤク?
「つまり、それが、翻訳するってこと!?」
ヴィンスが得意げににやりと笑った。
「わたしはゔぃんすです。ともだちになってください。」
「はは……あははははは……!」
なんだか分からないけど笑いが込み上げた。
これが「科学」の力?
すごい。ぶっ飛んでる!!
「そっか、じゃあ、私は紙に書くわね。」
私はノートとペンを持ってきた。
ヴィンスは私が書いた文章を翻訳機に打ち込んで訳す。
こうして、私たちはヴィンスのぶっ飛んだ機械の力を借りて、書いたり、打ち込んだり、喋らせたり、苦心惨憺しながらどうにか意思疎通をした。
そば粉がたくさんあったので、卵とベーコンと野菜を適当に突っ込んで、ガレットを焼いた。
「パレットの料理は、口に合うかしら?」
ヴィンスはウマイウマイと喜んで、パクパクと何枚も平らげた。
「あなた、こいびとはいますか?」
唐突に投げかけられたその問いに、私は言葉を詰まらせた。
突然何を言い出すんだこいつは。
これは、居ると言っておいた方が「安全」だろうか。
しかし、その害のなさそうな目を見て、私は正直に答えた。
「ノーよ。いないわ。」
ふむ……と、うつむいたヴィンスは、パチパチと翻訳機をはじいて、言葉をつむいだ。
「わたしにはこいびとがいます。くににいます。」
「ずっとあっていません。あいたいです……」
ヴィンスは子どものように膝を抱えてうつむいた。
「さみしいです……かえりたいです……」
さみしいです……
かえりたいです……
機械の声を真似て、繰り返すヴィンスの声が、なんとも切なかった。
その夜わたしは、ネルスターにSOSを出した。
メールボードのネルスターのアドレスにコールを入れる。
しばらくして、メールボードがぴかぴかっと光り、ネルスターが応答したことを合図した。
「密出国の出来る港と業者を紹介して欲しいんだけど」
やはり、こんな時頼れるのは相棒のネルスターぐらいのものなのだった。アイツならきっと、そういう裏の業者との繋がりもあるだろう。
「ミルティから話は聞いてる。今回はやめとけ。勝手に動いたことが知れたら、お前確実にクビだぞ」
私の記入した文字が消え去り、代わりにネルスターのさらりとした筆跡が浮かび上がる。
話は聞いてるって……?
さっきの今だぞ?どんだけ情報が速いんだ。
私はすかさずメールボードに走り書きをした。
「分かってる。でも、放っとけないじゃない。せめて、密出国する手立てを紹介してやるぐらいのことはしてあげたいのよ」
あいたいです……さみしいです……
その言葉が、私の心の奥の、あるデリケートな部分に突き刺さっていた。
私がこの男を見捨てるのか……?
「オレは絶対、手は貸さないからな」
返ってきた言葉は冷たいものだった。
分かっていたはずだ。
彼のアヴェンジャーへの忠義心はちょっと尋常じゃないところがある。
ネルスターにとって、アヴェンジャーの社長であるミルティの言葉は「絶対」だった。
肩を落として振り返ると、お腹がいっぱいになったヴィンスは床に転がって無防備な寝顔をさらしていた。
よっぽど疲れていたのだろう。
今日会ったばかりの私を、ここまで信用してしまうなんて。この人、大丈夫かなぁ……
私は、男の行く末を心配しながら、その頼りなげな肩に毛布を掛けてやった。
そんな私に、追い討ちをかけるようにネルスターのメールが舞い込んだ。
「変な気を起こすなよ。オマエの経験と実力から言っても、今回の件はオマエの手に負えるものじゃない。中途半端に手を出すぐらいなら、初めから何もしない方が賢明だぞ」
ネルスターの走り書きが、私の甘さを痛烈に突いた。