Chapter1:プロナの大迷宮〈シエナとミカヤ(3)〉
それから数ヶ月後のこと。
シエナは、放課後、街へ買出しに行き、大きな紙袋を持って家路を辿っていた。
夕暮れから細かい雨が降って、空いた方の手は傘を差していた。
薄暗くて、さみしい帰り道だった。
ライトフォーリッジの街を抜けて、街外れの淋しい路地に差し掛かった頃、辻に生えた大きな木の下に、男の子が一人立っていた。傘も差さずに。
「ミカヤ…!どうしたのこんなところで?」
シエナは危うく片手に持った荷物を取り落としそうになりながら、彼に駆け寄った。
ミカヤは服を泥だらけにして、治りかかった頬にまた新しい向こう傷をこしらえていた。
「いや、…ちょっと迷っちゃってさ」
彼はシエナの顔を見るなり、気まずそうに、誤魔化すようにそう言って、逃げるようにその場を去ろうとした。
「待って…!」
迷った、って、ミカヤがどうしてこんなところで迷うんだ、ミカヤの家もバーもまるで逆方面。明らかに彼はここで待っていたのだ。
「ほら、濡れてしまうよ。」
シエナは傘を差し出して、ミカヤを入れてやった。
ここしばらくでミカヤは急に背丈が伸びていた。シエナはだいぶ手を伸ばさないと、彼を入れてやれなかった。
「ごめん、オレ持つよ。」
ミカヤは傘を受け取り、ついでに「大丈夫だから」と断ろうとするシエナから買出しの袋まで取り上げた。
二人はお互い何も言わないまま、霧のような薄暗い雨の中を黙って歩いた。
シエナはそっとその横顔を盗み見た。服も髪も湿って、頬にしずくがしたたっていたが、シエナにはそれが、雨のしずくだけではない気がした。
「また、ケンカ?」
「うん」ミカヤは短く答えた。
「イタンって…なんなんだよ。オレは、なんにも悪くないのに…」
その一言に、彼の思いの全てが詰まっている気がした。
シエナには彼の気持ちがよく分かった。
きっと彼はこれまで、彼がイタンの出だからというだけの理由で不当な差別を受けてきたのだろう。
そして、真っ直ぐな彼は、そのたびにその不当さに真正面からぶつかってきたのだろう。
シエナはいた堪らなくなった。いつも平気そうな顔をしているけど、両親もなくて、たった一人で、辛くないわけがない。
ロンは、シエナがどろどろの男の子を連れて帰って、驚いている様子だったが、彼がミカヤ・ファーレンだと言うと、納得して快く迎えてくれた。
シエナはとりあえずミカヤを風呂に押し込んで、ロンのクローゼットから、適当な古着を引っ張り出しておいた。
今日は温かいシチューを作ろう、それで三人で、家族みたいな夕食をとろう。
「うわ、なんかいい匂いすんな!」
お風呂に入ってさっぱりした体に、ぶかぶかの古着を着て食卓に現れたミカヤは、もういつもの人懐こい笑顔に戻っていた。
シエナはほっとしたけれど、今ではその笑顔の裏に隠されたものを思わずには居られなかった。
「もうすぐ出来るから、ちょっと待ってね。こっちはおじさんのロン。昔私のお父さんの家庭教師をしていた先生なのだけど、小学校の時、私の両親が二人とも死んでしまって、それから私を育ててくれた人なの。」
両親が死んで、天涯孤独になってしまったシエナが唯一頼れるのはロンだけだった。
「シエナも、親いないんだ」
「うん。」シエナの場合は、たぶんミカヤとは少し違う理由だけれど。
「シエナから君の話はよく聞いているよ。自分と同じ仲間が出来て、嬉しいようだ。ほら、薬をあげよう。傷口に塗っておきなさい」
ロンは薬の入った瓶をミカヤに渡してやった。
「さぁ、シチューが出来ましたよー」
シエナは出来たばかりのシチューをみんなに配った。
「すげーシエナ、調理上手いのな」ミカヤが素直にほめてくれるので、なんだか誇らしかった。
「ミカヤは普段、ご飯はどうしているの?」
「ほとんどバーで食べてる。最近はオレ、自分で作るんだぜ。店長に教えてもらって。面白い食材がたくさんあるから、楽しいんだ」
「へぇ…それじゃあきっと、ミカヤのほうが上手でしょうね」
「いや、オレはこんな、上手くシチューたけないよ」
ミカヤはそう言いながら、どんどん食べる。シエナは目を丸くしながら、どんどんおかわりをあげた。
食事の後、シエナはミカヤをつれて、図書室の重い扉を開けた。
「すげぇ…こんなに、こんなに本があるんだ。」
ミカヤは目を丸くした。
小さなホールぐらいある吹き抜けのフロアの壁は、天井から床までが全て本で埋め尽くされているし、巨大な螺旋階段から上へ上がると、2階にもフロアがある。中二階には、小さなラウンジもある。
シエナの住む家は、その大部分が図書室である。
「あれ、でもこれ…変だな。」ミカヤは書棚に収まった本を手にとって不思議そうにしている。
「ここにある本のほとんどが、“禁書”の指定を受けているからね。一般の人が中身を見られる本はごく一部だけ。」
古代魔法に関する情報は、公開が禁じられている。“禁書”には、マジックによる封印がされているから、許可を得たもの以外には紐解くことができない。
パレット政府は“禁書”の危険さを感じながらも、その重要性もまた認めている。だから、こうしてライトフォーリッジの図書も、焚書にされることなく、全てこうして保存を許されている。
「座って。」シエナはミカヤを中二階のラウンジに座らせ、紅茶を出した。
「ここにある本だけでも、たくさんの魔法が記録されているの。こんなにたくさんの魔法、いったいどこに消えてしまったのかな。私には、何よりそれが悲しい。」
昔、世界にはもっとたくさんいろいろな種類の魔法があって、魔法使いはみんな、それを自由に使っていたのだ。
だけど、シエナやミカヤの親達が、小さい頃にあったパレット全土を巻き込む大きな戦争の時、そうした魔法やその使い手たちは戦争の原因となった咎を負って、封じられてしまった。それが今で言う、“イタン”。
「ミカヤは、ずっと一人なの?」
「ううん、中学に入った時に家をでたんだ。6つの時、親が政府に捕まって、そんでオレは母親の妹夫婦に預けられたんだ。母方はそういうの、まったく関係なかったからさ。でも、…迷惑じゃん?イタンの子なんかがいたら、世間的にもなんとなく。」
シエナは心が痛んだ。ミカヤはずっと、肩身の狭い思いをしながら生きて来たのだろう。
そんなシエナの心のうちが表情に出ていたのか、ミカヤは笑って首を振った。
「いや別に、それでなんか言われていじめられたとかではないよ。叔父さんも叔母さんもすげー良い人たちだったし。…でも、だからよけいかな。絵に描いたような幸せな家庭に、いきなりイタンの子押し付けられて、…なんかそれが申し訳ないと言うか」
淡々と話すミカヤの、まだ幼さの残る頬が切なくてならなかった。
雨は降り続けていた。ラウンジのガラス窓を滝のように雨粒が流れ落ちて、二人は水の中に閉じ込められたようだった。
その日を境に、ミカヤはしばしばシエナの家を訪れるようになった。
ロンも、ミカヤのことをとても気に掛けていて、出来るだけ可愛がってやった。
シエナとミカヤはしばしば図書室のラウンジで、紅茶を片手に夜半過ぎまで語り合った。イタンについて、学校のこと、ミカヤのバーでのこと。話題は尽きなかった。
しばしばラウンジの机に突っ伏して眠り込んでしまった二人を、呆れ顔で眺めながら、布団を掛けてやるのは、ロンの役目だった。