Chapter1:プロナの大迷宮〈シエナとミカヤ(2)〉
シエナは青年が渡してくれたカードを見ながら、ライトフォーリッジの中心街まで歩いた。
まだ日暮れ前だし、ここまで来たら何が何でもミカヤに会ってから帰ろう。シエナはそんな気分になって、バーまで果敢にも押しかけた。
小さなダイニングバーだった。料理を食べながら、ゆっくり酒を楽しむ。そんな雰囲気だ。
ミカヤは忙しそうに料理を客へ運んでいた。その顔にいくつも張られた白い絆創膏が痛々しかった。
シエナは自分があまりに場違いに感じられて、どぎまぎしながら入り口に突っ立っていた。
店長らしい中年の男が、それを見咎めて言った。
「いらっしゃい、ミカヤのガールフレンド?」
「え…、いえ、あの…」
突然そんなことを言われて答えに窮しているうちに、
「おい、ミカヤ!またガールフレンドが来たぜ!」
彼は、慣れた口調でミカヤを呼んだ。
「え、だれって?」
ミカヤはきょとんとしてこちらを見た。
シエナは自分の顔が耳まで真っ赤になっていることだろうと思った。
恥ずかしさと居心地の悪さに、今にも泣き出しそうだった。
きっとこんなことは日常茶飯事で、ミカヤにはきっと綺麗なガールフレンドがたくさんいるのだろう。でもシエナは、ミカヤとほとんど口を聞いたこともない、ただのクラスメイトだ。
「シエナ、…なんで?」
ミカヤは目を丸くしながらこちらへ歩いてきた。
「ご、ごめんなさい。私、…かえるね」
シエナはすっかり心が萎えてしまい、回れ右してその場を立ち去ろうとした。
「店長ごめん…ちょっと抜ける!」
ミカヤは先ほどの男にそう言って、シエナの手を取った。
「ここ、うるさいからさ。…こっち」
ミカヤはそのままシエナを店の奥へと連れて行った。
厨房の奥は小さな倉庫のようなスペースになっていた、なるほど、ここなら静かだ。
「私、先生からあなたの家を聞いて、…でも、いなかったから、お隣の方がここのことを教えてくれて…。心配だったの。この間、ひどい怪我だったし。学校にも来ないから。」
シエナは弁解するように一息に言った。
「ああ、そうか。あの時はごめん、こっちも頭に血、上ってたからさ。でも、…まぁあんなのしょっちゅうなんだよ。オレ、ケンカっぱやいしさ。そんな、心配いらないよ。」
彼は口元に笑みを結んだ。
肩をいからせ、口元に血を滲ませていた、切れるような目つきをしたあの時の少年とは全く違うミカヤがそこに居た。
シエナは心がやっと落ち着くのを感じた。
それで、勢いに乗ってあんなことを言ってしまったんだろうと思う。
「ミカヤ…あなた、“イタン”でしょう。」
途端に、ミカヤの黒い瞳が暗い光を帯びた。
「なに…センセーに聞いたの?お前、クラス委員だからオレの様子見て来いって?頼まれたわけ?」
「違う、そんなんじゃない。」シエナは必死で否定した。
「私も“イタン”なの。だから、分かったの。」
ミカヤはシエナの言葉に、驚いたように目を見開いた。
そう、シエナもまた“イタン”だから、だからあの時直感で分かったのだ。ミカヤも同じだと。
「そうか、それで…」
ミカヤはシエナの言葉を頭の中で咀嚼するように、しばらく沈黙していた。
「ありがとう。でも、心配はいらないよ。オレはオレなりに、そのことにケリをつけてるし。上級生とのケンカだって、…遊びみたいなもんだ」
彼は不自然なぐらい強い口調でそう言った。
「シエナがイタンだなんて思いもしなかった。優等生って感じだし。…お前は、うまくやってるんだな。」
うまくやってなんていない。シエナができるだけ善い子にしているのは、自分がイタンの出であるという負い目だあるからに他ならない。
「おーい、ミカヤ!いつまでイチャイチャしてんだ?」店長が大声でミカヤを呼んだ。
シエナははっとした。
「ご、ごめんなさい。遅くなるから、私帰らなくちゃ」
「うん。…ごめん、何も構えなくて、なんか食べてく?」ミカヤは気を取り直したように言った。
「ううん、家の人が心配するから。もし、…もし何かあったら、うちに、ライトフォーリッジの図書へ来て。ミカヤと話したいこと、たくさんある。」
思い切ってそう言ったシエナの言葉に、ミカヤは頷いた。
「今日は、ほんと、わざわざありがとう。」
シエナは彼の何かの力になればと思って彼を訪ねたのだが、ミカヤに話をしたかったのは、シエナの方だったのかもしれない。
その証拠に、その夜、夕食を採りながら、シエナはたった一人の家族である、育ての親のロンに、ミカヤの話をたくさんした。
「同じクラスに、“イタン”の子がいたの。ミカヤ・ファーレンと言ってね、とても綺麗な黒い目をした男の子なんです。でも…たった一人で暮らしているの。街の小さな安アパートを借りて。バーで働きながら。」
「そうか…きっと苦労しているんだろう。仲良くしてやりなさい」
ロンはシエナの向かいに座ってスプーンを動かしながら、だが…と言葉を継いだ。
「イタンという言葉を軽々しく使うべきではないよ。イタンなどと言うものは、本来存在しないものなんだよ。政府が勝手に作り上げたものだ。それに、世の中はもう、イタンを忘れ始めている。シエナだって、そんなもの、気にすることなく普通に生きていくべきなんだよ。」
「そうかな…」
シエナは13歳ながら、いや、むしろ思春期にある抵抗から、ロンの言葉に承服できないものを感じた。
忘れ去られてしまっていいのだろうか、たしかに過去、このライトフォーリッジに存在した、旧い魔法の枝葉のことを。それらが密かに葬り去られてしまった事実を。
シエナは、そういったもの、自分の中にわだかまる気持ちを、偶然見つけたイタンの仲間と共有したかった。
翌日、ミカヤは何もなかったような顔をして登校してきた。
ミカヤはシエナを見るとおはよう、と軽く挨拶をしたけれど、お互いそれだけだった。
いつもと変わらない日常。
ミカヤはシエナから少し離れた窓際の席に座って、屈託無く男の子達と笑いあっている。
「あ、今日はミカヤ、来てるんだー」
「なんで休んでたんだろ。いっつも、ほんとにただサボってるだけなのかな?」
「へ?」シエナは友人たちの言葉に、思わず変な声を出してしまった。
「なんかさ、ミカヤって、影がありそうって言うか、暗い過去を背負ってそうだよねー」
「うんうん、両親いないらしいし」
「そういうとこが、なんかいいよねー」
女の子たちは好き勝手に、そんなことを言い合う。
今までは彼のことをまったく気にしていなかったから気づかなかっただけで、クラスの子達は意外にミカヤのことを気にしているし、実際わりと人気があった。
再びクラスの中で見るミカヤは、あの日校舎の影で殴られていたことが嘘のように、普通の男の子だった。こんなふうに、女の子達に勝手に想像を膨らませられていることも。
みんな別に、ミカヤがイタンだなんてこと知らないし、そんなこと気にもしていない。
今の世の中、よほどのことがない限り、イタンという言葉が人々の口にのぼることはまずない。たしかに人々は、もはやイタンのことなど忘れ去ろうとしている。
でも、私たちはけしてそれを忘れないし、ミカヤを殴っていた生徒たちのように、いまだに差別を口にする人もいる。
「なに、シエナぼーっとして、恋煩いってやつ?」
「ち、ちがうよ。」シエナは慌てて首を振った。
そうやって、相変わらずミカヤは学校に来たり来なかったり、たまにかすり傷を作ったりして、シエナは少し離れた席からその姿を見ているだけだった。