Chapter1:プロナの大迷宮〈シエナとミカヤ(1)〉
リン…リン…。ドアベルの音が聞こえる。シエナは書物から目を上げ、耳を済ませた。
「ロン…?お客ですか?」
こんな時間に訪問者とは珍しい。塾の生徒達もみんな帰ったはずだ。
「ロン…?いないの?」
シエナは立ち上がり、たった一人の家族の名を呼びながら一階のホールへの階段を降りた。
「誰か…」
シエナは言いかけた口を思わずつぐんだ。
彼はちょうど、図書室の玄関からホールへと足を踏み入れたところだった。
「ミカヤ…」
涼しげな黒い瞳とおそろいの真っ黒な髪と、少しはにかんだような口元。まるで過去が蘇ったかのような錯覚を覚えた。
だが、彼がここを去った時、短く切りそろえていた黒髪は伸び、こげ茶のジャケットの襟には、パレットの紋章のついたピン。ミカヤは、自分の言葉の通り、政府の研究者になったのだ。
「久しぶり、シエナ」
国家試験を受けて、政府公認の考古学者になる。
そう言っていた鼻っ柱の強い少年の面影はそこにはなかった。落ち着いた眼差しとやわらかな物腰。彼がここを出てからの四年の月日は、確実に二人の間を流れていた。
ミカヤ・ファーレンと知り合ったのは、シエナが13歳、中学2年の年だった。
ミカヤは学校でも札付きの問題児だったから、間接的には知っていたのだが、2年のクラス替えで同じクラスになるまで、直接干渉を持ったことはなかった。
シエナははじめ、ミカヤに対して正直怖いイメージを持っていたのだが、同級になって、彼が意外にもクラスによく馴染み、むしろ明るく闊達で社交的なのを知り、彼へのイメージはがらりと変わった。
だが、彼はあまり学校に来なかった。
そろそろ衣替えと思っていた頃だから…五月ごろだったろうか。
シエナはその日、クラス担任に頼まれて、放課後教室に残ってクラスの宿題のチェックをやらされていた。
学級委員で、しかもクラス一の優等生だったシエナは、教師にも頼られるような存在で、しばしば雑用を任されていた。頼まれると断れないシエナだった。
ようやく雑用を済ませ、一人寂しく教室を出た頃には、もう太陽は傾き始めていた。
校庭にはベースボールやテニスをする生徒達の賑やかな声が飛び交っている。やわらかで、のどかな夕暮れだった。
シエナの家である「ライトフォーリッジの図書」へは、街へ向かう表門ではなく、その反対側にある裏門から学校を出る。シエナは、校庭からも外れた、あまり陽の差さないじめじめした裏門を通るのが嫌いだった。薄暗い校舎や、裏門の影に、何かが潜んでいるような気がして。
いつもは閑散とした裏門への通路が、その日はなんだか変だった。
シエナは耳を済ませた。低い声が、校舎の裏の方から聞こえてくる。
低く潜めているが、たしかに憎しみの感情が込められた声。
何を言っているのか聞き取ることはできないが、ののしり合っているようだ。シエナはぞっとした。
近づくべきではないと思いながら、シエナはどうしても無視して通り過ぎることができず、じりじりと声のする方へ歩み寄った。
裏門へ向かう通路からは直接見えない、シエナが先ほどまで居た校舎と横並びになっている隣の校舎の奥の方から、ののしり声は聞こえるようだった。
シエナは校舎により沿いながら、右へ折れるその角の向こうをうかがい見た。
うわっ、シエナは思わず声を上げそうになるのを必死でこらえた。
2年生か、もしくは3年生かもしれない。三人の大柄な少年たちに囲まれて、ののしられ、殴られていたのは、ミカヤ・ファーレンだった。
どうしよう…助けなければ。
先生を呼びに行こう!
だが、思いとは裏腹に、シエナは足がすくんで、その場を動けなかった。
「お前みたいなヤツが居ると、学校の品位が落ちるんだよ」
「この学校をどこだと思っている、天下の名門ウェッジウッド学院だぞ。お前みたいなドブネズミがどこから入り込んだのか知らないが、さっさと出て行け!」
声変わりの済んだ、大人の声をした少年の罵りが、低く低く響く。
やめて…!
シエナは声にならない声で叫びながら、思わず両手で耳を塞いでいた。
ところが、シエナが恐怖に震えているうちに、
ドッ、ドッ、ドッ…!
突然、今までにない破裂音のようなものが鳴り響き、それと一緒に少年たちが崩れ落ちるような物音が聞こえた。
シエナは何事かと、思わず校舎の影から顔を出して現場を見た。
吹き飛ばされるような形で仰向けに倒れている少年達を置き去りにして、一人こちらへ歩いてくるのはミカヤだった。
その、怒りに満ちた黒い切れ長の眼が、シエナの目を捉えた。思わず身を縮めたシエナに全く構うことなく、彼は黙々と歩いていった。切れた唇から流れ出す赤い血が、その口元を鮮やかに染めていた。
シエナは、緊張の糸が切れたように、すーっとその場にしゃがみこんでいた。
“イタン”だ…。シエナは直感した。
翌日も、翌々日も、ミカヤは学校に来なかった。
シエナは彼が喧嘩のことを知られたくなくて、傷が癒えるまで登校してこないでいるのではないかと思った。だから、あの日あったことも、教師には言えずにいた。
もしかして、彼がしばしば学校を休むのは、全てそのせいなのだろうか。
三日たってもミカヤが現れないのをみて、シエナはついに教師にミカヤの自宅をきいた。
「ミカヤに会いに行ってくれるのかい?彼は少し、問題のあるところがあるからね。ずっと学校にも来ていないし、…君が彼に気を掛けてくれるなら、こんなに心強いことはない。」
調子のいい教師は、優等生のシエナがミカヤの心配を焼いて、これ幸いと思っているらしかった。
「ミカヤには両親がいない。たった一人で暮らしているんだ。相談に乗ってもらえる家族がいないということは、中学2年生の男の子には、辛いことだと思う。ぜひ、彼の良い相談相手になってやってくれ。」
その放課後、シエナはミカヤの家を訪ねた。ミカヤは学生用の小さな安アパートに住んでいた。普通は遠方から来た高校生などが使うアパートだ。
ミカヤは本当に、たった一人でこんなところで暮らしているのか。
あんなことがあった後に、一人で彼を訪ねるのは怖かった。でも、訪ねてやれねばならない。自分が、彼を訪ねてやらねばならない。
シエナは意を決して呼び鈴を押した。
リーン。明るいベルの音が響く。しかし、ミカヤは出てこなかった。リーン…リーン…シエナは何度かベルを押した。
それでも彼は返事をしない。たまりかねて、シエナは戸を叩きながら彼を呼んだ。
「こんにちは!ミカヤ、いないんですか?クラスのシエナ・アルトゥです。この間はごめんなさい。怪我、大丈夫ですか?」
「なんだ、君、ミカヤに会いに来たのか?」
突然隣の扉が開いて、中から高校生らしい青年が顔をのぞかせた。
「え、ええ。ミカヤの、中学のクラスのもので…。」
「あいつなら、たぶん居ないよ。夜はたいていバーで働いてるからね」
「バーで?」
シエナは仰天した。ミカヤはまだ中学生なのに。
「ど、どこのバーですか?」シエナはおずおずと聞いた。
「行くの?…ちょっと待ってな。」
彼は親切にも、バーのカードを探し出し、シエナにくれた。
「前にあいつに誘われて行ったことがあるんだ。変な店じゃないから、安心していいよ」
「あ、ありがとうございます。」シエナは礼を言ってその場を離れた。
なるほど、ミカヤがなんとなく大人びて見えるのは、彼のような高校生や、バーの大人たちとつるんでいるからか。