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蜘蛛の糸

作者:
掲載日:2024/09/10

ええ、そうで御座います。

あの場所でなければいけなかったのです――

1.


やわらかな陽の光を浴びながら、お釈迦様がぶらぶらと歩いていらっしゃった時のことです。

ふと、お釈迦様は(はす)の花の咲き誇る池の底をお覗きになりました。


池の底は――地の獄へと続いております。


血の色をした沼を浮き沈みする亡者の中に一人の男を見つけて、お釈迦様はあることを思い出されました。


男の名は――犍陀多(かんだた)といいました。


2.


白い砂州(さす)の上に敷かれた(むしろ)に座っている姿を見る限り、普通の娘にしか見えぬ――


北町奉行である笹目(ささめ)仁右衛門(じんえもん)は、そんなことを考えていた。


もとより――気の進まぬ詮議(せんぎ)である。


被害は、尋常ではなかった。

多くの家財が、建物が、営みが、人命が――(うしな)われた。

もはや災いと言って良い大火を(もたら)したのが筵に座る娘であると頭では理解していても――


仁右衛門は何故か、鉛を呑んだような気分がしてならないのだった。


(しち)と申します――

筵に座る娘は、そう名を告げた。

やはり――普通の娘だ。


そんなことを考えながら、仁右衛門は努めて型通りに詮議を進めることにした。


年齢(とし)は、数えで十八になります――


いいえ、わたくしひとりで行ったことで御座(ござ)います――


わたくしが――火を付けました――


七の言葉を書き記す、筆が紙を擦る音が聞こえる。

その音でさえ、仁右衛門には現実離れしているように聞こえた。


この娘の――()()()()()()()()()


(くら)(あな)のような瞳で、淡々と答える娘に、仁右衛門は問うた――


何故――彼処(あそこ)に火を放ったのか。


娘は――少しだけ首を(かし)げた。


3.


生温(なまぬる)い血の池の中で浮き沈みしながら、犍陀多は己の生涯を思い出しておりました。


あの世界に()れた時から――罪を(いしずえ)にしていた。


親の(かお)さえ知らぬ――

俺は、ただ、生きて――


生きるための行いが、罪として(そし)られるものであることを知った時には、もう。


犍陀多は、後戻りできなくなっておりました。


殺し、奪い、焼き、盗み、逃げて、生きて――

生きるための行いが、罪だというならばしかたない。


俺はそれしか――

それしか知らぬ――


冥い孔のような瞳をした犍陀多の前に――


銀色に光る糸が垂れてきたのでした。


4.


何故と――(おお)せになりましたか――

娘は、どこか不思議そうに返した。


そうだ。

火を放った理由だ。

余程(よほど)理由(わけ)が――あったのであろう、と仁右衛門は問うた。


正確には、あってほしかったのだが――


わたくしは――

ただ、あの方にお()いしたかっただけで御座います。

火を放てば――あの方にお逢いできると――


空っぽだ――仁右衛門はそう感じた。


娘が懸想(けそう)した男に逢いたいがために火を放ったところまでは、事前の取り調べで聴いていた。

特異な理由ではあるが――理解できないことではない。


しかし――


しかし何故寺に火を放ったのだ――


重ねて問いながら、仁右衛門は自分が何に(こだわ)っているのか少しだけ判った気がした。


火を放った理由の――()()()()()()()()()


火を放つのならば、その方の屋敷でもよかろう。

あの寺には――その方が(おも)う男も居たというではないか――それならば、其奴(そやつ)もろとも燃えてしまうかもしれぬではないか。


しかし、火を放てば逃げて参りましょう――

さすれば、あの方にお逢いすることができます――

火を放つならば、己の屋敷にせよと仰せになるお気持ちは、解るのですが――


その方の家に火を放てとは申しておらぬ。

そもそも付け火などせぬ方がよいわ。

その方が、男に逢いたい一心で火を放ったところまでは解る。

いや――()からないが、(わか)る。


だが何故、寺でなくてはならなかったのだ――


あの――

寺には――

あの方が――


自問しながら中空を見つめる娘の瞳に、光が宿り始めるのを見て――


仁右衛門は背筋が冷えるのを感じていた。


5.


何故――()()()()()()


犍陀多は銀色の蜘蛛の糸を見ても、そう思うばかりでございました。


ここに堕ちる前の世界で助けた、ちっぽけな蜘蛛(くも)の事など犍陀多の記憶からすっかり消えておりました。


しかし――

しかしこの糸を登って行けば、この獄から逃げられるやもしれぬ――


犍陀多は細い蜘蛛の糸を掴むと、緩々(ゆるゆる)と登り始めました。


いいぞ――逃げられる――


犍陀多の瞳に光が宿り始めるのを、お釈迦様は(じっ)と見つめていらっしゃいました。


6.


いいえ、どこでもよかったわけでは――

だってあの寺には――

あの方に――

あの方が――


そう言ったまま硬直した娘を見つめながら、仁右衛門はかつて聴いた先達の言葉を思い出していた。


人は――

絶望によって歩みを止めるが――

希望があるならば何でもする――


胆に命じておけよ仁右衛門――

人の()には――


宿()()()()()()()()()()()()


ふふ


仁衛門は回想を止めた。

否、引き戻された――


ふふふ


――肌が、粟立(あわだ)つ。

何が――可笑(おか)しいのか。


仁右衛門の問いに、娘は淀みなく答えた。

瞳の光は強さを増した――ように見える。


お奉行さま――

ありがとうございます――

わたくしは――

自分で自分の気持ちが判っておりませんでした。


ええ、そうで御座います。

あの場所でなければいけなかったのです――

あの方が居る場所でなければならなかったのです――


だってわたくしは――


あの方が――


()()()()()()()()()()()()()()()()()()


仁右衛門は――

血の気が引くのを感じた。


7.


細い蜘蛛の糸を手繰(たぐ)る手に力が(みなぎ)り――

犍陀多は、少しずつ地の獄を抜け出しつつありました。


あの時と――同じだ。


あの家に――強盗(おし)に入った時。

あの男を――斬って殺した時。

あの屋敷に――火を放った時。

あのねぐらから――逃げた時。


どの瞬間も、希望に満ちていた。

今と同じように――


瞳を輝かせながら糸を登る犍陀多が、ふと下を見下ろした時――


その瞳に焦燥(あせり)の色が混じったのでした。


8.


どんな顔って――


言葉を失った仁右衛門と対称的に、娘はますます饒舌(じょうぜつ)になってゆく。


わたくしは――あの方がどんなお顔をされるか見たかったのです。


ふふ


火を放ったのが私とお判りになった時、どんなお顔をなさるか見たかったのです。


ふふふ


それでも――わたくしをお(ゆる)しになるかどうか――


もうよい、もう解った――

仁右衛門は動揺を気取(けど)られぬように言ったが、娘の瞳は愈々(いよいよ)輝きを増してゆく。


お奉行さま、さきほど何が可笑しいかお尋ねになられましたね――


わたくしは――わたくしの心が判りませんでした。

自分で自分が解らなかったのです。


なのにわたくしは――

わたくしの心があの方に届くと――


自分にもわからないモノが他人(ひと)に届くと、そんな風に考えていたと思うと――



()()()()()()



ふふ


ふふふふ


――詮議の記録は、ここで途切れている。


9.


犍陀多は、糸を伝って登ってくる亡者の群れに向かって怒鳴りました。


登ってくるんじゃあない――

この糸が、この糸は――


その時、お釈迦様は。

犍陀多の心を見て――

否、心が判別(わか)って――


蜘蛛の糸をプツリとお切りになりました。


再び地の獄に堕ちてゆく犍陀多の顔を見ながら、お釈迦様は少しだけ――


悲しそうなお顔をなさいました。


10.


刑場での七の様子を、仁右衛門は敢えて知らずに過ごそうとしていた。


しかし、人の口に戸は立てられぬ。

七の最後の様子は、噂として否応なしに仁右衛門の耳に入ってきた。


火炙(ひあぶ)りの業火に焼かれながら。


死んだように生きていた娘は――


()()()()()()()()()()()()()()()


11.


自分だけが助かろうとしたのならば――

お釈迦様は蜘蛛の糸を切らずにおくおつもりでございました。


それは、人が抱く当然の想いとお考えだったからでございます。


しかし、あの時――


犍陀多は、自ら蜘蛛の糸を切ろうとしたのでした。


そして思ったのです。


ここで俺が糸を切れば――彼奴等(あやつら)は。


()()()()()()()()()()()()()()()()――




底知れぬ人の心の邪悪さに触れたお釈迦様は――




それを()ぐにお忘れになると、またぶらぶらと極楽をお歩きになり始めました。



極楽では、もうすぐ昼になろうかという時のお話でございました。


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