episode.89 意思とは関係なく
「もしかして、元・剣のプリンス?」
徐々に迫り来る黒い人影、その正体を一番に察したのはミクニ。
人影を包み込むように存在していた黒いもやはやがて散り、ご明察とでも言うかのように中の存在が露わとなる。
正体はミクニが言った通り。
人影はまさに元・剣のプリンスであった。
右の手の内には太い愛剣があってそれは何ら珍しいことではないのだが、左手では黒いコンパクトを握っていてその点は不自然かつ珍しいことであった。
しかも左手からは黒いものが溢れている。
だからなおさら不審である。
「せーいかい!」
元・剣のプリンスはなぜか上機嫌。
「さすが元奴隷だけあるな、お馬鹿なミクニちゃん?」
「うるさいわね、黙って」
「はぁ? 偉そうな口利いてんじゃねえよ役立たずが」
ミクニと言葉を交わす時、一時的に不機嫌になったように調子を強めた元・剣のプリンスだったが、すぐにもとのご機嫌な彼へ戻る。
「まっ、今日は許してやる。俺機嫌いいからなあ」
それから彼は左手を前へ伸ばし手を完全に開いた。
クイーンのコンパクトとほぼ同じようなデザインの黒いコンパクトを皆に見せつける。
「コンパクト……?」
怪訝な顔をする森のプリンセス。
直後、すぐ近くにいた剣のプリンセスが叫ぶ。
「何なの!?」
剣のプリンセスは感情的になっていた。
「そんなものを見せて何のつもり!?」
「まぁそう騒ぐな可愛い娘」
「ふざけないで! あたしたちをどこまで貶めれば気が済むの!」
「はは、そんなことどうでもいい」
怒りに身を任せて突っ込んでいきそうになる剣のプリンセスを森のプリンセスは止めた。片腕を掴み、静かに首を横に振る――乗せられて出ていっては駄目、と。それによって剣のプリンセスは突進することはやめた。が、彼女の面に怒りと悔しさが滲んでいることに変わりはない。
「素敵なコンパクトだろ? 特注なんだ。負の感情を詰め込んで製造されたこれは俺たちを大幅に強化するーって話だぁ、面白いだろ」
くふふと笑ってから左手を閉じる。
それと同時に彼の背後から無数の黒い触手のようなものが発生、それらは一気にプリンセスプリンスらに向けて突き進む。
だが全員反応が間に合った。
それぞれ接近してきた触手を弾き防ぐ。
しかし元・剣のプリンスは余裕の色を唇に浮かべていて。触手を防がれても慌ても焦りもせず「ははは! まだまだだあ!」と叫んだ。すると空気が震動し、凄まじい勢いで吹きつける黒い水蒸気のようなものがプリンセスプリンスたちを襲う。
「ぴえええ! 何ですかこれぇーっ、ピリピリしますーっ!」
愛のプリンセスは赤茶の髪に覆われた頭を両手で押さえるようにしながら少し屈む。
「ったく、愛のガキ騒ぐな、耳がいてーよ」
付近の海のプリンスは腕を盾にするような格好をしながらも嫌みを発した。
剣のプリンセスを護るように植物で組まれた盾を出している森のプリンセスは、目を細めつつ、口を動かす。
「一対多よ、本気で勝てると思っているのかしらー」
ちなみに盾のプリンスはミクニを護るように盾を出している。
深い意味はないが反射的にそうしていたのである。
「そりゃ俺の力だけだったら無理かもなぁ。だ! が! 今の俺にはコンパクトがある。これは無数の人間から集めた負の感情だ、だから一人じゃねえんだよ!」
演劇でもしているかのようなわざとらしい調子で長文を発してから愛剣の先端を正面斜め上へと掲げる――すると、人間のような存在――細々とした敵が大勢現れる。
「それにほら、実際に味方もいっぱいいるんだ」
黒いものが吹きつけるのはそのまま、敵たちは一斉に襲いかかる。
そこからは剣のプリンセスが前に出る。
「もう! 鬱陶しいっ!」
彼女は迫る敵を次から次へと切り伏せていく。
「せいっ。とりゃあ。せいっ、はぁっ、ふぅっ!」
だが、その胸もとへ、元・剣のプリンスの剣先から出た漆黒の光線が向かってくる。
胸に光線を食らった剣のプリンセスは人の身長数人分くらいの距離を軽く飛ばされた。
「く、う……っ」
硬い地面で腰を打った彼女はすぐには立ち上がれない。
「今や俺は何だってできる」
黒い水蒸気のようなものが凄まじい勢いで吹きつけるのはまだ収まっていない。が、数がかなり多い敵たちと元・剣のプリンスに囲まれているプリンセスプリンスたちには、もうそんなことを気にしている余裕はなかった――否、正しくは、水蒸気攻撃は被害が小さいため気にしないことにした、と表現するべきかもしれない。
「今度こそ決着をつける!」
◆
窓の外は薄暗く、何か降ってきているようにも見える。
一般人もいるこの部屋はあれからは特に何も起こっていない。先ほどの一度の戦闘で扉一枚が壊れてしまったが人への被害はなかった。ここは安全だ。
私は深い意味はないがふらりと廊下へ出る。
その時、首から下げているコンパクトが強く光りだした。
「え……」
瞬間。
誰もいない廊下に金髪女性の姿を見た。
「どう、して」
唇が震える。
先代クイーン、母親、だろうか。
私自身確かな記憶は持っていないわけだが、そんな気がする。
『行きなさい』
半透明な彼女はすうと風一筋ようにこちらへ迫り、その身を私の身体へすり寄せる。
ガラス細工のような指で頬に触れられた。
『貴女は行くべき場所へ行かなくてはならない……クイーンとして』
幻のようなそれに、導かれるように、吸い込まれるように。
意思とは関係なく、私の足は動いた。




