episode.86 嫌じゃないですよ
「あのー……プリンスさん? どうしてさっきからこんな格好なんですか?」
私はまだ抱えられたままである。
周囲には誰もいないので変な目で見られる心配はない、が、彼の意図が掴めない。
「この格好の方が楽だろう」
「……それが理由ですか?」
「嫌なのか」
「べつにそういうわけでは。ただ、普通に隣にいるだけでも良いのでは、とは思いますけど」
嫌でないことは事実だ。だから抵抗はしない。逃れようともしない。個人的にはこのままでも構わない。ただ、なぜこんなことになったのかという疑問はあって。先ほどの質問は、その疑問を解消させるために尋ねてみた、というようなものである。
「嫌ならはっきり言ってほしい」
「いえ、嫌じゃないですよ」
目の前の彼は少し目を細め何か思い悩みでもしているかのように「そうか」とだけ発した。
その時、避難してきた一般人たちが寝ている部屋の方から、ぶええ、というような動物の鳴き声のような音が聞こえてくる。
声の主は愛のプリンセスだろう。
確か、彼女は一般人と同じ部屋の中で寝ていた気がする。
よく泣く彼女のことだから多分目覚めてしまって怖くなりでもしたのだろう。
「すみません、ちょっと様子見てきますね」
「……あぁ」
盾のプリンスから離れ、部屋の入り口である扉へ近づく。扉をほんの少しだけ開けたところで別の声が聞こえてきた。手を止める。扉を開けるのはまずそうだ、もう少し様子を窺う方が良いだろう。ひとまず扉の隙間から様子を確認しておくことにした。
泣き声の主はやはり愛のプリンセスだったみたいだ。
だが彼女が一人で泣いているのではない。
「びーびーうるせー! 黙れ!」
自ら作り出した桃色のふかふかの布の上に座って泣いている愛のプリンセスに乱暴な声をかけているのは短髪の男性。
「ぶええぇぇ、っぅぐ、ず、ずぶばぜ……っぐ、ぶええええ」
「夜中にぎゃーぎゃー騒ぐなボケ!」
短髪の男性が愛のプリンセスを殴ろうと振りかぶった、刹那。
男性の振りかぶった手を誰かが掴んだ。
「ボケはそっちだろ、ジジイ」
いつの間にか男性の背後に現れていたのは海のプリンスであった。
「よえーガキ殴んなよ。ちっさ」
海のプリンスは男性を見上げながら挑発的な表情を浮かべる。
感情的になっている人を刺激するとろくなことがなさそうな気がするのだが……。
「はぁ? チビは黙ってろ! 今この女と話してんだよ」
男性が言い返すと。
「話してる? 殴ろうとしてるの間違いじゃねえの?」
海のプリンスは挑発的な態度を崩さない。
が、男性の前を通り過ぎて愛のプリンセスの前まで進む。
「さっさと立てよ、外行くぞ」
「ぶぇ、え……?」
海のプリンスは愛のプリンセスの片腕を掴むと強制的に立たせた。
それから扉の方へ歩き出す。
こっちへ来そうだ、邪魔しないよう私は一旦隠れておくことにした。
「おい待てよ! 話はまだ終わってな――」
「暴力に訴えるやつとする話はねぇから黙ってろ」
男性が引き留めようとしても海のプリンスはさらりと言葉を返すだけ、二人はそのまま退室した。
で、海のプリンスと早速目が合ってしまう。
「見てたのかよ」
「はい……すみません、なんというか」
「いやべつにいいけどさ。見ていたなら助けてやれよ」
少し間を空け、彼は続ける。
「ま、雑魚クイーンには無理か」
いちいち表現が酷いが、間違いかというとそんなことはない。
「じゃ、俺はこれで。愛のガキは任せるからな」
「え」
「文句あるならさっさと言え」
「あ、いえ、文句はありません」
「そーか。じゃあよろしく」
海のプリンスは愛のプリンセスをこちらへ押しつけてきた。
そして彼は去っていく。
――かと思われたのだが。
「ぶみゅ」
愛のプリンセスは去っていこうとする海のプリンスの服の裾を指でつまんだ。
「待って……くだふゃい」
涙だらけの顔を真っ赤にした愛のプリンセスが発した。
「いっじょにびてぼぢび……でずうぅぅぅ……」
彼女は鼻水まで垂らす勢いだった。
「はぁ!? なぜに俺!?」
「ゆべびで……ごばいびゅべ……」
かなり聞き取りづらいが、怖い夢、だろうか。
「いっじょにいでぐだざい……」
「だ! か! ら! 何で俺なんだよ! クイーンがいるだろ!」
「おどごのびどがびいぃ……」
あれこれ言って去ろうとしている海のプリンスだったが、愛のプリンセスに泣いて引き留められてはさすがに無視はできなかったようで、結局彼は愛のプリンセスの近くに残ることを選んだ。
「これでいいのかよ」
今彼は愛のプリンセスに抱き締められている。もちろん恋愛感情があるわけではない。彼は抱き枕のような存在として使われているのだ。
「は、は、はいぃ……このままで、ぇ……お願い……しますー……」
泣き止んだ愛のプリンセスは彼を抱き締めているうちに段々落ち着いてきたようで、今はそこそこ聞き取れるような話し方になっている。
本人が言うには、昔の悪い夢をみていたそうだ。
その昔というのは彼女がまだ人間だった頃。
周囲から虐められていた時代の辛かった記憶が夢という形になって現れたようだ。
「愛のプリンセスさん……それは辛かったですね」
「フレレ……ごめんなさい、ですー……」
「いいんですよ。それより落ち着いて良かった、安心しました」
そこへ口を挟むのは海のプリンス。
「ったく、情けねーな。プリンセスだろ、そんなくらいで号泣するなよ」
「海プリさん……ちょっと心ないですー……」
「心ないも何も! 面倒みるとか無理なんだよ!」
「ほええ?」
「またそうやって分からねーフリする!」
そんなやり取りをする間も海のプリンスは愛のプリンセスにむぎゅむぎゅ抱き締められていた。
「悪夢だか何だか知らねーけど、そんなおかしなもんに負けんな」




