episode.51 行けるだろう
「何と、言おうか……よく、意味が」
時のプリンスは困惑していた。
少し手を貸そうとしただけなのに、突然複雑なことを言われたから。
「いつまで座っている? さっさと立たぬか、ほら」
女性は座ったまま口の中で先ほどかけられた言葉を繰り返す。
それによってプリンスはさらに混乱した。
「そう言いましたよね」
「確かに……それはそうだが……」
「この世に生まれて初めてかけられた言葉と同じです」
やや俯き気味で女性は何かを噛み締めているかのように瞼を閉じる。
一方プリンスはというと、何が何だかまったく理解が追いついていないらしく、脳内を大量の疑問符が飛び交っているような様子だ。
「すまぬが……その、意味が……」
「先ほどの方のことはご存知ですね」
「あの影のような……?」
「はい。あの方がこの命の生みの親、初めて世界を教えてくださった方。ですので、お慕いしていました」
女性は勝手に色々語るが一向に手を取ろうとしないので、プリンスももうさすがに差し出していた手を引っ込めた。
「生まれたばかりの頃、あの方も手を差し出してくださいました。そして、先ほどの貴方と同じことを言って、手を引いて、まだ知らなかった世界を見せてくださったのです」
過去のことを話す女性はとても澄んだ瞳をしていた。
それこそ、無機質さなんてどこかにいってしまったような。
「まるで別人だな」
「……嫌みですか?」
「いやべつに。そういうわけでは」
「そうですね、こんな話、貴方に聞かせるべきではなかった――どうかしていました」
女性は急に立ち上がった。
「今とても後悔しています」
両手で髪を整え、それから時のプリンスを睨む。
「勘違いしないでくださいね。こんなことを話したのは一瞬貴方に夢を重ねてしまったから、それだけです。単なるミスです。貴方を信頼しているわけではないですし、貴方に心を許したわけでもありませんので」
女性は強気な調子でそんなことを言ったが、明らかに、その発言自体が失敗だった――余計なことを言い過ぎている。
「ではこれで」
「再び拘束はせぬのか」
「しません。けれど、貴方一人ではここから脱出することは不可能です。変な気は起こさないようにしてください」
女性はくるりと身体の向きを変え、開いたままの扉の方へ歩き出す。そうして部屋から一歩出た位置まで足を進めると、そこで再び身体を反転させる。そして扉を閉めた。
「定めゆえ抗う――いいえ、私、は」
一人きりの廊下で呟いて。
それから彼女は歩き出した。
その後しばらく、女性には別の仕事が与えられていた。そのため、女性が時のプリンスと顔を合わせることはなかった。それまでは定期的に会っていた二人だが、その距離は少し離れて。二人の関わりは暫し停止することとなったのだった。
そんな中での、ある時。
時のプリンスが入れられている部屋の前を女性が偶然通りかかると、珍しく扉が開いていて――不思議に思った女性は、自分に割り振られた任務ではないものの、引き寄せられるようにそちらへ足を進めた。
「……っ!」
室内に入るや否や、女性は目を大きく開く。
床に倒れている時のプリンスが気を失っているようだったから。
女性は暫しその場に留まる。即座に座り込もうとして、しかし躊躇い、何をするでもない空白のような間の後に彼女はようやくしゃがみこんだ。
「一体何をしているのですか」
呆れているような調子で愛想なく言って、女性は時のプリンスの背に片腕を回す。
脱力した彼を仰向けにさせ、顔を覗き込むようにして様子を窺う。
「何かありましたか」
女性が一言投げると。
「……ん」
時のプリンスは小さな声をこぼし、それから意識を取り戻す。
彼の片手の指先が動いた。
「……ここ、は」
「敢えて尋ねることもありません、いつもの部屋です」
「そうか」
「扉が開いたままになっていました。何かあったのですか」
その時。
開いた扉の向こうには人影、それも多数。
「作戦は成功」
「想定通りの進行です」
青い髪と瞳、女性と似たような容姿の者たち。
「何なのですか?」
女性は時のプリンスを支えたままで目の前の者たちへ視線を向ける。
「貴女は感情を得た失敗作です」
「ここで処分することが決定しました」
わらわらと湧いてくる女性に似た姿の者たちは、徐々に女性とプリンスがいる方へ迫ってきた。双方の距離が徐々に詰まる。
「一体何なのですか……」
女性はただそうこぼすことしかできない。
プリンスは腕で支えて自力で座ることができるようになったが、状況はまだ呑み込めていないようで言葉を失っている。
「貴女は失敗作です、廃棄処分となります」
「こちらへ来なさい」
迫ってくる者たちは無表情で同じことを繰り返すばかり――それが恐ろしくなってか、女性はプリンスの背後に隠れた。
急に背後に回られたプリンスは困惑しているようだったが、拒否はせず。突然腰を上げると、迫り来る者たちが伸ばす腕を蹴り飛ばした。一番近くまで来ていた二人は後方へ飛ばされる。
そしてプリンスは振り返る。
「これで良いのか?」
女性はすぐには言葉を返せなかったが、一度だけ小さく頷いた。
「こやつらから逃れられれば良いのだな?」
女性はすぐには答えられなくて。
唇が震える。
だが、そのこと自体が答えになった。
「そうか。……承知した」
言って、プリンスは座り込んだままの女性の片手を掴む。
「……何……なのですか」
「立て」
「意味、が……」
「お主が言っておったろう、一人ではここから脱出することは不可能、と」
「あ……」
「どのみちお主も危なかろう、共に来い」
女性は恐る恐るながら手を掴み返した。
「……はい」
プリンスは女性の手を引いたまま直進、立ち塞がろうとする者は蹴散らす――そして部屋の外に出た。
「……どうするのですか」
「逃げる」
「え……」
「お主がいれば行けるだろう」




