主人公の身体
―――― 初めてのキスはレモン味。
そんなことを四十代の近所のおばちゃんが昔、言っていた気がする。
だが、わたしは言いたい。
そんな甘酸っぱい味が、人間の身体のどこから発生するのかと。
―――― 初めてのキスは凄く優しくて、彼に愛されてるって実感しました。
そんなことをクラスの誰かが数年前に言っていた覚えがある。
だが、あえて言おう。
そう言っていた彼女は、それから二ヶ月後に別れている、と。
―――― 初めてのキスは……、むにょっと妙に柔らかく、変に生温かくて……、正直、気持ち悪かった。
そんなことをとある二十代OLはどこか他人事のようにそう思った。
だから、はっきり言おう。
この行為のどこが良いの分からん、と!
「おい、こら」
わたしはゆっくり彼から離れながら、つい、ドスの利いた声を出してしまった。
「お?」
少しだけ戸惑った声が、間近で聞こえる。
「貴方、彼女がいるんですよね?」
先ほどはうっかり素が出てしまったが、本性を隠す程度に、できるだけ低い声のまま、相手を睨みつける。
「いるよ。でも、これは『アルズヴェール』が『ラシアレス』にしたものだろ? だから、オレとしては、セーフ……、いや、ノーカウントだ」
いや、その考え方ってどうなのか?
身体の問題はそうかもしれないが、精神の問題は違うよね?
それに、その言い方だと、当人の意識の問題で、この身体の本来の主たちのことは一切、考えてないよね?
ああ、でも、彼は本当にお子様なのだろう。
金髪美少女が挑発的な笑みを浮かべて、わたしを見ている。
俗に言う粋がったガキンチョってやつか。
でも、あまり考えなしに見える行動を平気でできる辺り、ちょっとばかり、タチが悪い。
だが、これで勝ったと思うなよ?
「気は済みましたか?」
わたしは張り倒したい衝動を抑えて、余裕の笑みを浮かべた。
こんなこと、大したことはない、とでも言うように。
彼の言う通り、この身体は「宮本陽菜」ではなく、「ラシアレス」なのだ。
だから、何の罪のない「アルズヴェール」の身体を攻撃するわけにはいかない。
―――― でも、この唇に残る感覚はわたしのもので……。
「お?」
「でも、このように短絡的な行動は出来れば今後、一切、止めていただきたいですね。貴方の言う通り確かに互いの身体は『ラシアレス』と『アルズヴェール』。自身のではなく、借り物に過ぎません。傷を付けてお返しするわけにはいかないでしょう?」
わたしは口を袖口で拭いながら、そう言った。
本来なら、ハンカチを使うべきなのだろうが、今は持っていないようだ。
デザインが可愛らしいけど、ポケットがない服はこれだから困るね。
「キズ……だと?」
「貴方は違うかもしれませんが、普通に考えれば、望まぬ相手とのキスなど、『傷』と言いますね。つまり、貴方は『ラシアレス』と『アルズヴェール』の両名を同時に傷付けたことになるのではないでしょうか?」
現実には、男女問わず、望まぬ相手と平気でキスできるような人種が一定数、存在することは知っている。
だけど、彼女たちはそうではない。
「すくみこ!」内での「みこ」たちは、神に仕えるために、とても大切に育てられた穢れなき存在だったはずだ。
どの「みこ」たちも、程度の差はあったけれど、神様から初めてキスされて、顔を赤らめるという描写があった。
どっかの二十代喪女と違って、本当に純朴だったのだ。
それをこんな形で互いにファーストキスを奪われるなんて可哀想じゃないか!
「乙女ゲームなら、この程度の百合要素はあるだろ?」
ここで空気の読めない発言。
正気か?この男。
そして、それはどんなエロゲーだ!?
仄かに百合に見えることはあっても、乙女ゲームにそこまで露骨な場面があれば、プレイヤーはドン引くわ!
女性が、百合な場面を見て興奮できるのは少数だ!
そして、わたしは小説などで読む分には大丈夫だけど、自分にそのケはない!
「わたしがやったゲームにそんなシーンはなかったと記憶しています。ああ、あなたがやるようなゲームには、殿方同士が同意なくいきなり口づけを交わすことがあったということですね?」
俗に言うBL要素ってやつだね。
乙女ゲームなら女性プレイヤーが多いから、そっちの方が需要はありそうだけど、ジャンルが変わってしまうから一歩間違えると宗教戦争に発展する可能性はある。
「あるわけねえだろ!? 気色悪い」
彼はその目を掻っ開く。
まあ、正常な男性なら、笑い話にならないようなBL要素って心底、嫌らしいからね。
この反応は正しいと思う。
「先ほどのあなたの行為と同じことでしょう? 男と女で傷の大きさを比較する気はありませんが、お分かりいただけたようなら、何よりです」
いや、絶対、女の方が傷はでかいけどな!?
特に初物に関しては、何故か武勇伝になる男とは違うからな?
でも、そんなことを言ったら、最近の若者は性差別だとか抜かすでしょう?
逃げ道は封じておかないとね?
「……悪かったよ」
だけど、わたしのドス黒い感情に気付かず、彼はどこか気まずそうにそう謝罪した。
ただ謝罪としては、目線を合わせず、頭をきちんと下げていない時点で、若干のマイナスと言わせていただこうか。
「確かにこの身体はオレの物じゃないもんな、『ラシアレス』」
おや?
思ったより、素直?
これは「粋がったガキンチョ」から、「粋がってるけどたまに素直なところもあるガキ」に称号を変えるべき?
いや、ちょっと長いか。
「行かないのか? 『ラシアレス』」
そう言って、今度は彼の方から手を差し出した。
これは、どうするのが正しいだろう?
彼のように無視をしたり、この手を振り払うのは簡単だけど、せっかく、少しだけ反省した後に歩み寄ってくれたのに、それの反応は大人気ないよね?
「ありがとう、『アルズヴェール』」
そう言って、わたしは素直にその手をとる。
すると、彼は一瞬だけきょとんとした顔をして……。
「疑わないんだな」
と、よく分からないことを言った。
「これは、歩み寄りではないのですか?」
差し伸べられた手を見ながらわたしはそう口にする。
この汐らしい態度から、「騙されたな、この馬鹿女が! 」ってタイプに切り替えられるほど、裏表があるような器用な男性にも見えないから、あまり疑うことは考えなかった。
「いや、女って言葉の裏を読もうとするだろ?」
「あなたの周囲は、見る目のない女性ばかりなのですね」
わたしが笑いながらそう言うと、彼は目を丸くする。
どうやら、それで痛い目を見たことがあるらしい。
裏表のなさそうで分かりやすいこの人の言動の裏を読んだ所で、そこに意味はないと思う。
頭を使う分だけ、女性側が疲れるだけだ。
そんなことを、天然タイプの彼氏を持った友人が、疲れた顔をしながら愚痴っていた。
「悪い男に騙されそうなタイプに言われてもなあ……」
どこか嬉しそうに、でも……、それを悟られまいとするかのように、別の方向を見ながら、彼はそう言う。
だから、「そんなことを言う貴方は『悪い女性』に騙されてそうですよね? 」と、うっかり口から出そうになった言葉をなんとか飲み込んだ。
この状況で、わざわざ喧嘩を売る必要などどこにもない。
「でも、良いや。さっきは本当に悪かった」
「いいえ。わたしにとっては大したことじゃありませんので」
確かに、初めてのキスではあったのだけど、あのまま、普通に「宮本 陽菜」として、生きていても、縁があったとは思えなかった。
相手の見た目が良かっただけマシだろう。
まあ、中身はともかく、外見は同性ってオチが付いてしまう辺り、どこかわたしらしくもある。
だけど……。
―――― この身体の本来の持ち主の意識が、今、この身体にないことを祈ろう。
その部分は大変、申し訳なく思う。
自分の油断によって、外見女性でも中身が男性に対して、隙を見せすぎた結果、この身体にとんでもないことをされてしまったのだから。
そして、「アルズヴェール」にゆっくりと手を引かれて、「ラシアレス」が部屋の中央に立つと同時に、わたしたちは、ここではないどこかに飛ばされたのである。
ここまでお読みいただきありがとうございました。