舞わない蝶《其の十》
薇瑜様が刺された日を境に、瑛庚様が皇帝として私の部屋へ訪れることはなくなった。
不幸中の幸い、傷口は内臓には達しておらず、薇瑜様は一命をとりとめた。だが本当に“一命をとりとめた”という表現が正しく未だに予断を許さない状況が続いているらしい。
そんな薇瑜様に瑛庚様は付きっ切りで看病しているのだという。
「何の心境の変化だろうね」
耀世様はあきれたようにそう言いながら、長椅子に横たわりお茶の入った杯を揺らした。そんな彼の横に座りながら私も珍しく彼と一緒にお茶を飲んでいた。
「捨て身の策が功をそうしたようでございますね」
「捨て身?」
耀世様は不思議そうに体を起こしながら、そう言った。
「おそらくリー様が逆上することも承知で、薇瑜様は煽られたのでしょう」
リー様が握っている刀が模造刀だと分かっていたとしても、あの場で彼女にかけるべき言葉ではなかった。 そしてそれは後宮の主である薇瑜様が知らないはずはない。
「何故そのようなことを……」
ひどく不思議そうに聞かれて私は、相手が耀世様だったことをにわかに思い出す。
「薇瑜様は瑛庚様のことを好きだからですよ」
「薇瑜が……?」
確かに非常に分かりにくい愛情表現ではある。そもそも薇瑜様は後宮を統べることを第一優先としており、瑛庚様の愛情を受けようとはしていなかった。
「私は恋愛に関しては疎いが、薇瑜から愛情を受けていると感じたことはないぞ」
「そうですね……。薇瑜様は見分けることができませんが、皇帝が二人いることをご存じです。その上で瑛庚様をお慕いになられているのでしょう」
「なるほど……」
私の言葉に納得した耀世様は、少しすると私に向き直り手をギュッと握りしめた。
「だが、これでそなたの皇后就任も手堅くなったな」
耀世様の嬉しそうな声に思わず首を傾げる。
「といいますと?」
「そなたが平民の出故に、皇后就任に難色を示す輩が多かったのだが、薇瑜の妹となれば身分も立場も申し分ないではないか」
「そのことですか……」
私が本当に薇瑜様の妹なのかは疑問だが、公の場でそう宣言されたことにより私は異国の姫君に一夜にしてなることとなった。これまで「従五品の宮女のくせに」と罵っていた周囲の宮女達が打って変わって「蓮香様」と呼ぶようになった。
「蓮香だって私のことを憎からず思ってくれているわけだろ?」
「そんなこと……」
「そんなことあるじゃないか。あの時、皇子に想い人がいると伝えるだけならば誰でもよかったはずではないか。なのにあえて私を選んだ。つまりそういうことだろ?」
「それは一番……」
一番近くにいたからと言いかけて私は言葉を飲み込む。確かにあの場で一番効果的な相手を選ぶとするならば“瑛庚様”だっただろう。皇帝から寵愛を受けていると知れば、皇子はより安心して帰国の途に就けただろう。
だが私は耀世様を選んでいた。
彼が皇帝だからという理由で、「好きにならない」と思い込んでいたのは確かだ。というより「好きになってはいけない」と心のどこかで思っていた。機織りをつづけられなくなるだけでなく、後宮のもめごとに首を突っ込むのが嫌だったからだ。
さらに瑛庚様の存在も大きかった気がする。耀世様を選ぶとなると瑛庚様は切り捨てなければいけなくなる。おそらく非常に厄介だろうと思っていたのだ。だが瑛庚様が薇瑜様を選ぶならば、その問題は解決することになる。
「好き……だからなのかもしれませんね」
私は自分の気持ちを確かめるようにそうつぶやくた。それは本当に小さな独り言だったが、耀世様は聞き逃すことなく私を勢いよく抱きしめた。
「私も大好きだ!」
それは子供のような愛の告白だったが、今の私達には一番ぴったりとくるやり取りのような気がした。
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