舞わない蝶《其の壱》
少しずつ温かくなってきた日の光を頬に受けながら、遠くから微かに聞こえてくる聞きなれない喧噪に耳を傾ける。一定期間音楽が流れると、少ししてワッと歓声があがる。この一刻の間、そんな不思議な喧噪が絶え間なく聞こえてくる。
「何か催しでもしているの?」
午後の日の光にウトウトしていた林杏は慌てて立ち上がって苦笑する。
「何のことですか?」
林杏は不思議そうに首を傾げた。どうやら彼女の耳にはあの喧噪は届いていないのかもしれない。
「舞の練習でもしているのかしら? そんな音、聞こえない?」
「来週、皇后陛下の兄上がいらっしゃるようです。その際に披露する舞を踊る宮女を選出しているようでございます」
林杏の代わりにそう答えてくれた依依の言葉に私は思わず耳を疑う。
「わざわざ遠国から!?」
薇瑜様は隣国の公主だった人物だ。ただその“隣国”は海を隔ててはるか遠くに存在する国でもある。関係性は非常によく数年に一度は皇帝に謁見しており、その際には貿易なども行っている。
陸路とは異なり海路は天候に左右されることもあり、必ずしも船が到着するとは限らない。どれほどの確率かというと毎年船を出しても確実にこの国に到着していないため、国交が数年に一度になってしまうほどだ。
「なんでも我が国との親交を深めるために側室様をお探しにいらしたようです」
「な、なるほど……」
対諸国との婚姻は政治的意味合いが非常に濃くなる。薇瑜様が我が国に皇后として入宮しているので、わが国からもそれ相応の身分の人間が相手国に輿入れするのは自然な流れだ。
しかし残念ながら瑛庚様のお子様の多くは結婚するには歳が足りない。そこで有力貴族の娘である后妃や宮女から側室を迎えようとしているのだろう。
「なんでも薇瑜様の兄上様は第三皇子であられるため、皇位継承権の順位は決して高くないのですが、国が運営をする歌劇場の支配人を務められていらっしゃるそうです」
「え~なんか思っていた皇子様と違うわ~」
心から残念そうにつぶやいた林杏の言葉に思わず苦笑する。どうやら彼女は薇瑜様の兄上に見初められる可能性を期待していたのだろう。
「確かに皇后様のような処遇は待ってないかもしれないけど、人によっては非常に魅力的な婚姻になるんじゃないかしら?」
「え? どういうことですか?」
私の説明の意図を分かりかねた様子で首を傾げる林杏に依依が深くため息をつく。しかし尚意味を理解しかねている林杏に私は助け船を出すことにした。
「歌劇場を運営する皇子が踊りを見て見初めるということは、その歌劇場で主演を張れるような踊り子ってことよ。多分、皇子も本当に側室が欲しいわけではないでしょ」
「異国の舞を踊る踊り子は歌劇場でも話題になるでしょうからね」
依依の推測に無言で頷いて同意する。
国が運営する歌劇場だからといって、演目によっては客が入らないこともあるだろう。皇子として運営を任されている以上、儲けることも視野に入れているはずだ。
「じゃあ、なおのことダメじゃないですか」
大きくため息をつく林杏に依依は再びため息をつく。依依の態度からすると、おそらく林杏はこの部屋以外でも四六時中この話をしていたのかもしれない。
「でも本当に異国の皇子様に見初められるって幸せかしら? 言語だって習慣だって価値観だって違う。二人が相思相愛でも結婚生活は前途多難じゃないかしらね」
「蓮香様は陛下からの寵愛が厚いから、そんなこと言えるんですよ。異国の人でもいいから私も誰かと恋したいな~」
別に私は恋などをしているわけではないのだが……と思いながらも、あえて否定することなく機織りを続けることにした。
それから数刻もしない頃だろう。「失礼いたします」という宮女の声が入口から投げかけられた。林杏に案内されて私の前へやってきたのは薇瑜様付きの宮女の一人だった。
「お仕事中、大変申し訳ございません。皇后様が火急の用事があるとのこと。蓮香様をお連れするように申し付かって参りました」
「皇后様が?」
噂をすればなんとやらだ。
「それでは耀世様にお伝えしに参ります」
依依がそう言って立ち上がる。薇瑜様から呼び出しがあった場合は、耀世様を呼ぶよう決められているが、それは必要ないと言わんばかりに使いの宮女は首を振る。
「皇后様の元には陛下と耀世様もご一緒でございます」
「直ぐ仕度を致します。何か必要な物はございますでしょうか?」
「はい。皇后様は舞の帯をお持ちくださるよう仰っていました」
「舞の帯?」
林杏は不思議そうに首を傾げる。私と異なり林杏は私が織った帯を一つ一つ覚えているわけではない。
「入宮した当初に織った帯よ。尚儀局の衣庫にあるから、小芳様にお願いして持ってきてちょうだい」
私がそういうと依依が無言で頷き、足早に部屋を出て行った。
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