遅れてくる毒
その日は吐き出した息が凍てつくような朝だったが、私の部屋では林杏らが忙しく駆け回っていた。
作業が始まったのは、まだ日が完全に登りきらない時刻からだった。陛下……燿世様が部屋で一緒に夕食を取りたいと言い出したため、その時間を作るために本来よりも早く作業を始めることにしたのだ。
「正直、困りますよね」
おもむろにそう言った林杏の言葉を依依が珍しく咎めない。おそらく口に出さないだけで、依依も似たような感情を抱いているのだろう。
「夜食を食べるぐらいなら、いいんですよ。私達の夕飯が豪華になりますからね。でも本格的な食事をされるとなると、私達が食べる時間は遅くなる、仕事は朝早くなる――いいことなしですよね」
燿世様、瑛庚様が私の部屋で夕食を食べるようになったのは、淑妃様の宮へ移ってからだった。寝室だけでなく居間、作業部屋(本来は宮女が寝泊まりする部屋だろう)もあるので、豪勢な食事を並べることができる食台を部屋に運び込むことができるからだ。
“皇帝”として燿世様が食事をするとなると、品数が増えるだけでなくそれを一品一品毒見してから提供されるため、夕方から始まっても数刻かかることもしばしばだ。
陛下達は「よかれ」と思って一緒に食事をしているのだろうが、私達からすると負担が増えるだけでしかない。だが流石に誰もそれを言い出すことができず、彼らには全く伝わっていないのだ。
「そもそも一度毒見したものを、わざわざ陛下の前で毒見するって、どうなんでしょうね? 陛下だって目の前で宮女が死んだら気分が悪いと思うんですよね」
皇帝が食べる料理は二度の毒見制が導入されている。一度目は調理担当によって別室で行われ、二度目は配膳した人間によって陛下の前で改めて行われる。毒を入れることができる可能性がある人間に毒見をさせる――という制度なのだ。
「蓮香様って、博識ですけど毒については詳しくないんですか?」
林杏の言いたいことは分からないでもない。おそらく毒見役を通すこと無く、私が匂いだけで毒を見抜けば「簡単だ」……いや「早く食べられるようになる」と言いたいのだろう。
「それなりに知識はあるけど、専門家ほどじゃないわ」
村で代々受け継いでいる秘伝の技を使って機織りをしているということもあり、ただの宮女だが私もまた毒殺される可能性もあると教えられてきた。だから手に入りやすい毒などは一通り教えてもらった。おそらく自分が食べているものに毒が入っていれば、気付くことも可能だろう。万が一毒を口にしてしまっても、何の毒かが分かれば適切な解毒をしてもらうことも可能だ。
だからと言って陛下達の命を保証できるほどの自信はないし、その責任を負いたいとも思わない。「毒が無い」と私が判断したものを食べて陛下達が死んだら、それこそ私は死罪が確定するだろう。そんな重責を任せられるぐらいならば、朝少しだけ早く起きた方がましだ。
「まぁ、毒見役が食べていない料理の残りを食べて、私が毒殺されたら嫌ですからね」
私の返答に大きく落胆した様子の林杏だが少しすると、そう言って諦めたように呟いた。
最低でも三十品以上に及ぶ皇帝の食事。小食な瑛庚様に至っては半分以上手をつけないということも多々ある。そこで残った料理を林杏がつまみ食いしているのは、隠しているつもりだろうが知っている。
彼女がつまみ食いをしているのは知らないが、陛下達がこの宮で夕食を食べるようになってから林杏の足音が少し重くなっているのだ。本人は気付いていないかもしれないが。
「林杏は毒の知識はないの?」
“甘いものは好き?”と聞くような自然な様子を装いそう聞いてみる。先日の薇瑜様の言葉が気になったのだ。
『あれは妾の子飼いでのぉ』
薇瑜様は非常に賢い方だ。もし本当に私に探りを入れるために林杏を私の元に送り込んでいるならば、絶対そのことを口にしないだろう。だが告白された時の薇瑜様からは「嘘」が感じられなかった。
もし林杏が本当に薇瑜様が送り込んだ宮女ならば、これまでの言動も分からなくもない。あえて無能な宮女を装っていたのだろう。
そして、もし本当に彼女が薇瑜様付きの人間ならば毒にだって、一定の知識を持ち合わせているに違いない、と思い訪ねてみたのだ。
「なんで私が知らなきゃいけないんですか~~」
しかし林杏から返ってきた答えは、そんな私の疑惑をあっさりと否定する。
「確かに実家は色々な物を扱う商家でしたけど、さすがに毒は扱っていませんでしたよ~~。まぁ、扱っていたとしても私は全然家業を手伝っていないんで知る由もありませんよ」
ケタケタとそう言って笑う彼女は本当に何も知らなそうだ。これが演技なのか……はたまた「無知な宮女」を装っているのか……。一度疑惑が芽生えるとそう簡単にそれが消えることはない。薇瑜様の言葉は遅効性の毒のようにジワジワと効いてくる。やはりあの人は敵に回してはいけないと改めて痛感させられた。
そんな思いを振り払うように私は小さく息を吐く。
これ以上、林杏を疑ってしまっては、薇瑜様の思惑に乗ってしまうことになる。林杏が明らかな敵意をむき出してこない以上、無視するのが一番だ。
「でも人間の体って上手くできているから、毒の知識がなくても異物はなかなか受け付けないものよ?」
私は機織りの作業を続けながら、林杏を安心させる。これ以上、自分と彼女の妄想により仕事が遅らせたくなかったのだ。
「え? どういうことですか?」
林杏は不思議そうにそう聞き返した。
「無味無臭の毒って少ないからね。毒が入った食べ物を食べたら、多くの人は吐き出しちゃうのよ。毎日、少量の毒を継続的に食べさせるとか、味が濃い料理に混ぜるとかしない限り林杏でも気付けるんじゃないかしら?」
「なるほど! じゃあ、注意して食べるようにします」
そう嬉しそうに言った林杏の横で依依は小さくため息をつく。
「林杏は何時もかき込むようにして食べているから無理じゃない?」
確かに、ここにいる宮女の中で誰よりも食べる速さが速いのは林杏だ。おそらく毒と気付く前に喉元を過ぎてしまうに違いない。
「ああああ。そうだった」
そう言って髪をかきむしった林杏に、その場にいた全員から自然と和やかな雰囲気の笑いがこぼれた。
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お待たせし申し訳ございません。
年内は…これが最後になりそうです。





