欲望の先にあるもの
「浩宇おっちゃんは、昔は馬のことになると周りが見えなくなっていたんだけどね~。おっちゃんも父親になったってことかな?」
少しつまらなそうな様子で私の膝の上に頭を置きながら瑛庚様はそうつぶやく。確かにナーダムに瑛庚様はほとんど参加されておらず、今回は特に蚊帳の外感が強かったかもしれない。
「でも赤毛の馬が殺されたって話はあれはちょっと違う」
ほどかれた私の髪をちまちまといじくるようにしながら、そう瑛庚様はいう。
「あの時の赤毛の馬の持ち主はじいちゃんだったんだ。単に愛馬が取られるのが嫌だったというより、戦が終わったばかりで自分の尊厳まで奪われるような気がしたんだろうな」
広大な土地を移動しながら生活する遊牧民ということもあり、戦が長期に渡れば渡るほど国の損益が大きくなると判断し停戦に持ち込まれた。その戦で明らかな勝敗がついたわけではなかったが、ナーダムの会場が我が国となり、力関係を誇示したことにもなる。
「属国になったわけではない――ってことをじいちゃんは示したかったんだと思うな。でもやっぱり先帝は激怒してね。赤毛の馬を殺そうとした」
「そう伺っておりましたが……」
「それを止めたのが母上だったんだ」
「皇太后様が?」
瑛庚様はパッと起き上がると足を組みながら、私の隣に座る。話をする前から静かな興奮が彼から伝わってくるのが分かった。おそらくこれは何度も子供の時に聞かされた大好きな英雄談だったのだろう。
「そう。ナーダムの一番の目玉は競馬だけどさ、それ以外にも格闘技、競射が行われるだろ?その競射で母上が優勝していたんだ」
「競射で優勝?その当時から女性部門が存在したのですか?」
競射は一本矢が的に当たればいいという競技ではない。四本打つ矢がどれだけ的の中心に当てられるかを競うため集中力と持久力が問われる種目でもある。されに遠くの的へ当てる種目もあり、やはり筋力の違いから男女差が出てしまうのだ。
そのため当初は男女混合だったが、女性が優勝できる見込みが全くないため女性部門が設立されたほどだ。
「今は女性部門も作られているけど、あの時は男女混合でやっていたみたい。でも母様は誰よりも正確に弓を射ることができる名人でね――」
『母上』が自然と『母様』に戻っていることに思わず笑みがこぼれる。瑛庚様の心はもしかするとゲルの中でこの英雄談を聞かされていた子供に戻っているのかもしれない。
「じいちゃんと先帝が馬の件で揉めていたら、『競射で優勝した褒美として、馬の代わりに私を献上させていただけませんか』って提案したんだ」
皇太后様がさっそうと現れる姿が何故だか目に浮かぶような気がした。
「馬の代わりですか?」
「そう!后妃にしてくれって頼んだんだ。本当は后妃になるつもりもなくて、新しい弓を優勝賞品としてねだろうと思っていたらしいんだけど、このままじゃじいちゃんも馬も殺されかねない――というより戦が勃発しかねないってことで慌てて提案したんだって」
「かっこいいですね」
嬉しそうに話す瑛庚様に水をさすような気がしたので言わなかったが、皇太后様はどんな気持ちだったのだろうか――と考えると少し胸が痛くなった。遊牧民として男の間に交じり実力を認められ自由に生きていた族長の娘は、伝統や仕来たりを重んじる後宮は死ぬほど窮屈だっただろうか。
今は皇帝が遊牧民族出身ということで文化が融合している部分があるが、当時は蛮族として冷遇されていた可能性もありそうだ。
「そんな母様の勇ましい振る舞いが目に止まり、先帝の寵愛を受けて俺達が生まれたわけなんだけどね」
寝物語として子供に聞かせるならば完璧な終わり方かもしれないが、現実問題はそんなに甘くはなかったのだろう。もしかすると二人の子供の命が狙われた時、後宮を出る以外にも方法があったのかもしれないが、皇太后様は『あえて』後宮を出たのかもしれない。
「でも母様が競射で優勝してから、后妃の席に空きがある場合、女性部門の優勝者は後宮に入ることができるっていう伝統もできちゃったみたいでね。俺達の遠縁にあたる子が今回優勝してね。后妃の一人になるみたいなんだ」
遊牧民族との関係性からいくとおそらく空席が目立つ従一品もしくは正二品あたりの后妃につくのだろう。
「それは楽しみでございますね」
私がそう言うと、瑛庚様は私の頬を両手でパシリと挟み込んだ。
「あのさ、そういう時は『どんな娘ですの?』とか『仲がよろしいんですの?』とか聞くべきじゃないの?」
「なぜですか?」
「いや、后妃が増えるんだよ?普通嫉妬するでしょ」
そう言われてようやく彼の言いたいとすることの意味が分かった。どうやら彼は私に嫉妬してもらいたいらしい。
「それは心配でございますね。陛下のお渡りがなくなられるかと思うと、私、心配で心配で夜も眠ることができませんわ」
「なんだよそれ。めちゃくちゃ棒読みだろ」
「以前、林杏が借りてきた恋愛小説の一説にございました。林杏が『陛下にこう言うんですよ!』ってアドバイスしてくれたんですよ」
林杏が個人的に恋愛小説が好きというだけのような気がするが、仕事中に読む口実をつけるために時々「陛下の寵愛を受けるための勉強です!」といって読み聞かせてくれていた。
「だから林杏を手放したの?」
瑛庚様の言葉に私は静かに首を傾げる。
「馬が殺されたって噂を聞いて、林杏も同じようにならないかと心配したんだろ?」
「宮女の命は后妃様方からすると本当に軽いですからね――」
今の時代ではないが、時代によっては后妃らの遊びによって宮女の命が奪われることは多々あったという。
名門一族出身の美雨様のことだ。私が林杏を手放すことを拒んだ結果、林杏の命が狙われる可能性も多々あるだろう。
「今からでも遅くない。俺が美雨に言って林杏を戻すようにしようか?」
その提案を私は小さく苦笑して却下する。
「瑛庚様、それには及びません。確かに林杏はいなければ寂しいかもしれませんが、いない方が仕事は捗るんですよ」
そう言って笑いながら私は小さな事実を隠した。
入宮時代から支えてくれた林杏は、私の中で『お付きの宮女』から『妹』のような存在になっていたのだ。
そんな彼女を手放したのは林杏の夢を叶えてあげたかったからだ。林杏は私が后妃になり、そのお付きの宮女として出世することを夢見ていた。だがもし私が后妃になったとしても、後ろ盾がない私は風が吹けば粉々になるような存在だ。それならば私の元にいるよりも美雨様の元にいる方が確実に上を目指せるに違いない。
あの林杏が本当に上を目指せるかどうかは、別の問題なのだが……。
【御礼】
多数のブックマーク、評価ありがとうございます。
1話あたりの文字数が少なくなってしまったこともあり、流星王編が連続殺人事件並みに長くなってしまい申し訳ありません。
次回から新エピソードが始まります!再び後宮ドロドロ事件に入りたいと思います。





