后妃と宮女
「それは……、この者を宮女ではなく后妃に取り立てろということか?」
後宮には千二百人程の女性が暮らしているが、大きく分けて『后妃』と『宮女』に分けることができる。陛下の寵愛を受けるのが『后妃』で、後宮のために働くのが『宮女』だ。
形式上、分類しているが全て皇帝陛下の物であることに変わりはなく、宮女と陛下が関係を持つことも可能だ。そして陛下からの寵愛を受けた宮女は、后妃に取り立てられる。
「蓮香様はお目が悪いのですが、それを理由に様々な嫌がらせを受けております。もし陛下からのお渡りがあれば、この状況が改善するかと」
「それでしたら従三品の后妃の座が空いておりますので、そちらに取り立てましょうか?」
皇后様は林杏の不躾すぎる要望に意外にも乗り気なようだ。私の先ほどの発言が気に入ったのだろうか……。皇后様の後押しも入り陛下も「それなら」とにわかに私の后妃入りが決定しそうになり、背中に冷たい汗が伝う。
従五品から従三品への取り立ては大抜擢だが、それでは私が機織りを続けられなくなってしまう。それだけは避けたかった。だがこの場で反論することを許される言葉が、にわかに見つからない。悪戯に時間は過ぎ、喉がジワジワと渇いていくのが分かった。
「陛下。おそれながら蓮香は、国家に代々伝わる秘伝の技術を使う機織り宮女でございます」
恐ろしい流れに一石を投じてくれたのは、小芳様だった。
「陛下の即位や皇后様ご就任の際など重要な式典で使われる帯を織ったのはこの者です。後任の者を探すために時間をいただけませんでしょうか」
「そのような重要な役職にあったとは……。后妃に取り立てるのが難しいならば、私が明日、その者の部屋に行くのではどうだろうか?私からの渡りがあれば、嫌がらせは減るだろう」
「ありがたき幸せにございます」
頭を床に押し付けながら、そう言う林杏の横で私は仕方なく「ありがとうございます」と口にするしかなかった。
「勝手なことしないでちょうだい!」
自室に帰り林杏と二人きりになり、私はおもむろに叫ぶ。
「何でですか?こんなところで機織りしているよりも、よっぽどいい生活ができますよ?后妃の一人になったって、何百人といるんですよ?陛下のお渡りなんて最初ぐらいですよ。私、ずっと機会をうかがっていたんですよ」
「そういうことじゃないの!」
私の怒りは林杏に全く伝わっておらず、『むしろいいことをした』というような調子にさらなる怒りがこみ上げてきた。
「私の全てが機織りなの。子供の頃から糸の音を聞いて、図案を読み解いて……機織りをするためだけに生まれてきたの。それを取りあげられたら……」
「そのようなことは致しませんよ」
背後から突然、そう声をかけられて私は慌てて振り返る。小芳様だ。
「陛下には後任の者を探すとお伝えしましたが、代わりの者などいないのでしょ?」
私が後宮の宮女となる時、村ではいくつかの試験が行われた。何人もの少女がそれを受けたが、技術を完璧に習得しているのは私だけだった。勿論、後任の育成にも力を注いでいるだろうが、数十年先を見越してのことでしかない。
「そなたの村の者ももう少し考えてくれればいいのにね……」
そう言うと小芳様は私の髪を母親のように優しく撫でつけてくださった。後宮に入った時から私の生い立ちに同情してくださり、仕事外ではこうして本当の母親のように優しく接してくださっている。
「このような美貌を持たなければ誰の目にも止まらなかったであろうし、林杏もあのような愚かな考えは持たなかったであろうに」
「美人揃いの宮女の中でも蓮香様は頭二つぐらい飛びぬけていますもんね。絶対后妃になれば正二品ぐらいは狙えると思うんですけどね~~」
全く反省していない林杏の様子に小芳様と私は同時に大きくため息をつく。
「林杏、罰としてこれから衣庫の清掃を命じます」
「えぇ!!!! 今、夜中ですよ?!」
「普通の時間に掃除をさせては罰になりませんからね。さ、いらっしゃい」
小芳様に引きずられるようにして林杏が部屋から出て行き、ようやく私は一息をついて近くにあった長椅子に座った。
「とんだ災難だったわ」
そう呟きながら手を伸ばした瞬間、一冊の本に触れる。表紙やページは擦り切れておらず、まだ新しい。おそらく林杏が『返しそびれた』と言っていた本なのだろう。
「仕方ないわね……」
私は本を手に立ち上がり、書庫へ向かうことにした。途中まで林杏と歩いた道だ。一人で行けるだろう。
案の定、開かずの間までは問題なくたどり着けた。あと少しだ……と気合を入れようとした瞬間、金属の扉から白檀の香りが漂ってくるのを感じた。あの醜聞を消すために誰かが清掃に入っているのだろうか。だが衣擦れの音や足音はどこからも聞こえない。
例えそれが寝ているだけだとしても、人がいればその息遣いが耳に届いて来る。それがないとするならば、香だけを焚いたのだろう。確かにあの匂いは強烈だった。そんなことを思いながら、開かずの間を通り過ぎようとすると
「ありがとう。私の想いを守ってくれて」
という声と共にフワリと肩に温かい空気が漂い、先ほどまで漂っていた白檀の香りが消えた。次の瞬間、私は手に持っていた本を床に落とし、悲鳴に似た叫び声を上げていた。