皇帝と機織り宮女
微かに冬の香を含んだ夜風を頬に感じながら、私は全速力で『開かずの間』に向かって歩いていた。
芍薬は、前皇后様が好んでいらっしゃった花で、庭園一面に芍薬を植えたことから『芍薬の君』と呼ばれたこともあったほどだ。そんな芍薬を一本。つまり一人で前皇后様がいた部屋に来いということだろう。
開かずの間の金属の重い扉をソッと押してみると、それは以前のようにアッサリと開く。そして中から聞こえてきたボソボソという低音の会話はピタリと止まり、何かを吹き消す音と共に微かな焦げた匂いが漂ってくる。
突然の来訪者を警戒して、ろうそくを消したのだろう。
といっても特に暗闇だからといって私にとっては何も問題はないので、ゆっくりとろうそくの匂いがする方向へ歩く。
「蓮香です。陛下……?」
おずおずと聞くと、パタパタと二つの足音が近づいてくる。
「蓮香、大丈夫か」
と言って耀世様が左手を取り、
「意外に遅かったな~~」
と言って瑛庚様が右手を取った。
「あ、あの大丈夫ですよ?」
冷静に考えると三人でこうして言葉を交わすのは初めてだったので、にわかに緊張が私の中で走る。
「まず、謝らせてくれ。私がふがいないばかりに命の危険にさらしてしまった」
私を椅子に座らせると、耀世様が勢いよく頭を下げて謝罪した。
「とんでもございません。全て私の不注意が招いたことでございます」
「俺も……貴妃を説得できなかった。本当にごめん」
瑛庚様にもそう謝られ、私は慌てて首を横に振る。
「本当に大丈夫ですから。数日間いつもと違う場所にいただけですよ」
確かに事の始まりは全て彼らと関わったのが原因だが、ど庶民の私からすると皇帝が頭を下げているという事態に思わず恐縮してしまう。
「それで私達は考えたんだ」
顔を上げた耀世様はおもむろにそう切り出し、瑛庚様が
「蓮香を後宮から出してあげるべきだって」
と、耀世様の言葉をつなぐようにして提案した。
「今日、そなたがここで何者かによって殺されたことにし後宮を出す。勿論、外で生活できる方法を考えている」
「前に蓮香が言っていただろ?『死んだことにすればいい』って」
『どうやって後宮を出るか』という話に及んだ時、瑛庚様に、そう提案した記憶が微かに蘇ってきた。
「追い出すんですか……?」
「これ以外、そなたを守る方法が分からない」
「一番いいと思ったんだ」
自信満々な二人の様子に私は思わず下唇を噛む。
「以前……、賭けをしたことを覚えていらっしゃいますか?」
「賭け――」
「私が初恋の幼なじみを見つけることができたら、その者と一緒に後宮を出ることを許していただけると」
数か月前の約束だが、既に何年も前の出来事のように感じる。私は静かに息を吸って心を落ち着ける。緊張しているのだ……。これから言う言葉を口にしたら、もう引き返せないことは分かっていたからだ。
「お二人だったのですね」
「「え?」」
二人の言葉は見事なまでに、ぴったりと重なりあう。
「だから、あっさり『初恋の人』を見つけられた」
私が与えた情報は本当に雲をつかむような情報でしかなかった。国家権力を最大限活用しても、おそらく本人達でなければ私の『初恋の少年』など見つけられなかっただろう。
「そして以前、候補者の男性を五人集めてくださいましたが、その中に耀世様が並ばれていたのも……悪戯ではなかったんですね……」
耀世様も『初恋の少年』であるという事実は間違いではない。ただ私がその音と香りで耀世様だと思い込み、彼が『初恋の少年』である可能性を検討しなかったのだ。
おそらく瑛庚様は開かずの間の事件の際、私を見て『村で会った少女』であることに気付いたに違いない。そして私が『村で会った少女』だと分かっていたからこそ、本来は後宮には渡られない耀世様が私の部屋に訪れたのだろう。
「なんでちゃんと言ってくれないんですか……」
全て分かっているようなつもりでいながら、何も分かっていなかった私はまるで道化のようではないか。
「気付かないのは無理ないと思うよ。だってあの時は二人で一人の生活を徹底していたし」
瑛庚様はそう言って、そっと私の頭を撫でる。
「どっちのことを『初恋の少年』と認識しているか分からなかったから、言い出せなかった部分もある」
いつの間にか流れていた私の涙を耀世様がそっと拭きながら、そう慰めてくれた。
「では――、あの時の賭けはまだ有効でしょうか」
ここに来るまで……いや、あの小広間で皇太后様の存在を知った時から考えていたことではあった。
「「え……?」」
しかし二人は再び見事に言葉を重ねながら、動揺した。
「私と一緒に、後宮を出ていただけないでしょうか?」
『初恋の少年』を私が見つけることができれば、その相手と一緒に後宮を出ることを許してもらえる……それが賭けの内容だった。
「そ、それはどちらを指してのことだ?」
耀世様の声ににわかに緊張が走る。
「確かに……どっちかが残れば皇帝としては機能するけど……」
瑛庚様の声も微かに震えている。二人にとって私の提案は全く予想していなかった物なのだろう。
「お二人でございます」
私が『初恋の少年』として、認識していた人物はどちらか一人ではない。この二人なのだ。
「それは退位しろということか?」
にわかに怒気を帯びた耀世様の声に私は静かに首を横に振る。
「さすがに、そのような恐れ多いことは申しません。ただ……待たせていただけないでしょうか。お二人が後宮を出ることができるまで」
「そんな日は来るのか?」
「きっと来ますよ」
瑛庚様の困惑したような声に、私は自信ありげに微笑んでみせるが、その時期は全く想像できなかった。だが彼らが不老不死ではない以上、いつか皇帝でなくなる日は訪れるだろう。
「それまで私は機織り宮女を続けて待っています」
突然ではございますが、51話にて第一章は終了でございます。
27日間、毎日更新できましたのも皆さまの温かい声援があったからでございます。
多数のブックマーク、評価、感想、本当にありがとうございます。
ただストックがなくなってきておりますので、きりがいいところで一度一週間程、お休みさせていただきます。
第二章では、蓮香の出生の秘密、さらにダメンズとして名高いヒーロー達の成長も描けていければと考えています。
今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。





