開かずの間の住人≪中編≫
「い、い、い、いました!!!蓉儀様の霊です!」
そう叫んだ林杏の口を私は慌ててふさぐ。
「静かにして。あれは蓉儀様ではないわ。」
「で、でも……皇后様の帯をしていますし……」
「確かに皇后様の帯の音はするけど、あの着物の作りは二十年前には存在しないの」
衣擦れの音で、どんな着物を着ているのかが大体分かる。廊下の先からは絹の衣が何枚も擦れるような音がしており、皇后様が着用していそうな着物一式を柱の向こうにいる女性は着用している。暗闇の中遠目で見たら『皇后様の霊』と信じてしまうのも納得だ。
少しするとパタンッと静かに金属の扉が閉まる音が聞こえてきた。その音を確認して、林杏の口をふさいでいた手を離した。
「現在の皇帝陛下のご生母様は遊牧民族のご出身だって知っているでしょ?」
「えぇ、三十年前に遊牧民族との戦があり、その和平のために嫁がれていらっしゃいました」
「陛下が即位されてから、遊牧民族の文化が取り入れられるようになり着物にも影響を与えたの。それが現在、私達が着用している着物。でも二十年前には存在していなかったものよ。確かに皇后様に見えるけど、あくまでも現在の皇后様に似ているだけよ」
蓉儀様の霊ではなく、その存在を騙る何者かなのだ。
「ど、ど、どうします?」
霊ではないと分かると、新たな恐怖が生まれてきたのだろう。林杏の声は相変わらず震えている。確かに私も霊よりも生身の人間の方が怖い。
「そうね……。いくつか方法はあるわね」
「といいますと?」
「見なかったことにして書庫に行く。相手を逃がして恩を売る。警備に引き渡して罰してもらう」
どちらにせよ相手を確かめない限り、どちらの選択肢を選ぶのが得か判断しかねる部分もある。
「ねぇ、警備兵を呼んできて頂戴。私達だけでは捕まえることすらできないでしょ?」
私は笑顔でそう言うと林杏は、なるほどと頷く。
「それでは蓮香様、ここでお待ちくださいませ」
そう言って私から静かに離れて行く林杏の足音が聞こえなくなるのを確認し、私はそっと立ち上がった。壁伝いに手を這わせながら歩くと、金属の扉が手に触れる。ここが『開かずの間』か……。
手に触れる扉の装飾にはホコリが付いておらず、何者かによってこの部屋が何度も使われたのが分かる。林杏を待つか……とも思ったが、この中にいる住人のために私はゆっくりとその扉を押し開いた。
部屋に入ると思わず顔をしかめたくなる程の汗の匂いが充満していた。その香りに隠れるようにして香水の香りが微かに鼻に届く。おそらくこの部屋は暗闇なのだろう。だが、私は住人がどこにいるのか手に取るによう分かった。この強烈な香りをたどっていけばいいのだ。
香りにつられるように部屋の最奥へと足を向けると、手の先に木の扉が触れた。香りはこの扉の中から漂ってくる。おそらく大人二人が隠れられるような大きさの衣装棚か何かだろう。中からは微かに布を握りしめる音が聞こえ、その推測は確信へと変わる。
「もう少しで警備の者が参ります。着物をご着用くださいませ」
私の言葉に中からビクリと震える振動が伝わってくる。
「皇后様付きの宮女様と宦官のお役人様でございますね」
局部がない宦官が性行為を行うと、ひどく汗をかくという。この部屋に漂う汗の香りはそれが原因なのだろう。
「み、見逃してください」
慌てて着物を着用している音と共に、彼女はそう言った。
「本当のことを教えてくださいましたら、見なかったことにいたします」
「本当のこと……?」
その言葉と共に恐る恐るといった様子で昼間私の部屋に来た宮女が顔を出した。
「あなた様は皇后様付きの宮女ではございませんね」
「なんで……それを」
「皇后様付きの宮女にしては、知らないことが多すぎます」
あえて言葉には出さなかったが、彼女の品のない所作もその理由だ。皇后様に仕える宮女となると、貴族出身の娘ということが多い。そのため自然と所作も優雅なのだが、彼女からはそれが感じられない。
「わ、私が悪いんです」
飛び出すようにして出て来た男性がそう言う。
「私が気持ちを抑えられなかったばかりに――」
そんな彼らの言い訳の後ろで微かに十数人の重い足音が聞こえてくる。
「もう時間がありませんわ。警備の者が参ります」
「それでは見逃してもらえるの?」
宮女に腕を掴まれ私は笑顔でその手を振りほどく。
「だって私、最初から何も見えておりませんもの」
「あんた……」
宮女は私の言葉に感動して涙ぐんでいるが、全くの誤解でしかない。宦官との不義は後宮において重罪。だが、こんな小物を捕まえても得にも損にもならないから放っておくだけだ。変に彼らを捕まえて悪目立ちする方が損になる。
「さ、早く」
私は二人を『開かずの間』から逃がし足音が遠くなるのを確認して、その場に座り込む。背後から聞こえてくる無数の足音が徐々に近づくが、ある距離まで近づくと小さな足音がその中から抜け出すようにして足早に駆けつけてくれた。
「蓮香様!! 待っていてって言ったじゃないですか!!」
泣きそうになりながら私を助け起こす林杏に、心の中で小さく謝罪する。
「扉を開けたら中から人が出てきて……」
まるで先ほどぶつかったかのように伝えると、
「中には誰が?! 顔はご覧になられませんでしたか?」
衛兵の一人が近づいてそう質問する。
「申し訳ございません。私目が……」
「こ、これは失礼いたしました」
何も嘘は言っていない。恐縮した様子で衛兵は私から離れると、何やら部下に人を探すように指示をしている。だが既に時遅しだ。おそらく宮女と宦官は既に逃げているから捕まらないだろう……と胸をなでおろし、林杏と書庫へ向かおうとした瞬間、意外な声が遠くから聞こえてきた。
「いました!!!! 皇后様の姿をした宮女と宦官がおりました!!!!」
あいつらバカなのか?
私は心の中で思わず突っ込まずにはいられなかった。