大いなる眠り《其の六》
「しっかし、可馨って何者だったんでしょうね……」
新しい部屋での生活が嬉しいのか、心なしか足取りが軽い林杏。その態度とは裏腹に少し声色は暗かった。
「あれですかね……幽霊ですかね?」
少し嬉しそうにそういう林杏に私は小さくため息をつく。
「死んだのは男でしょ」
「でも、他の局にあたっても可馨なんて宮女いないんですよ。名前は同じでも全然見た目は違ったし……」
「そうでしょうね。あの子は宮女ではないわ。そもそも可馨という名前ですらないのかも……」
私は機織りを続けながら、当然の事実であると伝える。
「そういえば――、今日は出入りの商人たちが集まる日よね?麻花を買ってきてくれるかしら?」
「まだ根に持っているんですか?」
「早くいかないと商人達が帰ってしまうわよ」
早く行けと手を振ると、ようやく林杏は渋々といった様子で部屋を出て行った。
そんな林杏が一時間後、部屋へ戻ってくる際、一人の少女を連れていた。
「蓮香様!いました。いました!可馨ですよ!!」
「でしょうね」
最初に彼女に会った時から彼女が宮女ではないことは分かっていた。淑妃様付きの宮女となれば、高価な香を焚きしめた着物を着ているのが普通だ。ところが彼女からは古い油のような香りがしていたのだ。
「麻花……いただけるかしら?」
「えぇ?! なんで彼女が麻花売りだって知っているんですか?」
林杏がまだこの少女の正体について理解していないことに小さくため息をつく。
「だって被害者の男性は麻花売りなのよ。あなたは――妹さん?」
「いえ……妻でございます。妻の依依と申します」
その独白は私の予想を裏切ったことに驚かされる。声の調子から十代半ばぐらいの少女を想像していたのだ。
「私達一家が営む麻花屋は本当に小さな店でございます。それでも後宮へ品物を卸せるのは夫が宮女様方の心を掴んだからだ……ということは理解しておりました」
遺体にはその名残りはなかったが、おそらく淑妃様やその周辺の宮女らが心を奪われる……ということはかなりの男前で口説き上手だったに違いない。
「そんな夫が泊りで仕事をするようになったのが、四年前のことでございます。最初は朝方に帰ってきましたが、段々数日おきに帰ってくるようになり、三年前にとうとう帰らなくなってしまいました」
おそらく監禁された時期が三年前なのだろう。
「最初は仕事が嫌になって女と出奔したのかと思っておりました。ところが淑妃様付きの宮女様から注文を頂き、その注文の中に夫しか知らない新商品の名前があったので夫が後宮にいるということに気付きました」
「助けを求めていたのかしら……」
私がそう言うと依依は自嘲気味に笑いながら首を横に振った。
「最初から助けだって分かっていれば良かったんですが、私は『後宮で幸せにやっているぞ』という夫からの伝言だと思っておりました」
その声には悔しさと自責の念が込められているのを感じた。もし三年前に動いていたならば……そう考えたくなる気持ちは分からなくもない。
「監禁されていたようだし……文も書けないものね」
おそらくあの淑妃のことだ、男の一挙手一投足を見逃さなかったに違いない。
「そんな注文も一年もすると無くなり、とうとう私のことも忘れたのかな……と思ったのですが、先日後宮へ麻花を売りに参りましたところ、淑妃様の部屋で怪奇音が鳴るという噂を耳にしました」
「それで死んでいると思ったわけね」
「はい。男子禁制の後宮で、夫が生活できるとすれば閉鎖された場所だとは思っておりましたが、怪奇音と噂されるということは死んでいる可能性もあると考えたのです」
林杏とは違い、なかなか洞察力と行動力がある。思わずその推察に感動すると共に一つの妙案が思い浮かんだ。
「ねぇ、麻花屋は続けるの?」
「いえ……後宮で不祥事を起こした夫が営んでいた――ということで、今月で出入りはできないと言われました。おそらく都ではもう営業はできないでしょう……」
「それなら、ここで働かない?」
「え?!」
そう驚きの声を上げたのは依依だけではなく、林杏もだった。
「以前の部屋より大きな部屋に移ったから宮女を増やすよう言われていたんだけど、なかなか適任な宮女がいなくてね。働いてもらえると嬉しいのだけど」
「私めなぞに、そんな大役務まりますでしょうか?」
「といっても私は后妃ではないし淑妃様のように身分が高いわけでもないので、苦労をかけると思うけど……」
「でも蓮香様はそんじょそこらの宮女とは違うんだからね!」
既に先輩風を吹かせている林杏に思わず吹き出しそうになる。
「なんたって、この後宮で一番、陛下からお渡りがある宮女なんだから!」
「林杏様……。このようなことを私が申しあげるのは、差し出がましいとは思うのですが……あまりそのようなことは公言しない方がよろしいかと思います」
ここにきてようやく常識人が宮女になってくれそうなことに、思わず喜びの声をあげそうになった。
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